高円寺「ショウボート」への誘(いざな)い
2010年07月31日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
高円寺といえば吉祥寺と並んで、学生のころの僕には格別な響きのする町だった。
あいにく今住んでいる中野は存在外だった。
ほんやら堂、がらん堂という日本を代表するライブハウスが遠く北海道の地まで聞こえてきていた。ここへ行けば日本人によるアメリカンフォークソングが聞ける。そんな夢の町だった。
そして本当に、わけも分からず上京した折り訪ねてみたことがある。今思うと夜の中央線を高円寺で降りた。さてそれからどうするのだ.何も持っていない。電話番号も地図も持っていない。
何も見つけられずに高円寺の町をブラブラ、中央線をトンボ帰り。それでもあるはずの町へ行けただけで目的は達成したようだった。いつか機会があったら訪ねてやるさ。
そんな高円寺へ歩いてでも行ける中野の町に住んで22年。
こんな近隣の町に住みつづけるとはあの当時思いもしなかった。そして高円寺ライブ。「ショウボート」はお初であるが、僕の中では念願の高円寺ライブなのである。
物の本によると高円寺は室町時代に開かれたお寺の名前にちなんでいて、高円寺駅近くの氷川神社は源頼朝ゆかりの地で旧高円寺村の鎮守であったという。江戸時代には鷹狩の地として有名で家光将軍がよく遊んだらしい。ちなみに中野の村は家光の4男である犬公方綱吉の生類憐れみの令でお犬様を異常に大事にした施設のあった村である。その当時の武蔵野台地は昼なお暗い木立がうっそうとする森林台地であったのか。
さてどんなライブが展開されるのか、本当に楽しみな高円寺ライブである。みなさまお閑でしたら8月2日月曜日、是非遊びにいらしてください。お待ち申し上げます。高円寺ライブ公演時間は7時半開演でございます。
(山木康世)
セミとサクラと夜風
2010年07月30日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
メスのセミは7年前の夏の昼下がり、事務所前のサクラの木の樹皮に卵を産みつけた。やがて年が開けた冬の夜、樹皮からサクラの汁を吸って生き続けた一匹の孵化した幼虫が地面に落ちて、地中深く潜っていった。あれから幼虫はサクラの汁を根元から吸って成長しつづけた。7回の春夏秋冬を人知れずひっそりと真っ暗な地中で孤独な成長を続けて、雨の上がった今夜地中から這いあがって来た。
7年ぶりの地上である。あの日と同じサクラの木はかなり大きくなっていたが、もちろん花は散って青い葉っぱが生ぬるい夜風にサワサワと揺れている。木の近くに11階建ての大きなマンションなど建つとは誰も思っていない7年前。セミにとっては母なる木である。この樹液がセミを育てつづけてきた。
セミは人通りの少なくなった夜まで待ってノソノソと自転車の前輪に這いあがって来た。何もこんな不安定なゴムの上で変態をしなくてもと思ってしまう。鈍く光る茶色い殻の真中、背中から更なる変化の姿で徐々に最後の変身をしている最中に一人の男に見つかってしまった。
俺は自慢の空色の自転車にさび止めを吹きつけていた。そして腰をかがめてタイヤの具合を見た。ふと見た横の薄暗い自転車前輪に何かがへばり着いている。何かふんづけて、そのままにくっついているのかな。しかし良く見ると動いているようだ。茶色の真中から草色のものがモリモリと出てきているようだ。これはセミの脱皮じゃないか。あー何という幸運。小学生の夏休みに見て以来のセミの誕生だ。
一瞬セミは俺に気づいて動きを止めたが休むわけにはいかない。神様からの最後のコマンドを続けなくてはならない。俺は携帯のカメラでとりあえず記録をと撮った。セミがすっかり姿を現し終えたとき左手で柔らかいセミを優しくつかんだ。
セミは誰かに見られていることに気づいたが止めるわけにはいかなかった。7年間いた沈黙と静寂の地中から今這い出てきたのである。そして明日からの10日間がすべての生命体の完成を終えつつあった。しかしまさか人に見られていたとは知らなかった。最後の不覚という奴か。どうか良い人でありますように。
俺はきっちりした記録を収めようと事務所に連れこんだ。明るい蛍光灯の下で戸惑っているようなセミをニコンのマクロで数枚収めた。50年前の記憶がよみがえる。セミは何かから逃れるように必死で足をもがいてじっとしていない。誰にも見つからずもう少し、あのまま時間が経過していたら今ごろ母なるサクラの木に這いあがっていたことだろう。完成直前に人に見られるとは恥ずかしい。これがまさにセミヌード。しかしどうやら殺されるようではない。何とかなるだろう。
俺は階段をかけ降りた。握った右手の拳の中にはセミがいる。戻してやるよ。最後の営みを明日から元気でやれよ。暗闇の中、硬いサクラの樹皮にセミを戻して遅い晩飯を食いに自転車をこいだ。
セミはノソリノソリとサクラの高みへと昇っていった。多少湿りがちな生ぬるい夜風は優しく朝までにセミの幼い透き通るような柔らかい身体を、硬く乾いた強固な大人の身体へと変身させていった。
(山木康世)
あーもったいないったらありゃしない
2010年07月28日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
尾崎と中田
尾崎行雄は僕が12歳のころに大活躍した東映フライヤーズの大投手だ。高校を2年で中退、すぐにプロ野球で20勝、新人賞。怪童と呼ばれて、子供ながらにピッチングフォームを良く覚えている。多少前のめりで投げ出されたストレートは、打者をキリキリ舞い、バットは空をきる。ビデオから計測した推測速球は159キロという。こんな選手が日本の高度経済成長期を精神的に支え応援していたと思う。世界の日本になるために世の大人たちはなりふり構わず、働き蜂の如く働きに働いたものと想像する。つかの間に見るテレビからは尾崎の剛速球が。スカッとしたに違いない。カーブやシンカーなどの変化球ではなく、直球勝負がビールをうまくしたものと思う。
片や平成22年の札幌、日本ハムファイターズ、中田 翔が弾丸2号をかっ飛ばしたと記事にあった。中田は高校野球から3年前に入団したと思う。しかしすぐにベンチ入りはさせてもらえず、2軍でフォーム矯正、プロとしての準備を余儀なくさせられた。中田が高校生のころから、良い選手が出てきた、すぐにプロで大活躍すると期待していた。それを外野席があーだこーだと3年も教唆した。確かに良くなったのだろう。しかし僕が見たかったのは平成の尾崎行雄なのであった。どうプロで通じるか計り知れない天才のバットを見たかったのだ。失敗してもやり直しが利く。それを凡才の監督やらコーチが玉を磨こうと躍起になって失敗した。僕にはそう見える。本当に見たかった、プロのピッチャーを手玉に取る18歳の天才バッターを。今からでも遅くはないが、旬という言葉からは大幅に遠ざかってしまった。
野球ファンは何も手堅いチーム成績だけが目当てではなく、ハプニング、面白さも大いに期待している。
ガンバレ中田 翔、CM出まくりの石川某なんかに負けるな。
(山木康世)
地球は生きている
2010年07月27日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
この夏世界各地から異常気象のニュースが続く。
大雨、猛暑、大寒波、いずれも尋常な数字ではない。何とも世紀末風で不安になる。
地球は回っている。風を起こしている。雲を作っている。雨や雪を降らしている。まるで生き物が呼吸しているように代謝を繰り返している。
中国人Aの証言=私たちの農場では、雨をコントロールしてきました。ロケットは私たちに恵みの雨を降らせ、太陽の温もりを好きなときに好きなだけくれます。今やロケットなしの繁栄、収穫、幸福などありえません。
中国人Bの証言=私の乗っている漁船は、過去に何度も台風に遭遇して命拾いをしたことか。細々と経営していますので、天候は非常に大事です。天気は神頼みの時代は終わりました。ロケット会社に頼んで事前に海上の天気を良くしておけば、大漁は間違いないです。
去年こんなニュースがネットにあった。
2009.10.2 00:01
中国国営新華社通信によると、建国60周年の1日、パレードなどが雨で悪影響を受けないようにするため、「消雨ロケット弾」432発を雲に向かって打ち込んだ。北京市中心部は前夜から未明にかけ雨が降っていたが、式典が始まった午前10時にはほとんど雲のない快晴となった。
こんなことを隣国では日常茶飯事で行っているという。
地球は戸惑っているに違いない。怒りや悲しみなどではなく、困惑しているのだ。巨大なシステムの一部が何ものかによって狂わされている。地球は長いこと平和主義者に味方してきた。しかしここ一世紀の間に、見せ掛けの平和主義者によって、ボロボロにされてきた。今や地球は平和システムのコントロールを失ってしまった。
元通りに回復してもらうには、直ちに目の前の幸福に預かろうという下衆なエゴ体質を改善しなくてはならない。天上の雲や雨を制御して、自分たちだけの幸福追求などという根性は神への冒涜である。
今や世界の人口の四分の一を占めるまでになった中国は、地球自体を狂わすまでに暴走しているのであろうか。
(山木康世)
柏WUU音始末記
2010年07月26日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
柏でライブをするようになって1年半が過ぎた。
千葉県は遠くて近い県である。道産子の僕には東京も千葉も同じように思えるのだが、千葉の人は何をおっしゃりますると右手を顔の前で左右にヒラヒラ。
毎回土曜に行われるライブ。去年も同じく7月の第4土曜日に行っていて、大変な賑わいを経験していた。
この日、柏では柏祭りが行われて、町の倍の人が繰り出す。去年は柏駅から2つ先の我孫子駅前に車を停めて電車に乗り換えギターと荷物を運び込んだ記憶がある。今回は豊四季という隣りの駅に駐車、東武線で参上いたしました。豊かな四季とは何と日本人らしいセンスであろう。拍手である。ひらがな名の町が増えたりしている昨今、妙に感心しきりである。その上土日は1日駐車1000円という東京では信じられないお手ごろな駐車料金も手伝って足取りも軽い。
この日は、柏の中心部から自動車は排除される。何か目玉の出し物でもあるのかと尋ねるとそうではない。何もない、ただ人が近隣から集まってくるだけという。
その通り、駅東口からWUUまで道に人があふれかえって、土日の原宿駅前周辺と同じような喧噪ぶりに変身、年に一度のお祭り騒ぎとなる。
縁日の屋台が道の両側をズラリと占めて、時折パレードが行われている。何が出ているのかさっぱり分からない。しかし人は老若男女が混雑さを楽しみに来ているようだ。脇道に入ると、ヤンキー座りをした若いモンがかき氷やイカ焼きなどをつっついている。人が人を呼ぶ賑やかさを嫌と言うほど考えさせられるこの日である。
お祭りは本来こんなもんだったのだろう。それがいつしか町のため、企業のために作られたお祭りになって日本各地で繰り広げられているのだろう。札幌のよさこい祭りなど典型的であろう。
故に自然とこの日の柏ライブはお祭りの気分が身体に染み渡り、お客さんも僕も普段にはない浮かれ気味である。人生はお祭りである。何かしらそれぞれの人にとって毎日がお祭りである。町に繰り出せる心身の健康は幸せの一つである。
あの混雑を疎ましく思ったり、妬ましく思えてきたら黄色信号である。
帰り道、ライブの余韻と祭りの後の興奮がまだたっぷりの夜空には稲光が頻繁に光っていた。これは一雨あるか、ざぁーと通り雨でも来るか。
次回は9月、その次は12月と3ヶ月に一度という頻度で行って行く予定である。
店のAご夫婦、仕掛け人O氏の汗だくさにほだされて常磐道を通うライブは、地元の方が言うように近くて遠い気分のライブと整いました。
(山木康世)
夕暮れのビール
2010年07月23日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
アルコールは健康のバロメーターになる。まずくてすぐに酔いが回るようなときは、何かしら身体が疲れている。早々に切り上げ引き上げるべし。
飲む時間帯によってもアルコールの効能は変ってくる。夕暮れに、それも外が望める場所での飲酒は何とも言えぬ心地よさがある。種類としてはビールが程よい。いきなり日本酒は見栄えも悪いし、効き目もありすぎ。ここはぐっと喉越しを楽しもう。それでも飲みすぎると何でも一緒だ。
話の合う友人との飲酒は何物にも換えがたい。時間を忘れて話に花が咲く。こんなときの夕暮れ時は本当に心地よい。風も穏やかで通りすぎる人も楽しげに見えてくる。互いが互いを気遣い、距離を少し置き言葉のキャッチボールをする。そしていつの間にか終電の時間になってしまい、別れのときが来る。しばしまた会いましょう、御機嫌用。
電話が来る。
「ただいま名古屋におります、もう新幹線もないので鈍行で戻ります」
ミスターTは浜松の人。どうしたものかと思っていたら、乗り過ごし。
そんな自分も吉祥寺まで連れてゆかれ先ほど中野に戻ってきた次第。
JRに乗り過ごす賃を儲けさせるほど今宵は飲んでしまった。分かっちゃいるけど止められない、船を漕ぎ漕ぎの電車移動の恐るべし瞬間移動。窓の外の駅名を見て、車内放送の駅名を聞いて乗り過ごしに気がついたときの一匹の迷える子羊の放心状態、狼狽振りを何に例えよう。
達人になると何度も何度も往復する。こうなるともう手がつけられない。電車睡眠に執りつかれた移動の旅人はまさに過去と未来を行ったり来たり、いい加減にしないとどこに自分が行くのかさえ定かではなくなる。
ここはどこ、私は誰?
あぁー哀しいほどに、夕暮れのビールは金を払ってでも買いたくなるほどの美味さである。
(山木康世)
かっちゃんへ
2010年07月17日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
かっちゃん、いなくなって寂しいよ。何も悪いことしていないのに理不尽だよな。
ご冥福を心からお祈り申し上げます。
コンビニで商品を探していたとする。一人の若者が目の前を何の躊躇も会釈もなく通り過ぎる。首根っこを捕まえ、何だよ人の前を何も言わずに無礼者。通るなら俺の後ろを通れ。
なぜむかつくか。己があたかもそこにいないかのように振舞われる、いわば存在を無視されることへのやり場のない怒りである。切れる人間のタイプは自分の疎外感を異常なほどに感じるタイプの人間なのであろう。来るはずのバスを待っていて、満席で食事の順番を待っていて、宝くじを購入するために待っているときに割り込みされてむかつくのも同じである。
中国人はオリンピック開催まで並ぶということをしなかったそうだ。順番待ちができる民族は意外に少ないのかもしれない。ずっとこれらのマナーは人間に生まれながらに備わっている共通認識だとばかり思っていた。しかしこれらはしつけや、親や先生の教育によるところが大きいのだと確信するに至った。故に若者の目の前無視通過は由由しき事態なのである。無視通過を若者も感じているならいざ知らず、何も感じていないのならもっと事態は深刻である。誰も教えていないということだ。年端の行かない子供だって教えられれば分かるほどの簡単な問題だ。
鶴田浩二が「古い人間とお思いでしょうが」と右手を耳に持ってゆき、眉間にしわを寄せて教えたマナーを、お母さんたちは口すっぱく可愛い息子、娘に教えておかないと、将来とんでもない国に住む羽目に成るので注意しよう。最悪のシナリオは何の関係もないのにナイフでブスリ、横断歩道を渡っている最中に突然突っ込んでくる車。事が起こった後に怒りたくても死んでしまっては、死人に口なしである。己の人生をこのような馬鹿野郎様に終えられてしまっては、元も子もない。死んでも死に切れないというところだろう。
(山木康世)
ブログ考察
2010年07月16日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
大変多くの方のご回答、書き込みがありうれしい限りです。
ありがとうございました。
毎日ブログを書いていて、果たして何人に読まれているのだろうか、それとも長文は迷惑ではないだろうかとかいろいろ考える日々でございました。
そもそもブログ、ブログと流行の病のように巷間では喧伝されておりますが、意味を分かって使っている方がどれほどいるだろうかと、調べてみました。
Web-logの略称とのこと。それではWebとな何ぞや。インターネット上に散在する情報を検索、表示するシステムとある。それではlogは。コンピュータの使用状況の記録や通信の記録のこと。または記録をとること。もとは航海日誌をlogと言ったことから転用されたとのこと。簡単に言えばネット上に書かれる日誌とでも訳したら良いのでしょうか。
では日誌とは何ぞや。団体・組織の中で、毎日の出来事や行動などをしるした記録。また、その帳面。とある。
僕は誤解していた。みなが読みたいのは毎日の行動記録なのであって、小難しい問題提起や事件などを読んでも、読み流すだけで、もっと知りたいのは昨日何があってどうしたこうしたが本来のブログの目的であったのだ!ジャーン、目から鱗とはこのことである。当の本人が一番分かっていなかったりしたのだ。
ならばそりゃ読まれないよりは、誰でも良いから目に止ってほしい。できれば感想など聞くことができればそれに越したことはない。しかし賛同なら良いが反対意見などされたらどうしよう、などなど書き手も何とも身勝手なことを言ったりしたくなる。こんなことを言い出す始末だったのです。
このブログを始めて半年が経つわけです。これから少しスタイルを変えてみましょうか。
6時52分ブログを書くために起床。この半年寝不足気味。
8時03分ブログ終了。テレビを見る。あー今日も同じメンバーで大したこと言ってねえな。
9時12分自転車に乗って中野へ出かける。何をしに行ったかは言えない。何が目的だったのか言えない。人には怪しいゾーンへ出向くことも多々ある。
夜6時38分事務所に戻る。テレビを見る。相撲も国技だというのに中止。NHKはついに国のスポーツを超えてしまった。国のスポーツに猛省を促した格好だ。誰が拍手をしてるんだろう。みんな視聴料を払って損をしている。得をしている人は誰もいない。ならば相撲中継代金を戻してもらおう、という人がどうして出てこないのだろう。所詮テレビである。それが裁判所か警察のような振る舞いだ。
こうなるわけだ。16年間毎日日記をつけていたが、そのスタイルで書いてみた。
必ずWindowsには「メモ帳」がある。この「メモ帳」を開いてF5キーを押すと日付と時刻が即時に入力できる。この意味が今はっきりした。何もここまで時間を刻一刻刻まなくてもと少々批判的だった。しかしこのスタイルのブログを書くには格好の機能な訳だ。その上.LOGと最上段に入力しておけば、何度でも「メモ帳」を開いたとき自動で日付、時間が刻印される。なーるほど。本来の「メモ帳」の使用目的がはっきり見えてきた。「メモ帳」という言葉が誤解を生んでいた。メモには何も時刻まで詳しく入れない。そこがかみ合っていなかった。「日誌帳」とでもしてくれたら10年は(Windows歴)誤解しなく済んだのにと言いたくなった。ちなみに「メモ帳」の英語版は「NotePad」=「はぎ取り式のメモ」とある。ということは何日も残すものではなく、消え去る運命のものがメモなのでありブログなのである。7:03 2010/07/16
(山木康世)
進化する写真家
2010年07月14日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
70年フォークという言葉がある。感じとしては吉田拓郎から始まるフォークといってもいいだろう。
1970年といえば、僕は20歳、大学2年生だった。グループサウンズが徐々に姿を消して、カレッジフォーク、キャンパスフォークなどと呼ばれる大学生フォークが巷に出現。アメリカの大学生の起こしたフォークソングムーブメント。根底にはベトナム戦争(1960~75)泥沼化がある。あのアメリカさえ手に終えなくなった戦争はいつまで続くのか、という厭世的ムードが音楽の世界に漂っていた。今の楽天的な音楽の世界とは大違いである。
そんなフォークがやがてニューミュージックという呼ばれ方をして、限りなく歌謡曲に近い日本のフォークへと変わってゆく。その途中でふきのとうは世に出た。
レコード会社、事務所は全国を飛び回り新人探しをする。金の成る木はないかとスカウト合戦が始まる。ラジオ局主催のコンテストが始まる。今の歌い手はビデオやDVDでプロモーションフィルムを作り自分たちを売り込む。実にうらやましく頼もしい姿である。
あのころの青年たちには考えられない自分売り込みの形である。あの頃の青年はある種、あなた頼り、ネガティブ思考の人が多いかもしれない。良く言えばみんなで作り上げようという協調性が強いかもしれない。
アーティスト、ディレクター、宣伝マン、編曲家、デザイナーらが周りを取り囲む。その中にカメラマンも重要なポジションを占めていた。仕事が順調に成ってくると専属カメラマンによる、統一されたイメージを作ろうと誰ともなく考え始める。スタジオでのレコードジャケット撮影、雑誌取材撮影、ツアー同行密着撮影。当然日常を共にするように成ると、味のある写真が撮れるように成るというわけだ。
あのころ果たして何人のカメラマンが業界にいたのだろう。ほとんどの人が還暦を過ぎているだろう。今でも現役で撮りつづけている人を見ると、彼の裏に潜んでいるであろう人生を妄想してしまう。彼にとっては偉い迷惑かも知れぬが、どうしても癖で妄想してしまう。
のぞきこんだレンズの向こうに何を思って、彼の右手の親指は何度シャッターを押したのだろう。仕事とはいえ虫の好かない人間もいただろう。それでも彼は機嫌を装ってシャッターを押す。デジタルではないので暗室に入るまで出来具合が分からない。うまく撮れているだろうか?そんな彼の撮った一枚がジャケットになり、永遠の記憶として世間の人の目に焼きつかれる。アーティストによる音楽もあるが、同じくらい重要だった写真。
写真がこの世に普通に存在し始めて百数十年というところか。その前の人たちとの決定的な違いは、自分の姿を後に留めることができるかできないかということにある。この違いでどんな人間性の違いができてしまったのだろう。妄想してみよう。
昨夜とても東京人らしいカメラマンNさんと飲んだ。粋なのである。若かりしころ、彼は来日外人アーティストを数多く撮ってきた。彼の中に自然に備わってしまった小意気という世界観。Nさんに10月日経ホールコンサートのシンボリックに成るような写真をお願いした。どんが写真が還暦を祝ってくれるのだろう、どうぞお楽しみに!
デジタルカメラは日進月歩、進化しつづけている。進化する写真家。
このブログをお読みのみなさんへ、ふきのとうおよび僕のシングル、アルバム問わず好きなジャケット写真の声をお聞かせください。
雨による災害から早く復帰されるように願っています。
(山木康世)
赤坂情話雨の哀切
2010年07月11日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
赤坂に降る雨は シトシト心を濡らします
ネオンの明かりも雨粒に ほのかに町を照らします
行き交う車はカーブを緩く 男女を乗せて曲がります
誰かが泣いた電信柱 雨に濡れてる電信柱
赤坂に降る雨は マァマァ明日に夢をくれます
坂道にたたずむコーヒーショップ 豆の香りも湿りがち
帰り道を急ぐ新人 地下鉄駅で待ち合わせなのかい
ビニール傘の下に微笑み 居酒屋あたりで頑張れよ
赤坂に降る雨は ユルユル涙を誘います
大都会東京のど真ん中 港区赤坂恋の町
今と昔が手をつなぎ 仲良く同居歴史を忘れず
変わらないことに艱難辛苦 変わることの哀切よ
赤坂に降る雨は そんなに冷たい雨じゃない
赤坂に降る雨は そんなに長い雨じゃない
君と僕が離れていても 信頼という絆で結ぶ
心と心は離れられない 距離と時間が離れていても
赤坂グラフィティは梅雨のいっときの中休み、晴れの元行われました。
携帯をみなで暗がりでリズムに合わせて
♪ごらんよ ごらんよ はるかな 星の旅人♪
ステージからはとても幻想的な世界が醸し出されました。誰かさんが報告しておりましたが、すでにこの世界を使用された方がおるとは残念也。
10月のステージでは満員の席の中、何人の方が参加してくれるでしょうか。
まさに皆の持っている大勢の絆が青白い画面にユラユラ揺れているようでした。
こんな携帯の使い方があるとは開発者も夢にも見ていないでしょう。バンザーイ!
そのうち猫も杓子も場内で行なうんだろうな。しかし犬と猿とキジはおいしい吉備団子に夢中で懐から携帯を取り出す暇なんてないかもしれない。
みなさーん、お忙しい中、赤坂にお集まりありがとうーでした!
(山木康世)