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さいたま市アトリエMに行ってきた

2024年07月28日 | カテゴリー: 山木康世

埼玉県は言わずとしれた猛暑県。なんでも東京の膨大多量な排気ガスが上空へ、そして風に乗って運ばれ下降。そこが埼玉県という話で、何も自然現象の話だけではなく人為的な高音上昇沸騰という申し訳の立たない話である。江戸時代には、今では考えられない東京湾の涼風が夏風に運ばれて内輪で快適に過ごすことが出来たという話である。しかし今の時代、それだけでは済まされず地球的な規模での列島熱帯化ということも言えそうだ。そのまんま日本列島香港化ということが現実なのかもしれない。小樽の手宮洞窟の古代の岩石に痕跡が残っているという。地球磁場が逆転した痕跡が残っているという話。大昔には小樽は香港のような自然だったという遺産。だとしたら人間の小賢しい手には終えない話であるね。
アトリエMはお気に入りの東京から22キロという距離にある。羽田空港などよりよほど近い感じで1時間もかからないで着いてしまう。5回目の訪問だろうか、今年に入って2回目である。御夫婦揃ってお出迎えされなんとも恐縮である。旦那さんは旗を吊るしてくださり、CD購入までされて下さった。築3年というから程よい時期に差し掛かって、脂も乗り切っている会場である。クラシックの気品格調高いきれいな会場はいつ伺っても清々しく、初心を思い起こさせてくれる。音楽の持っている青年の心は年を変に取らさせない。いつまでも若々しい心は世海を老けさせない。新鮮であることはなかなか難しいが、手軽な方法として良質な音楽を生活に取り入れることである。この良質は難しいが、空気や水と同じように大事である。
自ら発信者でもある僕はお客さんの心に寄り添おうといつも思っている。しかしそれを出来る出来ないのも会場次第である。会場はものは言わないが発信する人の身体がビビッと反応する。温度、湿度、防音、快適さは目には見えにくい。
外に出ると車がひっきりなしに行き来する道路である。そんなことを感じさせない異空間が広がりいっとき夢心地。
今回もおもてなしの心を受けて、まことに良い夕刻前のひとときでした。
埼玉県2日続きの楽日、心が何かを取り戻した。こんな日の連続で毎日を過ごしていったら、きっと年を忘れた偏屈親父で過ごして行くのでしょう。
みなさんお暑い中誠にありがとうございました。

セットリストは前日とほぼ入れ替えです


お客様の拍手にオリンピックに負けない熱の熱さを感じました

埼玉県三芳町TYフェアリーリングには天使が住んでいるか

2024年07月28日 | カテゴリー: 山木康世

独自のポスターをお店が制作されてお迎えして下さった。フォーク界のレジェンド。ありがたい話である。そんな評価を下さって頭の下がる思い。あまり周りに左右されず好きに生きてきていつの間にか50年経っていた、というのが正直な話である。好きなことをやっていたら時間はあっという間に過ぎて気がつきゃホームでごろ寝である。時間は相対的なもので、一定はしていない。その人の心次第で長くも短くも感じる。
楽屋は息子さんの音楽部屋で、毎日趣味の時間を音楽に費やしていることが手に取るように分かる部屋であった。もしかしたら仕事なのかもしれない。メーカーと共同開発したスマホ、タブレットを挟んで譜面台とする発送は目からウロコであった。今の今まで挟むということに考えがいかなかった。これでいいのだな。何も置くという考えに縛られることはないのだ。さっそく考えてみようと思った。紙ではできないのだ。めくるという作業には不可能なのである。何かに置かなくてはならないのだ。しかしデジタル画面では機械がめくってくれるので挟んで固定できれば済む問題なのだ。
息子さんのお母さんは前回入院なさっていて残念がっていたが今回は無事手術も成功、お聴きに足を運んで下さった。
86年生きてきて初めての感動でした。LIVE開演当初からドラマ性を感じ、あっという間の2時間、本当に初めてのことでした。という感想を直に聞いて、あーわかってくださるお人がいてくださり幸福の極みでした、という正直な感想だった。CDと手鏡を購入くださりありがとうございました。ますますご健康で僕の世界を生活の中に取り入れてくださることを切に祈ります。
会場となる建物デザインは重要である。ほとんどが面白みのないビルが普通なのだが、ここは違っている。夢のあるデザインなのである。窓枠、屋根、壁などをどう作るか。個性の出るところであり、手間暇、経済面でも違ってくる。しかしそこに人が住んで、お迎えもする。一軒家ならではの主人の顔を見せることも出来る家という生きてる人間の容れ物なのだ。
高層マンションには出来得ない顔を持った建物の意外な重要性に気づかない人が多い気がする。特に大都市では利便性、合理性が過ぎる感が否めない。限られた時間を如何に過ごすかは住む人の問題である。良い顔の住まいに願わくば住みたいものだ。もう遅いか。

照明もオーナーに整えていただきました


オーナーの川上さん(右)とライブ初参加のお母さま(左)


ホワイトボードに大きな蝉が止まっていました

新宿永谷ホール御礼

2024年07月23日 | カテゴリー: 山木康世

前日の花火大会中止を促した雷様たちは夜中に姿を消して、この日の晴れの猛暑、10年に1度の暑さと言うが、大したことのない暑さ。例年だと6月頃に季節の変わり目として八王子方面から猛烈な風と雨の訪問者。それで何年も季節の到来を知ったもんだ。巷に溢れる気象予報士はワイドショーをすみかとして御活躍中。一番の予報士はweatherニュースアプリが今のところ最強予報士だ。
新宿は東京で一番の街だ。江戸時代の昔には宿場町として栄えて、飯盛り女たちが大勢旅人の労を労っていたという。渋谷の街はいつからどうしてああもごちゃ混ぜのビルに囲まれてしまったのか。上へ下への前から後ろから、迷い人には地獄である。道玄坂には雨が降っているか。
西武電車の始点なのか終点なのかぺぺは相も変わらずスリムな姿でコンニチハ。
その西武電車のすぐ横に永谷ホールはある。格好の小ホールの体をなしていて非常に使いやすく演奏、歌唱に集中できて良い会場である。学校の体育館を思い起こす。それも高校や中学ではない、小さな山の町の小学校の体育館である。
本日はつつがなく猛暑の中、瓦版花鰹127号の発送の運びとなっている、25日発行日に間に合うよう、全力であなたの元へ赤いポストへ投函。
猛暑にめげず夏を乗りきろう。今年のホールライブを成功させるぞ。
またお会いしましょう。

新宿の喧騒と猛暑を忘れる小ホール


次回の新宿歌舞伎町ライブは8月22日です

大田区蒲田における音楽人生劇場「神楽」

2024年07月21日 | カテゴリー: 山木康世

「神楽」かぐらではなくこうらく。同じような名前の落語家の笑顔が浮かんでくる。植田画伯のアトリエが開放されていて、今は亡き画伯の、往時の仕事ぶりがうかがえる。若き日にパリで学んだようで、当時の周囲の知人らしき人との絵画も見ることができる。環状7号線、通称環七沿いにお住まいはあって、当時の風景も写真で見られる。画伯は書きかけのスケッチノートも残していて、ページを繰ることもできる。消ゴムで消そうと思えば消せる数点のスケッチ。何をか思わん心の素描。時代と共に人の心や価値観も変わり勝ちであるが、絵や音楽は変わらず時代の一風情や風景を残すことができる。時代のスクショとでも読んでも良い。2回目の訪問である。
かぐらではなくこうらくと詠んだアトリエから画伯の心の一点を読み解いてみる。画伯の絵の神様たちの楽しむアトリエ。こう読み解くと楽しく賑やかなアトリエが見えてくる。時空を越えて何か一筋に一生を、半生をかけることができるほど人間はバカで退屈な動物なのであるな。それを可能にする絵や音楽は魔法、中毒性のものなのだ。
帰り道東の夜空がピカッと光り、今後の天気を占う、足立の花火の開始を告げるかのような雷鳴の合図。花火は中止となって河川敷に何時間も前から集まった人たちの希望を裏切った。まさかの天の轟き。深夜には豪雨となり近所の川の危険水域を越えて避難勧告騒ぎ。大事には至らなかったが10年に一度の猛暑の舞台裏を覗き見た感じである。梅雨明けの号砲ラッパの雄叫び。
そう言えば夕刻の劇場で「花火」を歌った。飽きない歌であり、50年以上も前の札幌は平岸の東の6畳間の朝を思い出す。50年以上も前から我が脳みそに居座り続けている。
それでも太陽は東から出て西に沈む。

絵画に囲まれたステージは心も解き放たれる


飾られる絵画は時々入れ替えられている模様


ライブ前にはじっくり絵画鑑賞を


兵馬俑もライブに参加


お疲れさまでした! ライブ終了

市川市サクラコートホールは畳の間

2024年07月15日 | カテゴリー: 山木康世

翌日高速道を市川市までひとっとび。52分と出ていたが早すぎると思ったら、やはり迷ったことや土曜と言うことでそうは問屋が卸さなかった。
いつもの中野からの下道は江戸川を越えたら千葉県入りのすぐの街という頭の構図はシンプルで分かりやすかったのだが、神奈川からの一見高速道ですぐという感じは崩された。それでも2時間後には到着。11キロ、往復22キロの余計はいらなかった。
昨日の石造りの伝統建物とは打って変わって畳の間はやはり日本人の拠り所である。
今日はマイク関連は入念にチェック、二度と昨日のようなことはない。
以前父の関係で市川の街に来たことがあり、ついでに横浜の親戚を訪ねた。確か海ほたるを渡っての、たった一回きりのドライブだった。

落ち着いた1軒家の空間でゆったりしたライブ

横浜旧英国領事館御礼

2024年07月15日 | カテゴリー: 山木康世

1937年建設というから思っていたほど旧くはない。
この年に日中戦争が勃発し、1942年に日本はイギリスとアメリカに宣戦布告、建物は日本の監視下に置かれた。今では考えられない国際情勢、日本もずいぶんと元気であるが、このような戦争による繁栄はいただけない。
富国強兵、産めよ増やせよ。狭い島国の資源の調達、そして領土までぶんどってしまう。それが許された帝国主義、植民地主義などは結局、兵器の発達による奢りが海を渡らせて一時的に領土にしてしまう。そんなこと許されるはずがない。が当時は許された。
この建物におけるLiveは何度になるのだろう。いつ訪問しても落ち着きのある風情にしばし今を忘れてしまう。僕にはこのころの洋風建築は伝統を感じて、当時の人々が窓のカーテンの向こうから庭の手入れの手を休めてハローと語りかけてくる感じがする。ニョキニョキと天に向かって見上げるほどの建物には建築会社の技術の粋と威圧だけで何も感じない。そこに住む人間のココロ不在のような感じもする。どうしてそれほど高層にしのぎを削るのかよく分からない。
横浜の道路事情は良さそうで悪い。案内がよそ者には不親切である。もっとも最新のナビを入れておけば問題はないのかもしれない。何度も迷うヨコハマの高速道路。
そんなわけで迷ってたどり着いた旧英国領事館、やっと着いた安ど感をこの建物は与えてくれて、重たい楽屋のドアを左右に明けてお客様の前でコンニチワ。
ひとつ心残りは、ギターのマイクが番っていなかったことである。申し訳なかったです。
今日はふきのとう解散時舞台監督だった藤丸氏の訪問があって心躍っていた日でもあった。

古い洋館に響くアコースティックサウンドが心地よい


「雨は止むかな」。リハーサルで


藤丸さん(左)、城生さん、ありがとうございました

福島県喜多方市/FMきたかたライブスペースから心緑の心風を

2024年07月08日 | カテゴリー: 山木康世

田端を終えて宇都宮、山形心配していた雨はなく、連日は真夏の母なる太陽に恵まれて我は幸福也。静岡では40度を超えたという。大谷も6連続三振で心配していたが、調子は戻ったようだ。本物の世界の新人類ヒーローにガンバレーバンザーイ!
山形から喜多方への山道は日曜ということなのかひっきりなしに車が行き交う。田沢の道の駅で丸茄子漬物を所望。ここの山道は秋には素晴らしい彩りを見せてくれる。今は新緑が目に鮮やかだ。
FMきたかたはちょうど1年ぶり。あっという間の1年、遡ること何年になるのか、現小田切役員からFM放送会社を始めると話を聞いた。街の薬局の建物を改築、将来はライブハウスも兼ねた放送局にしたいと案内してくれた。中に入ると薬局そのものだった。笑顔でいたずらっぽく紹介してくれたのが特設麻雀ルームと称する秘密の小部屋。その後東北大震災には大活躍、彼の生来の性格で東日本を救ったのは大げさな話ではない。本来のコミュニティの本領を発揮、今後も令和のノアの箱舟でいてくれるだろう。
次世代の若き社長にも好感。きっとまだまだ活躍してくれるFMきたかた。
大勢のみなさんが来てくれた。しかし肝心のオープニングにやってしまった。ノートPCを楽屋に忘れてしまった。やれやれ、仕切り直しである。
ギブソンB25、スズキ48年、クワイアンで臨んだ。良い音、良い照明だった。余すことなく50年音楽人生をご披露できたものと思う。今夜の「うやむや」は前日の山形に負けず劣らずの読経。みなさんありがとう。
8月には令和の「白い冬」をお届け出来そう。このニュースは今年一番の朗報かもしれない。なにか光明が見えてきそうでワクワクしている。みなさんも暑さに負けず、かの宮沢賢治のごとく強くたくましく明日に生きてくほしい。
ホテルの窓から見える少し湿った感じの喜多方の街は去年と変わらず良い感じで眼の前に広がっている。変に高いビルなんか必要のない現代の福島の奥座敷の街に拍手だ。磐梯山に見守られて喜び多き街は今の日本になにか新風を吹き込んでくれるような予感がするよ。
また元気な街、人に会いに来ようぜ。我ももっと磨きをかけて参上したい旨、みなさんお達者デー!
あーあ花の都の首長が小さなお池にまたもやはまってしまったか。

照明は会長が担当。配信映像もきれいでした


喜多方シティエフエムの皆様と


この丸茄子の漬物、うまいんです。BOSSの大好物

山形県山形市/山形 洗心庵 満席です!

2024年07月07日 | カテゴリー: 山木康世

山形は第二の故郷。父方のお祖父さんお祖母さんが北海道へ海を渡ってやって来たのが明治35年。駒吉お祖父さんが、なんでも農学博士として北大へ招聘されたという話。僕はずっと明治政府の公募で札幌へ移ったものと思っていたが、どうやら違っていた。大した先生だったわけですな。北海道へ移ってからは、出張のたびに化石などを探して歩いていたそうだ。忠類川などはナウマンゾウの化石の宝庫。当時の北海道を妄想する。お祖父ちゃんも大学の仕事よりも、こっちの趣味の世界に夢中になったのではないだろうか。僕も大学を卒業後、考古学の世界に就職したいようなことを父に相談したことがあったが、父は化石などは昔を探求する世界よりも、未来に生きたほうが良いな、とやんわり言われた思い出がある。まさに父が生涯かけてダリアの新種を夢見た世界はお祖父ちゃんの夢とは違っていたのだな。
おかげさまで「洗心庵」は満席で、多くの人がご来場いただいた。実に僕の好みの会場である。庭の中央に広がるのんびりと鯉の泳ぐ池が街なかの喧騒を忘れさせる。臆病者のスズメが周りに十二分に気を配って時折池の隅で水浴をして、すぐに飛び立つ。スズメも暑いんだな。手入れの行き届いて日本庭園は「洗心庵」のシンボルだ。楽屋にあてがわれたお茶室には平安時代に発見された屋根瓦の飾りが置いてあった。2時間も開場までの時間一人の良い時間を過ごして臨んだ山形LIVE、満足の行く2時間だった。最後の「うやむや」の会場に響き渡った読経はお祖父ちゃんお祖母ちゃんに、そしてヤマガッチャンにも届いただろうか。
「有耶無耶の関」と命名した当時の名もなきお役人のセンスの素晴らしさに脱帽。
そこそこにうやむやに生きていなければ息が詰まって死んでしまう。
ナスの塩漬けは最高だった、ペースメーカーロバくん。マーチンOMは宝だよハッチ。血圧210超えは信じられんぜサトーくん、ツッチー本当にお疲れさんでした。
暑さの中、喜び多き彼方、喜多方へ行ってくるぜ。あばよ、みなさんありがとな。

コンサートでこれだけの大入りは「洗心庵」のギネス記録とか


地元の皆様をはじめ他府県からも大勢お越しいただきました

栃木県宇都宮市/宇都宮 STUDIO P5 餃子美味いぞ

2024年07月05日 | カテゴリー: 山木康世

宇都宮といえば餃子の街としていっとき脚光を浴びて駅前にはテントがいくつもはられ元気な姿を見せていた。
それがいつしか鰻の浜松に席を譲り久しい。何年になるのだろう。僕も浜松=鰻はずっと定着していて、にわかには信じられず、あの浜松がかいとしばし疑ったことがある。
しかし宇都宮には餃子専門店があちこちにあり、ご飯、ビール一切注文できなく、ひたすらにカウンターで焼き立ての餃子にかぶりつく。水餃子の選択もある。
大将は飽きることなく日がな一日餃子と格闘、大きなフライパンに油を敷いて餃子を我が子のように扱い、優しく焼き上げる。最後の仕上げに薬缶の水を蓋の隙間から注ぎ込みジューッ、はい一丁出来上がり!6個が基本であるが、当店の餃子は小ぶりにできておりますので2人前3人前で満足できると思います。初めてご来店のお客様への張り紙を読みながらの舌鼓。2人前を頼む。待つこと7分、眼の前の皿にパリパリと良い感じで焼き蒸し状態の我が子が12個。なんのそのマリ、十分にでかいぞ、僕は正直札幌のみよしの餃子の大きさが好みであるので、昼は12個で大満足だった。確かにビール一杯あったらとも思ったが仕事前である。アルコールはいただけない。
それにしても今日は暑い!熱風がときおり餃子の汗に当たって余韻をさらに蒸し上げ状態にする。汗が吹き出ることはなく、ジンワリジンワリシャツを濡らし始める。
会場には大きな除湿機が2台ブンブン唸っている。暑さの原因に湿度が大いに関係している。ピアノの置かれた場内の除湿機は、ピアノのための除湿と知った。
広々伸び伸び空間は何かと余裕が出来て心身ともに良い。ギター弾き語りにちょうどの広さであるな。
シンガーソングライターであるので、曲はさることながら詩はそれ以上に大事である。餃子の中身と一緒であるな。
猛暑猛暑とワイドショーは拍車をかける。これから少し北上するので気持ち涼しいが、今の日本は東南アジア状態になってしまった感がある。
さぁ夏は思いっきり汗を書いて、水をたくさん飲んで体の活性化、元気に乗り切ろう。そのうちすぐにサミーサミーと背中を丸めて咳でもコンとひとつ寒い冬が待っているのだからね。

モダンなスタジオでした


皮がもっちりしたギョウザでした

東京都北区/スタジオ・アンダンティーノ 第3スタジオ(1階)でのヒトヤスミ

2024年07月04日 | カテゴリー: 山木康世

バタやんこと田端はんは古いギブソンをそんなに持ち上げなくても良いのにと言いたくなるほど胸の上の方まで持ち上げて
♪ワタシがアナタに惚れたのは ちょうど十九の春でした♪
僕の好きな日本のミュージシャンだ。歌手ではない。音楽スタイルをきちんと持っていた音楽人なのだ。マイク片手にパフォーマンス、ついには振り付けもしてしまうカラオケ大好き演歌歌手ではない。ウケ狙いでマイクを胸にあてがい何かを考えていそうでいないなんちゃって歌手でもない。
彼が歌うと実に幸福な気持ちになったもんだ。そんな日本の歌手探したってそれほどいなかった。
僕が16歳の高校生、ギターを始めた頃ときめいたのはテレビに出てくる加山雄三だった。加山はんも必ずギターと一緒に歌を歌っていた。「旅人よ」で薬缶の中のお湯は沸騰、蓋が音を立てて弾けて床に転がり落ちた。
それほどギターは大事なのである。言葉足らずで語り足りない気持ちをギターは代弁してくれる。援護射撃にハモニカも、その時の彼の胸の内を口中から雄叫びす。
筋書きのない50年音楽文士による2時間はたまらなくこらえられない山登りのピクニックなのである。道端に何がいるか、咲いてるか俺は目を見開き、耳をかっぽじて夏の汗を拭き拭き黙々と歩いてゆく。なんだ!前を歩いているのは父さんじゃないか。足が遅くなったと言え父さんを追い越さない。追い越せない。いつも父さんの尻や背中を見て歩いてゆく。無言で何か言っている。「そろそろ馬の背でヒトヤスミするか」って言ってくれそうで言わない。休まない人だった。いつも動いてた。そんなとき、「よしヒトヤスミだ」っておにぎりを広げる一時は最高だった。青空に遊ぶ鳥たちもピーピー枝でヒトヤスミ。あんな午後のヒトヤスミ、夢のようなヒトヤスミだったな。
文士の村、田端の駅頭でレンホーが東京都の舵切り胸の内を雄叫んでいた。
さて東京を、日本を誰がどのようにお導き下さるでしょうか。
バタやん、一曲おねがいします。

背後のカーテンからバタやんが覗いていたような・・・


「今度はピアノでも弾こうか」