となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

安宅関勧進帳祭音始末記

2010年09月30日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

シトシト雨がベランダのテントを叩いている。一雨ごとに風は冷たく吹いて…である。
小松は安宅の熱い夜から6日が経った。

思い起こせば、すべては去年6月金沢のライブが終わって、後片付けをしていた時から始まった。
一人のお客さんから「小浜に行く途中に安宅というところがあるので、そこに寄ってみたら良いですよ。弁慶の勧進帳の公園がありますから」。翌日、立ち寄ってみた。なるほど「勧進帳」という言葉はよく聞くが、こんな話があったっとは知らなかった。五条大橋での出会いの編、続編と行こうか。よし、ここまで来たら最後の平泉の編まで書こう。3部作終了という大作に仕上げよう。そしていつの日かここで弁慶と義経の無念を納め鎮めよう。こんな感じの構想がここで、この安宅の浜で決まったという次第だ。

暗闇の地べたに焚かれた500本のろうそくは幽玄、深奥の世界へ誘った。
ここ2,3日の雨模様はすっかりどこかへ行ってしまい頭上には星が降り、満月に限りなく近い月が煌々と照りながら日本海海上より徐々に松の木陰の間から昇ってくる。
夜空に法螺貝が鳴り響き、横笛の怪しげなメロディがギターに絡みつく。
おまけに夜を支配する無数の虫が鳴きせがむ。「無情の世に今宵おたけびを、非常の世に今宵お情けを」

「やまもとさん」で始まった2時間の心の綾を書くまいと思っていた。書くにはあまりにも紙面が足りなすぎる。短時間で始末できるほど簡単、かつ単純ではなかった心の綾。
言い尽くせないほどの生涯初めての体験が終了してしまった。あっけないほど時間は経過した。実に当たり前のように経過した。

祭りの後の後片付け、弁慶立像の足下で一匹の蟋蟀が盛んに鳴きやがる。別れを惜しむかのように泣きやがる。近寄って目を懲らして探せど姿は見えず。あれは弁慶の生まれ変わり、魂に違いなし。「なぜなぜ鳴くの、ずっとここで鳴いていたね。今夜はありがとう、じゃ、またな早くお帰り」と声をかけてその場を立ち去ろうとしたら嘘のように鳴き止んだ。鳴いていたのか泣いていたのか。
僕はあの夜、弁慶に1000年の時を隔てて会ったと確信している。「やまもとさん」などという戯言の苦虫はジッとかみつぶし、蟋蟀の慟哭をこの胸はしっかりと死ぬまで忘れはしない。

後ほど、我が会報72号にて詳細、感想を述べる次第である。
(山木康世)

本日付「北國新聞」に記事掲載

2010年09月26日 | カテゴリー: スタッフ・ダイアリー

9月26日付「北國新聞」の地方版トップに昨夜の安宅関ライブの記事が掲載されました。

野洲森熊音始末記

2010年09月25日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

「ヤス、ヤス」母が呼んでいる。「ヤス、ヤス」姉も、兄も呼んでいる。「ヤス」父が呼んでいる。幼きころより呼ばれし通称「ヤス」は今夜滋賀県の「野洲」(やす)に登場でございます。
大阪は江坂を11時に発って急ぐ必要がなかったので、国道1号線を走って野洲市へ行くことにした。高速に乗ってしまえば1時間ほどで着くと言うから下を走って2時間半を予想した。ところがドッコイショ、ショはいらない。近頃周りでヨッコラショ、ドッコイショ、ヨイショなどという訳の分からないかけ声とともに腰を上げたり、ものを持ち上げたりする輩が増え続けている。これはいけない、こんな呪文を唱えるから年齢が忍び足で忍び込んでくるのである。この際止めにしよう。

11時に発ったが16時を回っていた野洲入り。京都で龍馬ゆかりの寺田屋などを見ようなどと思ったりしたが、次回持ち越しということに落ち着いた。大阪を発ってすぐに渋滞に巻き込まれる。京都で何とかなるだろうと思いきや、国道1号線は週末と言うことも重なってトラックが多く走って混雑状態、やはりニッポン列島ど真ん中、関西は活気がある。
そんなこんなで「森の熊さん」に着くや否や慌ただしく音合わせを済ませる。今までの経験上、音合わせがスムーズなときは本番が良くない。なぜか知らないがそんなことが多い。逆に芳しくないとき本番がすばらしかったりする。当てにならないリハーサル、人生に似ていなくもない。気が緩むのか本番は多少波乱含みの方が良いのである。気合い一発というやつである。

お店の黒と白、赤と白のビニール製椅子が愛嬌があって良い。これが高じて穴蔵的発想のお店になると御殿場のライブハウス「リンコロ」になるなと一人合点した。どうしているやらリンコロ。
明日は安宅の勧進帳である。練習ではない。決して演習ではない。何度も言うとそのように聞こえてくるから不思議だ。「弁慶と義経勧進帳の編」はかなり良い出来で終えることができた。突然リズムがなくなり自由プレイ、アドリブの世界を彷徨った。大成功である。一見出鱈目のように聞こえるかもしれないが、演奏者の脳裏には先行してあーしよう、こーしよーと言う時間差プレイをしているのである。まさに弁慶が富樫に見破られて、去来する不安、焦燥感、などをギターとスライドで波状攻撃する。聞き手にどのような波が伝わるか。果たしてどのような場面が脳に刻まれて行くか。こんな至福の時間はないのだ。思いっきりギブソンを押したり引いたり弾きまくる。45年でここまでやって参りましたというところ。ドッコイショも、ヨイショも、ヨッコラショもそこにはない。イケイケのみである。夢のような森の熊さんショータイムは過ぎて行きました。
みなさんありがとうの一言でございます。またお目にかかりまショー。
(山木康世)

大阪五番街音始末記

2010年09月24日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

東京を発って6日目、大阪へと歩を進めた。思えば秋の「2010 Live Library」豊橋、奈良、紀宝町、大阪である。

昨夜の熊野灘は猛暑から一転、秋へ向かうための自然の衣替えのような海だった。真夜中に煌々と照る月は中秋の名月、十五夜お月さんである。美原で子供のころ、ススキを立ててお団子をお皿に盛って窓辺で見上げた満月が同じ姿で熊野灘を照らしている。黒い海原に映る光のショーはまさに圧巻、これだけでドラマになる。点々と電灯をつけて漁船が数隻仕事をしている。イサキでも捕っているのだろうか。まことに美々であった晩飯のイサキ。イサキを全国巡って食べるツアーをイサキ巡りという。なんちゃって。

それから2時間、カーテンの隙間から光が点滅してる。見ると大きな雲の塊の向こうでなにやら光のショーが始まっている。稲妻である。音はせず、ただ光が不規則に天と地を点滅している。そのたびに海上を真昼のように浮かび上がらせる。あの雲は雷雲なのであろう。ひときわ大きく黒く空から垂れ下がっている。人間が作り出す爆弾の何万倍のエネルギーであろうか。これは何かの前触れか、良からぬ災いが降りかからなければ良い、明日は秋分の日である。猛暑への決別の稲妻であろう。

朝方、強い雨の音で目を覚ました。台風のように風と強い雨が海をたたいている。やはり海は怖い。鏡に映るように凪いでいた真夜中の海、稲妻に不気味に光る海、明け方の白波を立てて雨を風を受け入れる海、そして案の定、時間が経って東の空が薄赤く染まって新しい朝が到来した。今夜の天文ショーを一部始終とは言えないが、一部一部垣間見たダラニスケの心は大阪へ飛んでいた。久しぶりの5thStreet、大阪の空はどんな塩梅であろう。

黒いお揃いのTシャツを着たお店のスタッフは全員気の良い、ハキハキとした若者集団で気持ちが良くなる、壁に飾られたマーチンの名器がオーナーの心意気を示している。きちんとステージが尺高で作られており照明も効いている。紀宝町のフォークソングとは少々異なるが、こちらは都会のカントリーの味を出すお店というところか。カウンターにはバーボンが、フォークギターの小物が数多く並べられている。専門店の味を存分に出していて、雰囲気がポップコーンのようにはじけ飛んでいる。

「羊飼いの恋」は場内から手拍子とコーラスのような歌声で始まった。みんな待ち望んでいると出番を待機している。ステージ袖でうれしくなった。これで成功は間違いない。みんなの気持ちが手に取るように分かる瞬間だ。今夜の戦前生まれのマーチンはこよなく良い音で泣いてくれたようだ。その日の気分なのか、鳴りが微妙に異なる生の楽器はとても人間っぽい。ドブロもギブソンも悪くはないが、今夜の主役は戦前生まれだった。おそらくお店のマーチン熱に浮かれて同調したのだろう。古里に一時戻った鮭のような覇気を発揮した秋分の日のマーチンであった。

ライブが終わり眼鏡で乱れ髪のオーナーが楽器を片付けていた僕に近づいて「この部品を弦とネックの隙間に挟み込むだけで正確な調弦を約束します」といって木っ端のような小さな部品を贈呈してくれた。何でも古いマーチンは何かと調弦がやっかいとのこと。それを正すための小物らしい。特に2弦と5弦のなかなか合わない不具合を解消するという魔法の木っ端。明日からの戦前生まれは、ますます眼光鋭く、正確無比な音の粒をはじき出すことだろう。

奈良からの若きスタッフは北海道の音楽に興味を持っており、特に今夜のアンコール「冬銀河」におけるコーラスの皆の優しい顔に感銘を覚えたという。そして僕は触媒のような感じでステージにいると言っていた。言い得て妙である。まさに僕の作り出してきた音楽は共感、共鳴の世界かもしれない。歌謡曲のように華やかではないが、素朴で淡々と語りかける歌がフォークソングであると先般書いたばかりある。ますますショーアップされ見せる音楽がもてはやされる現代、何か大事なものが置き去りにされている感もない音楽界。魂の言葉などということはおそらく問題外であろう。おもしろい言葉、受け狙いの言葉、乱れに乱れきった若者言葉、この先を大いに案じる。困るのは当事者なのに、まったくすぐそこにやってくる自分たちの未来を眼中に置いていないような振る舞いに危機感を覚える。彼の心の研磨を期待して店を出た。ギターを2本持って駐車場まで手伝ってくれた。別れ際握手した右手は大きく厚く力強かった。店の前にはオーナーと娘さんが同じTシャツで手を振ってお別れしてくれた。

サヨナラ、サヨナラ、大阪は吹田、江坂の町の名ライブハウス、5thStreetよ、また会う日までしばしの別れだ。
(山木康世)

紀宝町音楽珈琲店民謡調歌曲達音始末記

2010年09月22日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

フォーク‐ソング【folk‐song】
(民謡の意) 一般にアメリカ起源の民謡調歌曲。1960~70年代に若者の間で流行。ギターの弾き語りなどにより素朴な旋律で民衆の情感、社会批判などを歌うものが多い。[広辞苑第五版]

三重県と和歌山県の県境に流れる妙なる雄大な流れ、熊野川。奈良県中部から和歌山県南東部を流れる川。大峰山に発源し、十津川となって紀伊山地を横断し、北山川を合せて熊野灘に入る。長さ183キロメートル。[広辞苑第五版]

まさにこの件にあるような大峰山を流れ出でたる神遊川(しんゆうせん。造語、神の遊ぶ川)熊野川に沿って190キロあまりを南下してきた。地図には高低差が書かれていない。平坦な道だと勝手に思い込むのは禁物だ。190キロをあなどるなかれ。実に6時間の移動となった。途中天河(てんかわ)大弁財天神社に寄り、おみくじ、お守りと寄り道した。引いた「くじ」は大吉なり。ここは芸能の神社であるとその昔に聞いたことがあり、いつかは訪れてみたいと常々思っていた。何という幸運な道沿いの寄り道に気分は上々。「だらにすけ」という丸薬はもしかしたら、この先に待っているであろう幸運の介添え役の一人かもしれない。僕は聞く。「道すがら電柱に次々と書かれた松谷某等の発売元のお名前で薬の違いはあるのですか?」主人曰く「みんな同じ」実に明快な答えをしてさっさと奥へ消えてしまった。しかし1000円の丸薬を買って、350円のおまけの太っ腹である。封を解けてご開帳の「だらにすけ」は昔、薄暗い天井裏で見つけたネズミのうんこ、そのものではあーりませんか。

ミュージックカフェ・フォークスのオーナーY・H氏とは以前東京でお会いしている。巨匠中川イサト氏とのジョイントで「店をオープンさせたらお呼びしますの是非来てください。」と熱く熱望された。と思い出したかったのだが記憶になく、その場に居合わせたロシア人から教えてもらった。watasi kiiteimasitayo。
あれから2年、店も1年半前に無事オープンとなった次第だ。オーナーは僕よりも一回り下の気の良いフォークマンだ。店に入ると何の音楽の店かすぐ分かった。壁には12弦ギター、バンジョー、ベース、マンドリンと飾られている。夜ごと繰り広げられているであろう音楽の傭兵たちがご来店ありがとうございますと語りかけてくる。本番前にいただいた「めはり寿司」は絶品だ。食べ物の味は塩加減でまずいうまいは決まる。ここの巻かれた高菜は100点満点。

続々と詰めかけるお客さんに、背筋がゾクゾク。今夜も「羊飼いの恋」で登場。
熱い視線の中、全19曲を歌いきった。アンコールではH氏のお心遣いのケーキをいただいた。36周年記念、今日がデビューの日であった。こんなおもてなしは良いモンだ。「シルバーランド」飴のプレートは壊すにもったいなく持ち帰った。今日から「ふきのとう」よりも長い「山木康世」ソロの日の始まりとなった。明日は23日秋分の日。昼と夜の時間が同じ日である。お先に失礼というところ。ありがとーみなさん。

カナダから熊野をこよなく愛して住み着いてしまったというN・W氏も同席してくれ話に花を咲かせてくれた。彼が日本人が忘れてしまった、日本の良さを満喫しているように、僕も熊野川を南下してきて、かなり利便性が悪いからこその紀宝町、新宮の良さを感じ入った一人である。山と森と川と海。それらが織りなす日本の原風景。森の奥から天狗が「元気かー、天狗にならずにがんばれよー、負けるなよー」年をとると高慢ちきになりがちだ。ジャラジャラと飾りをぶら下げ、指には派手な指輪を、人を食ったような言葉遣いで相手を見下す。フォークマンには絶対にない姿である。もしもこのような自称フォークマンを見かけたら人間ではなく天狗と思ってくだされ。しかしこの天狗は空も飛べず神通力も持っていないただのHanatareTenguと思ってくだされ。

晴れ男、まさに全開なり。熊野灘から吹き込む風と熊野の森から吹き降りる風が実に気持ちよく気を引き締め、さらなる前進を促してくれる9月22日の朝なり。
(山木康世)

奈良雲雀丘音始末記

2010年09月21日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

あー洒落もここまで来ると、ある種芸術的である。ビバリーヒルズ=雲雀丘、かなり苦しいが日本でもひばりヶ丘という地名はある。ロスの郊外、俳優たちが住んでいるというビバリーヒルズ、初めての見参である。
奈良は平城京として710年に藤原京から移り、784年平安京に移るまで栄えた。ちなみに平安京に遷都したのが784年10月22日と物の本に書かれていたことを思い出す。
その頃の時代に思いをはせて奈良の町を見渡すと、感慨深いものがある。奈良は世界に誇る東大寺、大仏、法隆寺があるだけでとても重要な町だ。まだまだ若草山、猿沢の池、五重塔、子供のころ北海道で植え付けられた奈良と言えばの関連用語が今でも浮かんでくる。
700年と言えば1500年ほど前の時代である。都が京都に移るまでの70年ほどの時代を奈良時代と称していた当時の人たちの信仰の深さ、人と人との関わりに興味を覚える。この後平安時代に移り、平安時代文学が一斉に花開くが、この素地を奈良時代が築いていたのだろう。

オープニングで「羊飼いの恋」を演奏した。このメロディーで、会場に集まった人たちの何人が色めき立っただろう。ガラリと容貌の変わった「羊飼いの恋」はこちらのメッセージは果たして届いただろうか。アレンジでガラリと変わる楽曲の持つ不思議さ。聴く人は脳に刻まれたメロディーをたぐり寄せて糸を紡ぐように完成させる。それがまずければアレンジは失敗だ。その目に見えぬキャッチボールを瞬時にしているのだから、ライブやコンサートは驚異的なのである。
何年経っても色あせないで、否むしろ鮮明にクッキリと迫ってくる歌ほど幸せな歌はない。時代の流行り物で終わってしまう短命な歌たちもいる。願わくば長命の、死んでからもなお生き残ってくれる歌を書かなくては嘘である。ますます残り少ない50代の日々を送っている僕に迫ってくるテーマである。
平安時代文学は1500年経っても我々の胸を打つ。
初めてのビバリーヒルズは大成功、大盛況のうちに終わった。近いうちにまたまた参上しそうである。今度は60歳の奈良参上。同じ歌をどのように表現しているか楽しみである。
オーナー、スタッフ、お集まりいただいたみなさんありがとうございました。
36年前のこの日デビューした。あの日を少しだけ思い出しながらこれから南下、三重県と和歌山県の県境の町、紀宝町へ歩を進める。
(山木康世)

豊橋狂気部屋音始末記

2010年09月20日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

豊橋へ向かう国道1号線バイパスは一直線、走る車は一台も見当たらず何という快適、思わず声が出てしまった。右手に松原、左手に多少白波の立つ遠州灘が広がる。見上げる空には飛行機雲が一筋、後は雲一つない快晴である。浜松から50キロほどで豊橋に着く。やがて坂を上るような格好で橋が見えてきた。名高い浜名大橋である。新幹線でよく見かける上り下りの大橋を過ぎると白須賀、豊橋である。
クレージーハウスは3回目である。商店街の地下を降りて行くと、音楽の店が忽然と現れる。壁に貼られた多数の絵は当店主がアメリカはニューオリンズで買い求めているシルクスクリーンの数々である。毎年開催されるニューオリンズジャズフェスティバルで売られる限定品とのこと、黒人ミュージシャンが描かれていて店の趣をグンと良いものにする。こんな絵の趣味はなぜか心をいやしてくれる。黒人が楽しく音楽している構図は、まさしく「音楽」である。聞いている方はもちろん見ている方も幸せになるってもんだ。ナンバリングされたシルクスクリーンは1万枚限定、作者のサイン入りは500枚限定、初日はまずこの絵を手に入れることで奔走、過ぎるという。全世界から聞きに来る音楽会の伝統、そしてこのような絵を販売し、それを求めて多くの音楽大好き人間が大集合する伝統の音楽会。
ナッシュビルのカントリー音楽祭にも大勢の人が世界中から集まると聞いたことがある。アメリカはこんなお祭りを日常茶飯事の如くやってのけているのだから羨ましい。

3時というまだ日が一番強いという時刻に開演である。
1943年製マーチンダブルO、ドブロ社製リゾネーター、そして大御所の1960年代製ギブソンB-25の3本が今日のライブを支える。3本とも良い音を出してくれる。適材適所取っ替え引っ替えのステージは自分が一番楽しんでいる。ギターを弾く趣味ができて45年、だいぶ腕前も上達して頭に飛来するインスピレーションの音の姿を具現化できるようになってきた。あの頃はコードフォームを覚えるのにも精一杯だった。町中を右腕をネックに見立てて左手で押さえて覚えたもんだ。難所はFやB♭、ギター初心者のマッキンレー北壁である。ここをクリアすると一気にコードがなんたるかが開け見えてくる。山の雲がにわかにかき消えて頂上が見える瞬間である。指板に隠された同名のコードフォームがあちらこちらに見えてくる。

アンコール一曲目の「弁慶と義経」は幻の楽団と一緒にプレイした。クリック音が鳴り響き、スイング調のDsusの単調な演奏が200小節ほども繰り返される。まるで昼に見た遠州灘の寄せては返す、寄せては返す波の単調さである。しかしここにギブソンの縦横無尽が食いつく。そして腹の底から響き渡る歌声。これで単調さにアクセントが付き得も言われぬ世界が繰り広げられる。はずであったが何と「立ち往生の編」を歌うつもりが、パソコンの画面には「勧進帳の編」の歌詞が出ているではないか。時すでに遅し。遠州灘は俄然調子を増してくる。ギブソンはうなる。私は迷う。このままやって良いものか。本当は「立ち往生の編」であるのに、と心で立ち往生してしまった。しかし大丈夫、大丈夫、ドンマイである。歌詞の違いなど何の障害ではない。弁慶の義経への忠誠、忠義、忠孝に変わりはない。日本人が国家建設以来大事にしていた「忠」という心。この言葉は非常に良い言葉で襟を正してくれる。しかしこの言葉が戦争を引き起こしたというトンチンカンな学者も存在する。まぁともかくこの字から来る他者への配慮、という心持ちはなくさない方が良い国のようである。頭の良い大学を出て、良い医者になっても、良い政治家になってもこの「忠」を持っていない人が闊歩する国は良い国とは言えない。
そういえば「白い冬」の作詞者はこの名前だった。彼はこの字を意識して大きくなったのだろうか。今頃東京の空で孤軍奮闘、健闘を祈る。

9/19この日狂気部屋に集合した皆さん、お疲れさん、ありがとうでした。
今日は京よりも古い都、モノトーンの古都、心の古里、奈良へ参上いたします。果たして1000円高速はいかほど混雑しているやら、思えば遠くへ行くモンだ?

(山木康世)

柏WUU音始末記

2010年09月18日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

決して練習ではない、決して安宅関の日の練習ではない。柏WUU本番入魂一発の「弁慶と義経」。コードはDsusのみ。DコードにGの音が入っただけの7分の世界は淡々とリズムを刻むだけ。時折シンバルの強調がアクセントをつける。ワンコードの醸し出す世界は、ある種トリップである。
mayakuやkusuriによるトリップは違法である。しかしビートルズも一時インドへお出かけになり、4人とも朦朧とした世界へトリップして名曲を残して去っていった。おそらく一度知ったら日常の単調な感覚のつまらなさに嫌悪感を覚えてしまい、二度と戻れなくなるので違法にしているのだ。今世間を騒がせているO容疑者に聞いてみたい。みながみなこの世界へ行ったらどうなるのだろう。未開の土地に住む現人神たちは絶対にやっている。彼らの純真さは身体にしみこんだ何者かのせいだ。実に平和である。実に暢気である。実に楽天的である。ほとんど裸に近い現人神たちは今日も世界の地の果てでトリップしていることだろう。
法律に縛られた我々にも救いは残されている。たとえて言うならお経の世界である。読経は一人より二人、二人より三人と人数が増える分圧倒的な世界を繰り広げる。そこには小賢しい目先の受け狙いのコード展開などお呼びもしない荘厳な世界が広がる。

母が死んでお経の世界を知った。般若心境の不変性、奥の深さ、日常のせせこましい世界から逃れた瞬間でもあった。おそらく父も手の届く距離でお経を初めて感じたことだろう。みなが集まって読経することで心の平安を取り戻す。本当なのである。死という誰もが避けて通れない人生最後のイベントを悲しいものだけで終わらせないという心の働きかけが読経にはあるのである。それまで他人事のように考えていたお経の世界。訳の分からない漢字を声を出して読み上げることに何の意味があるのか、とさえ思ったころもある。何の意味なんかないのである。それだからこそ究極のトリップなのである。西洋のゴスペルなどにある高度な音楽展開などない。ただひたすら呪文のようにみなでお坊さんに合わせて読経するのみで救われるのであるから不思議である。時折入る鐘や木魚の強調。老若男女、声質、高低など一切おかまいなし。雑魚音なのである。まさに雑魚音を追求の身としては先行きの好い話なのだ。

人気の出るお坊さんになるには必須の条件があるようだ。腹の底から響き渡るような低音の持ち主はまずもって成功する。決して浮ついたセンチメンタリズムの高音ではない。低音は人々を引き付ける。迷った子羊たちを救いの道へと導く。穏やかに包まれるような低音はα波を出す。集った人たちは脳を安らぎ全身をリラックスさせ明日への希望を見出すだろう。そんな連中が塊でやってきたら逃げ出したくなるだろう。恐ろしささえ出てくるだろう。

「弁慶と義経」は実は歌い手が一番はまって楽しんで、どこぞの世界へトリップしているのです。申し訳ないですが、そこには聞いているお客さんがいるということを忘れてしまうほどの言葉では言い得ない我入の世界があるのです。

10月には「この国に生まれて60年天晴れコンサート」が待ち受けている。最終仕上げ調整のため1週間ほど修行僧の如き旅につきます。

決して練習ではございません。修業の身に練習などございません。悪しからず。
(山木康世)

士別生涯センター音始末記

2010年09月17日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

紋別の「弁慶と義経」は二度とないだろう。還暦を迎える佐々木、鈴木、子供のような年齢のベース木村による共演は圧巻であった。木村の母は還暦という。どういうわけか皆「木」の字が紛れ込んでいる。これで絆が分かるというものだ。
この年になると、二度とないとは双方にとって相当に重たい響きになる。毎日のライブもそうなのであるが、また来年も、再来年もということは簡単に若い頃と同じように言えなくなってくる。それはいろいろな意味で毎回が勝負と言うこところか。酒など飲んで、隣のいい人とキスをしながら、客に罵声を浴びるなど逆立ちしたってできっこない。

1975年、1977年、1978年、1991年と計4回お邪魔している士別であるが、ソロになって初めてである。会場に入る前に「羊飼いの家」に立ち寄った。なだらかなカーブをなす平 原に整然と並んで草を無心に食んでいる羊はかわいい。風は穏やか、空には筋雲が。眼下には士別の町が見える。時は3時、手前で食んでいた5頭ほどが一斉に小屋の方へ駆け戻っていった。彼らは時間を知っている。ティータイムの終了。その後続々と小屋に戻ってしまい一頭だけが我関知せずとばかりに食んでいる。どこの世界にもいるもんだ。
そんな彼らを見ながらのジンギスカンを食い終えて、「世界の綿羊館」へ行ってみた。
こんなに綿羊の種類が世界中にいるとは知らなかった。札幌に引っ越す前の美原での6年の生活はまさに夢の生活。母屋と離れたところに物置があり、その中に一頭の綿羊を飼っていた。名を「ドンツキ」という。32歳の頃に出した自著「金魚鉢の中の太陽」八曜社出版の「動物達」という件に詳しく書いてあるのでお持ちの方は引っ張り出してご覧あれ。そのドンツキはオスとなっているがメスの間違いであると当時、母に指摘されたもんだ。確かに股間に氷嚢のごとくぶら下がっている代物の記憶はみじんもないので間違いない。本当に立派な袋を御所持なさっておられる。綿羊に限らす人間以外の動物は食うことが生きることすべてである。ほかの動物に対しての警戒心は異常なものがある。起きているときは食い物を探すための行動をとること。後は寝ていることがすべて。こうしてみると実に単純だ。外連味がない動物は純粋でかわいい。今時の芸人の受け狙いなど芸とは言えないとばかりに、綿羊の一頭が草を食むのを止めて「メェー」ときた。驚いた。かわいい顔をしている。笑っているような表情にこちらも負けじと「メェー」とやり返した。

会場は熱気と人いきれに包まれて、20年ぶりの外連味のない、そう願いたい歌達は思いっきり羽ばたいた。
それにしても北海道のお客さんは地味だ。反応がおとなしい。あんなに大勢いるのに、拍手の力も控え目、手拍子も控えめ、笑いの反応も他に邪魔しないようにとおとなしい。自分も道産子なので痛いほど分かる。それにしてももったいない時間が過ぎてゆく。南の方に行ってごらん。思いっきり楽しんでいるお客さんでいっぱいで、それがまた場内に連鎖反応を起こして熱くなる。その熱さは歌い手を刺激して自然に、通常の数倍の熱が入る。こんな人が集まるエネルギーを実感するともう戻れない。ただ、いてもエネルギーは沸いてこない。風呂の水と一緒で初めに焚きつけるエネルギーが必要である。それが徐々に大きくなり、やがて煮えたぎるようなお湯へと変身する。

限られた時間を僕たちは生きている。楽しまなくては嘘である。同じ時間をどう調理するかはそこに集った人間全員の力学なのである。それはもしかしたら日本全国よく見かける駅前通の寂しい、わびしいシャッター街を活性化させる一歩なのかもしれない。政治家は郊外にどんどん大きな車を意識しての建物を建てることにはいとわない。もったいないシャッター街はまるで西部劇のゴーストタウンに成り下がってしまった。アメリカから黒船のごとく入ってきた車中心の社会はそろそろ考えなくてはならない。
子供の頃の町の中心の賑わいをみんなで取り戻せるのこの可能性は、ゼンゼンゼロではない。

コンサートを企画・主催してくれた士別の型破りの住職の力に乾杯、そして期待を込めてエールを送る。まずは風呂を沸かすガンビの皮になってもらいましょう。ガンビの皮はよく燃える。持っている油分が黒い煙を発して、力強く他の木が燃焼するため牽引役をする。少々湿った木だって燃えさせてしまう。

また会いましょう、みなさん、そのときはほどよい湯加減で会いましょう。
(山木康世)

紋別オホーツクフォークまつり音始末記

2010年09月15日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

早いもんだ。こういうのを烏兎怱怱(うとそうそう)というとのこと。世の中知らないことだらけだ。あの大風と雨の中でのDoいなか博、グランドでのコンサートは悲壮感、使命感が漂っていた。
2005年になるのだろうか?前日5月の連休、青空の中、一人になって初めて紋別、空からの訪問となった。眼下には大勢の人がグランドに整然といる。本日のコンサートが行われている模様。おそらく飛行機に気がついた人が上空を見上げたことだろう。僕はその機の中にいた。ほとんど真横状態、左窓を下に旋回して下りて行った。
翌日、コンサートを始めると、すでに小雨模様、これは大丈夫かなと少し心配した。案の定どんどん加速して最悪の状況下のグランドコンサートとなった。横を見ると、西部劇などでよく見かける乾燥した丸い草を束ねた塊がコロコロと風に勢いよく転がってゆく。雨は本降りになる。気温も下がり防寒がなければ寒いほどになった。今にもテントは風に持っていかれそう。屋根に溜まった雨水をスタッフが棒で下から突いてザァーザーと落としている始末。そんな中いつまで続ければ良いのだろうとステージの袖を見る。白いバスタオルを持って、今にも試合ストップをかけるかのようなスタッフが待機している。早くタオルを投げ入れてくれないものか。後で聞くと、スタッフ側ではこちらからの演奏中止の合図を待っていたとのこと。今となっては忘れられない体力、知力限界ギリギリの思い出深いコンサート。

そのときお会いしたM氏との因縁で今回まで紋別、年に一度の訪問となった。

4回目のフォークまつりは、1部佐々木幸男、すずき一平との還暦トリオによる2時間に渡るジョイントコンサートである。60歳を迎えた記念の歌をそれぞれ用意しようと、先般の札幌ばんけいコンサートの打ち上げで提案、二人も快諾、発表と相成った。
因みに持ち寄った歌は佐々木幸男「60になったら」すずき一平「旅の道に続く夢」小生「男が三人」個性の生きた3曲は実に記念の歌となった。
三人が生まれて60年である。その後音楽生活をそれぞれが30年以上も続けて現役である。こんな関係の人間がコンサートをしている都道府県はないだろうし聞いたことがない。幸運と言おうか奇跡に近いコンサートなのである。ひとえに三人の健康に乾杯である。互いが互いにエールを交わす、掛け値なしのエールを交わす。取りも直さず一人でも欠ければ成立しない関係なのである。こんな純な関係は長く続けなくてはいけない。他の二人のためにも。この実に単純な構図が良いのである。

この先何回開かれるか知り得ないが、願わくば永遠に続けられたらと夢のような話を思い描いている。シンガーソングライターは個人の心のうちを歌うアーティストである。であるから本来はあまり大勢に支持されなくても成立すると言う世界である。むしろマニアックな世界なのである。そんな個性を年に一回ぶつけ合う日が特別、格別、紋別、キャベツなこの日なのである。
我々三人は勿論のこと、紋別オホーツクフォークまつりの益々の盛況を祈願する次第である。

みなさんありがとう、お疲れさんでした。

千島哀歌

コバルトブルーのオホーツク 風に吹かれて一人立つ
はるか国後(クナシリ)択捉(エトロフ)よ 冬の夕暮れ千島

島の山の峰峰に 白く霞んだ雪景色
どさくさ紛れに無くした 日本固有の領土なり

幕末伊豆の下田で 勘定奉行の川路聖謨(としあきら)
ロシアの使節プチャーチンと 日露和親条約を

日本とロシアの国境を 国際的に取り決めた
100年経ち戦後いつの間にか 居座る隣人よ

このまま声を上げないで 川路の意志を何とする
果てなき大地海原と 欲張り赤い熊

尖閣諸島竹島と 祖国日本の曖昧さ
取りも直さずその姿 我ら自身の鏡なり
(山木康世)

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