となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

沖縄タイムスで取材を受けました

2010年03月12日 | カテゴリー: ニュース

本日午前中に新聞社の「沖縄タイムス」で取材を受けました。
写真は、学芸部の玉城淳さんと。
掲載は3月下旬予定です。

本日琉球放送ゲスト出演

2010年03月12日 | カテゴリー: ニュース

本日のRBC-iラジオ「団塊花盛り」のオンエア時間(収録済み)は、22:30前後に決まりました。

写真はパーソナリティーの柳卓さん、沖縄の友人ちゃまと。

北海道うまいもの店

2010年03月12日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

北海道では手袋を履くと言います。これを話題にすると内地の人は首を傾げて、はめるでしょうと切り返します。履くという行為はヘソの下からの行為で、着るがヘソの上、手袋ははめる、帽子は被る。しかし手をヘソの下に持ってくれば履くではないか、などと屁理屈を言ってみます。
果たして沖縄の人は手袋を何するというのでしょう。それ以前に寒くて手袋をする行為があるのでしょうか。

昨日デパートの一隅で「北海道うまいもの店」を開いておりました。
赤い幟が故郷を思い出させました。鮮魚、干物、野菜、揚げ物、などなど懐かしい故郷の物産が並んでおりました。しかし漬け物は一つも出ておりませんでした。
沖縄の人は手袋をしないように漬け物もあまり食べないんですね。
朝の丸いちゃぶ台の上には丼山盛りの漬け物があったものです。
毎年毎年秋になると母は大きな樽に大根を漬けていたものです。
母がいなくなって独りになった父が漬けていたキャベツとキュウリの浅漬けは絶品でした。

今日は昨日より機嫌の良い青空がホテルの窓から見えています。
外はどんな3月なのでしょうか。

★沖縄3日目、沖縄県読谷村/CROSS ROADS(クロスロード)
「山木康世 Live Library 2010」
~世界遺産城(ぐすく)巡りライブ・ツアー in 沖縄(うちな~)~
はじまりー、はじまりーお待ち申しております。

(山木康世)

山羊にひかれて

2010年03月11日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

僕が初めて沖縄に行ったのはデビューの年、1974年「白い冬」が売り出された直後のこと、JALのイベントでダカーポと一緒だった。歌が売れると言うことを肌で感じ始めた頃のことだ。ダカーポはすでにデビューしていて「結婚するって本当ですか」が売れ始めていたいた。男女デュオのダカーポは息の合ったハーモニーを聞かせた。その後二人は夫婦になるのだが、今でも根強く活動を続けている。

プロとして仕事を始めた実感をひしひしと感じた初めての沖縄である。
沖縄に着いたときの第一声は「アツー、何この暑さ、故郷じゃ初雪の便りが聞こえると言うのに」そして驚いたのは、まだ返還直後でアメリカ文化が色濃く街を染めていたということだ。空港直ぐ横の入り江にはベトナム戦争で使用したと思われるアメリカ軍のカーキ色、迷彩色の車両や船舶が数多く見受けられた。最前線と言おうか、アメリカの植民地のような感じだった。

車は左ハンドル、右側通行、空港にはイエローキャブ並みの南国らしい派手なタクシーが並んでいた。乗り込むと深いシワが刻まれた浅黒い目鼻立ちのはっきりした運転手が迎えてくれた。
車内は日本だ、というよりやはり南国の感じだった。窓を開けると湿った生ぬるい海洋性の風が吹き込んでくる。空には勢いよく流れる白雲が見える。高い山がない沖縄は平坦な島というイメージだったが、道は山あり坂あり、クネクネと北海道では考えられない道幅の狭い道をタクシーはノンビリと独特の民家の建ち並ぶ住宅街を突っ走る。

沖縄は台風が良くお邪魔するので、壊されないように石造りの塀が家を守っている。家々の瓦屋根にはシーサー(獅子さんの意)という 魔除けの一種で素朴な焼物の唐獅子像が夫婦で仲良く座っていた。これはかなりのインパクトがあった。沖縄は信仰の深い土地である。ご先祖様を敬う、古いしきたりを生活に普通に取り入れている。実に性に合う。

ホテルの宴会場で行われた打ち上げの席で、沖縄の民族舞踊を披露された。初めて見る踊り、聴く音楽にすっかり魅了された。ここは本当に日本なの。そして2次会で連れて行かれた民家風の居酒屋で山羊の金○、亀の刺身、色鮮やかな南国熱帯魚の刺身などを泡盛という焼酎とともに鱈腹頂いた。この先何度か訪れるであろうこの街を僕はすっかり気に入ってしまって山羊にひかれて街を散策する夢を見た。

しかし肝心のダカーポとの仕事の現場は記憶の断片も残っていない。これは脳のなせる業の一つで衝撃的で記憶に値するものから順番に近い方の引き出しに入れてあるのだろう。ということは仕事は色あせたあまり興味のない現場だったのかもしれない。帰りの復路の思い出と言ったら空港にあった免税店でタバコを買ったくらいか。免税店というのも国内では考えられないシステムで外国らしかった。

今親しくしている沖縄の数多くの知人友人は、まだこの時点ではお目にかかっていない。未知との遭遇はその後訪れて、ますます山羊にひかれて思えば遠くへ来たもんだとなるわけである。数えて何度目の沖縄であろうか。
さぁ赤いハイビスカスがお待ちかねだ。

(山木康世)

沖縄初日

2010年03月11日 | カテゴリー: スタッフ・ダイアリー

エフエム沖縄「For PM」に生出演しました。写真はパーソナリティの野底さんと。
そして、その後はヘアカット。

宜野湾市の「ザ・だんぱちや~ ボ~ク~」というお店です。
店長の松本さんは山木康世の大ファン。もちろん今回のライブに参加されます。

蓼食う虫も好き好き(第82回アカデミー賞考)

2010年03月10日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

蓼食う虫も好き好き(第82回アカデミー賞考)

「アバター」もエクボ。「ハート・ロッカー」はコクボウ。オリンピック開催直前にさんざんな目にあったのが石狩出身のコクボ。
アカデミー賞はアメリカで、戦前の1928年から始まった世界最大規模の映画賞。会員4000人の映画人が投票して上位を決めるという。

「僕の作った作品では珍しいくらいの超娯楽大作さ。お金も時間もつぎ込んだ。それに3Dという未来先取りの映画でもある。これがハリウッド映画の決定版、大賞を取らなくて何が取るというのだ」
「彼も鈍ってきたわね。いくら時代がCGの時代と言っても、あそこまでCGだとアニメと何も変わらないわね。アメリカンコミックよ、簡単に言えば。でも中身はなかなか濃いテーマを扱っているのに、表面の評価が過大すぎて残念ね」
「昔はあいつも優しくていつも俺に気を遣ってくれた。まさかこんな大それたテーマの映画を撮るとは正直考えてもいなかった。戦争映画に足を踏み込むとは、クリント・イーストウッドばりだね。」
「あの頃の彼はタイタニックを地でいっていた。まぁ若さがそうさせるのね。あの同じ監督が今度はコミック。一貫性がないわね。若い頃ならまだしも歳行ってからの寄り道は危険ね。命取りにもなりかねないわ。でも人間って年取ってからの方が出鱈目になるらしいわね、古狸ね、彼もそうかもしれないわね」

元夫婦監督対決の映画賞対決はイラク戦争を扱った映画に軍配は上がった。
当然日本では半畳が入るところだ。まさに朝青龍を破った日本相撲人のごときである。
アメリカ人も最終で「アバター」を選ばず良心の断片を見せた。戦争状態にある御国がこの映画を選んだら、世界から良識を疑われたろう。
国内からもブーイングの嵐だったろう。
彼は惜しみない握手を贈った。なんてヒューマンなのだろう。アメリカ人は惜しみなく表面で敵に塩を贈る。しかしこの塩は海水から摂ったそのままの食えない塩かもしれない。
彼女も、この映画をイラクで戦っているアメリカの兵士に捧げますと言ったとか言わなかったとか。ヒューマンだ。

アメリカ人は、自分たちも世界の中心にいると思ってイラクで死んでいった中東の人たちにはあまり関心がないようだ。それよりも正義の警察は地球上のどこへでも平和のためなら駆けつけますと半ばお節介のごとき介入してゆく。
しかし言うことを聞かない相手には容赦なくガンをぶっ放す。正当防衛ならまだ分かるが、所詮都合の良いように振る舞っているだけだ。自国の利益が一番。

年末年始にかけてテレビで「アバター」がさんざん流れた。僕も平日観に行ったが満員御礼、残席は一番前だった。異常な混雑ぶりはテレビのせいだ、と毒づきながらSD用眼鏡をかけて自分もそうだったのだからおかしい。

ここまで情報が氾濫洪水状態の現代は昔のように、それぞれが好き嫌いを言ってランキングが決まるなどと言うことはないのかもしれない。みんな知らないうちに操作されて、蓼食う虫も好き好きではなく、田で食う虫も好き好きという感じで足を運んで勝手に大賞の話題など知ったかぶりでブログに書いたりする。

今でも、もっと小粒でピリリと蓼のように辛い映画がどこかでは制作されているんだろうな。知らないだけか。映画館を揺さぶるほどの大音響と矢継ぎ早の展開ではなく、隣の人の飲み込む唾の音が聞こえるほどの静けさの中、じっくりと人間の間合いを感じさせる映画が観たい。

知人が言っていた。「黒沢映画はカラーになってつまらなくなった。白黒の画像は映像にならない映像をそれぞれの脳でイメージしやすかった。色が2色なだけに意識を集中して深みがドンドン増してくる。これがフルカラーになると色が邪魔して確信に入って行きづらい。」本当にそうかもしれない。今度は3D、飛び出る映像の世界だよ。死ぬまで両方の目を大事にせにゃあかんね。

(山木康世)

3月12日(金)琉球放送出演

2010年03月09日 | カテゴリー: ニュース

毎週火曜日~金曜日のPM7:00~PM11:00で生放送されている番組「団塊花盛り」(琉球放送/RBC-iラジオ)。
12日(金)の番組中に山木康世がゲスト出演します。
(当日はライブ中のため、収録になります)
金曜日担当は、北海道出身の柳卓アナウンサー。
沖縄で北海道の話題が飛び出すでしょうか!?

父よ許せ。

2010年03月09日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

長年暮らしていた小さな家を解体することになった。誰がって学生のうら若き僕がである。本来は大工さんか解体屋さんが行うのであるが、なぜか父は人に出来て息子に出来ないわけがないと考えたのかお鉢が回ってきたのである。近頃は煙突掃除も一丁前にきれいに散らかさないで出来るようになった。ここはひとつ解体もやってみっか、全く父らしい。父流子育て。

父は大学生の僕に「父さんは離れて暮らしているんで、仕事が終わっても手伝えない。土曜と日曜は一緒にやろう。それまで一人で怪我しないようにな、やってみろや」
何とも恐れ入谷の鬼子母神。玄能(大型の金槌)とペンチとバリ、ドライバーくらいしか工具がないというのに父はやってみろと言ってきた。
不安定な屋根に長時間いることすらやったことがないのに、どこまでできるやら。
札幌の雪解けの春風はまだ冷たく、軍手を通して冷たさが伝わってくる。

この家は父と母が結婚してすぐに本家から譲り与えられて住み始めた台所と2部屋の小さな家だった。りんご園の本家の門衛の家のような格好で建っていた。そして僕を含め子供が4人生まれた。お祖母ちゃんに抱かれた1歳頃の写真が残っている。「野良犬HOBOの唄」でアルバム中に納めた遠い日の家族の肖像。
それから3歳で僕らは羊蹄山の美原に移った。9歳までの6年間の思い出の美原が終わって、札幌に戻ってきてまた住み始めて東京オリンピックまで寝起きした思い出の家だ。

屋根にまたがって先ずトタン屋根を外しにかかった。一枚一枚剥ぐように音を立ててトタンは剥がされむき出しの正目の板が見えてきた。木造のこの家は物置が付いていて、壁に何カ所か節目の穴があり、その穴から外をのぞくことが出来た。冬の寒さに良く耐えたもんだ。
やがてマサもすべて外した。家の見取り図のようにむき出しの間取りが見えてきた。ここからが一番危険な解体だった。柱にしがみつき数十本の横の柱を取り除き、最後に縦の柱を取り除いた。

我が家のトイレは北側の一角に面していて、電気がなかった。夜は開けて用を足していた。その便所が眼下に見えている、お世話になりました。横の柱に器用に乗ってそんなことを思った、瞬間哀れ玄能は手を離れて落下してしまった。
見事に命中、ボッチャン、久しく使っていない便倉には、まだくみ取っていない代物がたまっていた。上部が空気の幕が張ってあるように沈黙を保っていた便倉に非常事態発生。にわかに臭いが春風に乗って上空へ上がってきた。「クッサー!」思わず落下しそうになり柱にしがみついた。あっという間の出来事に声をなくした。しかし我が身がはまることのなかった幸運をかみしめて、玄能の悲しい末路に涙した。ずっと玄能の行方は秘密だった。父にも生前話したことはない。

何日かかってどのような経過をたどって解体作業は終了したのか全く覚えていないが、この玄能落下不祥事は未だに鮮明に脳裏に刻まれている。落ちて行く一コマ一コマがスローモーションのようによみがえる。音を立てて飛沫を上げて、これは見ていないが、深く深く暗闇に落ちていった玄能の気持ちになって申し訳ないと思ったことは事実だ。
たいしたことない紛失事件であるが、未だに臭いものに蓋をしている。

父よ許せ。しかし父はくみ取った後、最後に玄能を見つけてちゃんと戻したかもしれない。几帳面で生真面目な父には十分考えられる事ではある。非常に似たような立派な玄能が今でも実家にある。父が僕の珍事をくみ取ってくれたかどうか、真相は闇である。

(山木康世)

JUMBOMartin

2010年03月08日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

今日も札幌中央区にあるYAMAHAにギターを見に来ている。
高値の花のマーチンはもちろん手が届くはずもない。しかしそれに準じたような日本の手頃なギターを物色中なのである。山木康世弱冠22歳の秋である。
ぱっと目にはマーチンかと思わせるような、フルコピーのギターもあるにはある。YAMAHAはオリジナルで勝負していて、音もかなりの良い線まで行っていた。
最後に残った候補が2本あった。YAMAHAとジャンボだ。

ジャンボはあこがれのマーチンの形をしていた。両者とも35000円。悩むところである。昭和47年頃の35000円は今で言う10万ほどの価格であろうか。学生の分際でバイトでためた10万を潔く使うのはかなり勇気がいったと思う。まさに清水の舞台から飛び降りた感じだ。
僕は最後の最後にYAMAHAを止めてジャンボにした。自分でもびっくりしたが、遺憾なく天秤座の性格が発揮された瞬間である。
ものを買ったらそのまま使うということをあまりしない。何かしら手を加えないと気が済まない。自分流にしてしまう。カスタマイズであるが、ことギターなどに素人が手を加えたりすることは厳禁である。
ある夜、僕はドライバーとペンチと金の棒ヤスリを片手にフレットの打ち換えを決行した。どうしてもギブソンのような平フレットが気にくわなかったのだ。鐘を転がしたような鋭い音がほしかった。この音はマーチンの独壇場であるが、フレットを打ち換えただけで出るものではない、ということは百も承知だったが、行ってしまった。その結果傷だらけの無惨なネックとなってしまった。今なら絶対逆立ちしてもやらない。ろくな工具もなく、万力もないところで綺麗に出来るはずがない。
銀色に輝いていたフレットは多少黄色っぽいフレットに12フレットまで変わってしまった。弦がびびって音が濁るフレットは丁寧にヤスリをかけた。何とか徹夜でマーチンらしいジャンボギターの完成となった。
しかしヘッドの文字がJUMBOではMartinにほど遠い。そこで最後にプラモデルの手業でMartinに書き換えた。友人のKが、Martinを買ったので半紙に字体を写して、JUMBOを消してMartinにした。since1950もさりげなく入れた。
得意がってコンテストに出たものだ。このギターで道が開けたと言っても言い過ぎではない。デビューしてしばらくはこれを使っていた。
彼の岡林某もこのギターをMartinと信じ切って中野サンプラザで、自身のギターの弦が切れたので代用に使っていた。何も申さなかった。
このJUMBOで「夕暮れの町」を創った。これを引っさげて上京、勝ち進み賞金を得たこともある。

札幌に帰ると部屋でいつも待っているJUMBOは38歳ということか。
その横には67歳のMartinがある。息子という年の隔たりはある。
あのころ机の上で蛍光灯の下、皆が寝静まった夜中コピーしたMartinは世界にひとつのMartinだった。JUMBO家からMartin家へ養子に行った35000円は、悲しいかな本家にはなりえないままで終わるだろう。
プロになって日の目を見ることのなかったJUMBOMartinはその後実に37年経った2009年「旭日東天」の裏ジャケットで日の目を見た。それも裏側の板目模様で日の目を見たのである。何と奥ゆかしいギターであることか。

(山木康世)

3月10日(水)エフエム沖縄生出演!

2010年03月07日 | カテゴリー: ニュース

☆3月10日(水) PM4:30~4:45
エフエム沖縄の「For PM」にゲスト出演いたします。
翌日から始まる沖縄ツアーへの意気込みを語りますよ!
※FM沖縄は87.3MHzです。

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