となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

北秋田麦歌音始末記

2010年05月31日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

五所川原→弘前→大館→早口→鷹ノ巣と電車は2時間ほど走って目的地に到着。駅に降り立って日曜日というのに駅前商店街に人が一人も見えなかったことに驚いて、寂しくなった。車も数えることが出来るほどしか走っていない。信号機は動いてはいるが、なくてもトラブルなんか起きないよなぁ、と思ってしまった。
こんな風景、全国各地に見られる。誰がこんな街作りをしてしまったのだろう。故郷札幌だって同じような悩みがあるという。少子化に輪をかけて中心の空洞化。郊外に大型店舗が一見便利で車社会にとってはありがたい存在と思える。
しかし飽きが来て、そのうち皆が冷静に考えて街に戻ってくる日が来る。駅前が混雑する日がやって来る。そのとき歩行者天国などをやっていては時代遅れなのだ。車天国にする。どこでも誰でも駐車、停車OKにする。警察はこの日ばかりは田舎の駐在所の優しさで皆に接して、取り締まりではなくサービスに徹する。こんな警察のあり方も町興しには欠かせない職種なのだ。
コソコソ隠れて取り締まりをして、なんだか時代遅れの軍隊の憲兵のような警察はノーである。テレビもアメリカの過激な警察まがいのドキュメンタリーは作るべきではない。

そんなこんなをしゃべって幕を切った鷹ノ巣ライブは最高の盛り上がりだった。
この店で、入社して初めて手に取ったサンプル盤が「白い冬」だった、という元ソニー社員におめにかかるとは誰が想像出来ただろう。こんなところまでソニーも責任を負わない。責任なんてどうでも良いが、良い話を知らない大企業もかわいそうな気もする。不景気になった時、こんな話に耳を傾けるような会社がほしいもんだ。街の無人化と関わりがない訳でもない大企業のあり方。最後に残るのはお金ではなく人の心のあり方、持ち方が街を作り国を作る。

「麦の歌」オーナーの小笠原さんはネットとは無縁の生活をしている。ライブの告知を新聞社に出かけて載せていた。大勢の人が集まったのは彼の情熱がまず第一にある。そして近くから遠くから足を運んでくれた皆さんの心優しき歌心にある。
どーもありがとー、大変充実の一日でした。また会いましょう!
(山木康世)

津軽鉄道各驛停車音始末記

2010年05月30日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

この青空に感謝です。岩木山の勇姿にしばしホテル最上階の展望レストランより見ほれておりました。沖縄の湿った風のもと、走るように雲が流れる真っ青な空とはいささか違いますが、本州の最果ての青空も格別でございます。今日は「幸せは青空の彼方から」まさにその空の下を秋田へゴトンゴトンと移動です。
「津軽鉄道各驛停車」発表会は大成功。作詞者、版画家の藤田健次さんともお会いできました。とても温厚な方で、画風が体を表しております。僕も津軽鉄道サポーター(応援隊)でございます。ストーブ列車に乗り込みたくて4年前に企画し、ライブ実現で蒔いた種が実を結ぼうとしています。春夏秋冬を4回重ねてこの初冬に“花”を咲かせます。人生の醍醐味は新しい人との出会い、昔の人との再会、夢、行動実行、実現、現実にあります。過去の積み重ねで今があるわけです。今も過去になるのです。
脳味噌はその中から良いものや、驚きのものを最上階に積み重ねて行くのでしょう。昨日の津軽鉄道各驛停車ライブは最上階でピカピカに輝いております。ただいま10時22分秋田鷹ノ巣へ向かい準備、11時にはホテルを出立です。
澤田社長、藤田健次さん、澁谷さん、高瀬さん、名前を挙げたらきりがございません。誠に楽しい実りある一日をどうもありがとうございました。
一度なくしてしまったものを取り戻すには時間も労力も根気もいる。せめてなくさない方向で皆が寄り集まって知恵を絞っても遅くはない。スピードや便利さ、快適さだけでは人間の生きていることの充実や快適さは得られないことも頭にたたき込んでおこう。
本当にこの青空に感謝です。
(山木康世)

津軽鉄道ライブリハーサル

2010年05月29日 | カテゴリー: スタッフ・ダイアリー

無事に五所川原に到着、スタッフと打ち合わせ後、リハーサルに入っております。
本日初披露の「津軽鉄道各驛停車」も楽しみです。
天晴れ晴天です。

吉田精一君?

2010年05月28日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

南の見知らぬ宮崎という街に思いをはせて文通したのは小学生の何年生の頃だったか。地図では南にあるのは分かるが、どれほど遠いものか想像を超えていた。同じクラスのほとんどの生徒は東京がまず一番の南の訪問地であったろう。それから南へ行くというのは、何か特別な事情や親類がいるとか以外はあまり聞いたことがないほど、南の地は遠いところだった。
何年生だったかも忘れたが、確かに札幌市立曙小学校でクラスごと、生徒全員で文通をしたことがある。相手先の学校は宮崎の小学校だった。僕の相手は男子で名前を忘れてしまったことは実に惜しいことである。
2回か3回やりとりしたものと思われる。分厚い封筒の中から宮崎の観光絵はがきが数枚出てきて目を見張ったことを覚えている。鬼の洗濯岩、鵜戸神宮、日南海岸、子供の国、霧島山、高千穂峡などなどよーく覚えている。絵はがきを見ながら、いつも肌寒い北国とは違う南国を思い、いつかは行ってみたいものだと思い、返事を書いてこちらも札幌の観光絵はがきを送ったものだ。

それから20年ほど経って、ふきのとうコンサートで初めて宮崎を訪れた。そのころはまだ男子生徒の名前を覚えていてステージの上から呼んだ。もしも来ていたら楽屋に来てくださいとかなんとか言ったんだろう。しかし期待は外れて何もなかった。
その代わりではないが、同じ「康世」という名前の女性が声をかけてきて手紙をくれたことを思い出す。初めて同じ名前の人の存在を知った日である。そんなこともあったり、コンサートで各地を回るようになって今までは体験できなかったおもしろいことも徐々に増えていった。
宮崎の誰だったか、吉田精一君だったか、今この文章を書いていてフッと天から降ってきた名前であるので確信はない。しかしなぜこの名前が脳味噌に降りかかってきたか。もしかしたら正解かもしれない。脳味噌の奥深くに仕舞われた記憶の断片が、埃を取り払われて起動したのかもしれない。もしもこれが真実だとしたら、今ものすごいことを体験、体感していると言うことになる。記憶がよみがえる仕組みをだれもまだ解明していない。
相手もすでに小学校の思い出も風化するような年齢になってきたのであまり期待はしていないが、少し期待もしている。

高校の同期会で親友は聞いてきた。「ところで山木君は幾つになったんだ?」
相変わらず童顔の僕を見て聞いてきたのだろうと思い
「還暦だよ。ところで君は幾つになったんだ?」
「偶然だな、還暦だ、早いものだなー、アハッハー」
壇上にかなり高齢な人が現れた。周りを取り囲んだみんなを見渡しながら
「みんな年取ったな、ところで君たちは幾つになったんだ?」
「先生イヤですよ、みんな同じですよ。アッハッハー、アッハッハー」

口角(口の両側)を少し持ち上げてごらん。なんだか意味はないが笑いの気分にならないかい。心がおもしろくて平和な時は口角が持ち上がっている。持ち上げるからおかしいのか、おかしいから持ち上がるのか。ニワトリが先かタマゴが先か。
(山木康世)

「おきなわ倶楽部」にインタビュー掲載

2010年05月25日 | カテゴリー: ニュース

6月1日発売の「おきなわ倶楽部」6月号に、写真付きインタビューが掲載されています。
沖縄県内の書店やスーパー、コンビニの店頭でお買い求めいただけます。
早いところでは5月27日から販売されるようです。

よろしくお願いいたします。

「タウンみやざき」にインタビュー掲載

2010年05月19日 | カテゴリー: ニュース

5月27日発売の「タウンみやざき」6月号に山木康世インタビューが掲載されます。
宮崎の思い出、お祝いライブのことなどを語っております。

「タウンみやざき」は宮崎県内の書店、コンビニや、鹿児島や熊本の主要駅の書店でお買い求めいただけます。
また、東京・新宿の宮崎物産館「こんね」にも置いています。

よろしくお願いいたします。

津軽鉄道各驛停車

2010年05月19日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

津軽五所川原は演歌歌手Y・Iの故郷である。「俺は田舎のプレスリー」と華々しくデビューしたのはずいぶん昔の話だ。テレビもねぇ、電話もねぇなどと何もない田舎と歌っていた。

五所川原に初めて足を運んだのは2006年11月11日。「雪酔」「故郷はここにある」を津軽鉄道がイメージソングとして話を広げてくれた時だった。ここでは両歌の作詞者中村光一氏の働きかけが大きく我を助けてくれた。まずストーブ列車に乗りたくて勝手に企画、ライブの話を持ち込んだ。あいにく初冬で地吹雪にはほど遠かったが、寒さはほんのりと寒く、夜には冷え込みが増した。駅スタッフが薪の暖をストーブでとって雰囲気を作ってくれた。ほのかな薪のぬくもりに包まれた電車で往復2時間あまりのライブをした。ストーブの上で焼かれたスルメに舌鼓、酒も進むというものだ。
その翌年10月25日、見事な紅葉の中「立ちねぷたの館」最上階で2回目のライブを行った。青森の横に広がったネブタではなく、こちらは立っているねぷたである。睡たい(ねぶたい)が眠たいに変化した。ねぶたは睡魔を取り払う祭りとして考案されたと物の本にある。

総じて東北の人は木訥として素朴な人が多い気がする。しかし酒が入ると饒舌になり、実におもしろい話しぶりで飽きさせない。青森県は東北の中でも異質の県である。何か違う文化圏の香りがする。おそらく遠い昔、北の最果ての日本という環境が独特の人間関係を作っていったものと思う。東京から800キロほども離れている。さらにそこから津軽へ行くと、良い意味で孤立していたのではと思う。弘前とは違う、意識が芽生えたのだろう。

そんな町のローカル鉄道のイメージソングを作った。車社会の中、地域の足としてがんばっている津軽鉄道に惚れた。エールを送った。きちんと年会費を払っているえらーい津軽鉄道応援団員でもある。歌詞は五所川原在住の藤田さんという人が作った。すばらしい詩である。作りたくてウズウズした詩である。すぐに快諾した。まだ藤田さんとはお会いしていないが、5月29日には会えると思う。
今年1月にはメロディーも簡潔な覚えやすい平成民謡ができた。我ながら秀逸なものができた。
2月、五所川原に立ち寄った際、発表会を兼ねてストーブ列車ライブを再度、5月に行うことができる運びとなった。あと10日ほどである。大いに楽しみである。当日乗り込んだお客さん、プレス関係の人にどのような印象を持ってもらえるだろう。好印象と踏んでいる。

新青森まで新幹線が伸びる。記念行事の一環として11月には「津軽鉄道各驛停車」CD発売ライブも行う予定である。
今年の「この国に生まれて60年」のお祝いコンサートの陰に隠れて目立たないが、僕にとっては楽しみな地域へ貢献活動ではある。
その前に明日から二戸へ伺う。ここも東北は岩手県である、そして盛岡ライブ。南秋田にも行く。初夏の東北へ風はなびいている。

さてもみなさんおききあれ 津軽鉄道おもしろや 
名所名物夏祭り 各驛じまんの二つ三つ(詩・藤田けんじ)

(山木康世)

汝迷う事なかれ

2010年05月18日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

道に迷う。進路に迷う。低迷。混迷。選択に迷う。情欲に迷う。二葉亭四迷、クタバッテシメェ。答えに迷う。いっとき「ファイナルアンサー」なる言葉が流行った。あの脂ぎったオールバックの亡者のギョロメが、バックグラウンドミュージックと共に回答者に答えを迫る。迫真の演技。天国か地獄。
そんなに迷うことはない。確かに迷うことが多い人生である。しかし生きるか死ぬかほどの重大な選択など人生で滅多にお目にかかれないだろう。それよりも迷って迷って迷いすぎている時間の方が問題である。もったいない。それでなくとも時間は勝手に過ぎて行く。時間を有効に使うには、使用者側の心の持ち方次第である。お金も同じ。金さん銀さんではないが「番組で得たギャラはどうするのですか?」とアナウンサーの問いに迷わず「老後のために貯金です(笑)」とっくに老後だろうと全国民が祝福の笑いをした。
生きて元気なときに使わなくて何が楽しいか。病気や事故のために備えていても良いが、病気や事故は何もすべて天から降ってくるのではなく、本人の気持ちの持ち方、行いで招くこともあろう。なんとかなる。みんなやってきたのである。

東京の空は快晴なり。もうすぐ梅雨のである。そして猛暑がやってくる。その前のさわやかな朝のひととき、汝迷う事なかれ。
(山木康世)

札幌山葉野原音始末記

2010年05月18日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

ふきのとう「011」を思い出す。
ヤマハスタジオジャックで1ヶ月にわたり録音された。東京からのメンバーはススキノのホテルに缶詰状態である。録音を終えて外に出ると、夏でもヒンヤリとした北海道の朝が待っていた。早朝まで営業しているクラブで最後の仕上げをする。
「音」で興奮した脳はすぐには冷めない。一杯引っかけて帰るのが楽しみで、今日の録音をあーでもない、こーでもないと語り合いながら時間は過ぎていった。あの夏は脳のヒダに深く鮮明に刻まれている。徐々に陽が昇ってくる。カラスがススキノの朝を掃除している。ヤマハと言えばスタジオジャック、011と連想する。あれから30年ほども経っているだろうか。
スタジオジャックは無くなっていた。あのときのカメラマンOもいない。事務所も無くなった。しかしレコードはしっかりと「音」を残している。

そんなこんなの思い出の詰まっているヤマハでジョニーことギタリストの曽山良一さんと共演となった。さすがヤマハである。出る音に寸分の狂いがない。現代の澄んだ音が場内に鳴り響く。
モニタースピーカーと称するのものが足下に転がっている。今ではイヤホンでモニターする人も多くなっている。それも無線で音を聞くというのもある。音楽を演奏する場合、通常表(客席側)に出す音と中(ステージ側)に出す音がある。表に出る音に関しては表にいる技術屋に任せるしかない。しかし中の音は演奏者が演奏しやすいように注文を付ける。ギターの感じも同じである。ボーカルとギターの音量バランスなどを技術屋に伝える。このモニター次第で出来不出来が大きく変わってくる。気分の手元で弾かれるギターの音は、脳が何かを感じて弾かせるのである。すべてそうであるが、脳が基本、司令部、連合艦隊の旗艦総大将なのである。こいつがおかしな命令を出すとことごとく隊列は乱れ、何かおかしな戦闘となる。その結果負け戦となるのである。

59歳札幌での音楽会は予想以上の成果を上げて終了した。
良い音は良い演奏となる。それを聞いた観客の心が平穏になり、時には感動の嵐が吹き荒れる。何が良い音楽で何が悪い音楽かは鉛筆で紙の上に書いて説明ができない。しかし確実に存在する。それはその場にいた人たちがミューズ(音楽の女神)に会う瞬間でもある。天から舞い降りてくる女神はいつも居るわけではない。きちんと我らが用意して、おもてなしの心を見せないと降りてこない。
この日はここにいた全員のエネルギーが女神降臨となった。
かくして五月晴れの故郷音楽巡礼は幕を下ろした。

ジョニーありがとう、みなさんありがとう、ヤマハさんありがとう。
(山木康世)

札幌三吉神社奉納音始末記

2010年05月16日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

天気は完全に回復。美幌を後にして層雲峡、石北峠を抜け砂川PAで一服。高速道を一路札幌を目指す。
札幌の空も「三吉神社の杜の詩」にあるとおりの五月晴れである。我ながら天晴也。
すぐに札幌市電乗り場へ向かい、電車でGOライブ。真っ赤な日本人ジョニーとの再会。父を捜して三千里、放浪のギターマンにも会う。厳正なる抽選で選ばれし30名が市電に乗り込む。その前に全員でハイ、チーズ。

市電ライブも3回目となると自然、気持ちにゆとりが出てくる。お客さんのほころんだ笑顔が故郷に帰ってきた実感を増す。故郷の空気は良いもんだ。3年目となる市電ライブも我が人生の一つの行事になった。
今回は電車の内部を大学生有志が飾った。この一年の間に、市電ライブ企画に参加する人たちがずいぶん増えた。市電ライブが市民権を得てかわいがられてきていることが分かる。
出発進行。以前新年会をしたことがあるイタリアンレストラン「レッコルレーア」の大将、女将がいつも通り、店の外に出て、電車に行きも帰りも手を振ってくれる。
市電が藻岩山の裾野の歩道に差し掛かると、なんと抽選に外れた山木倶楽部会員が、激しく電車に向かってオレンジのストールをはためかせている。車内は笑いのるつぼ。最高の演出だ。付近を通り過ぎる車の運転手がごきげんな顔で彼女と電車を見ている。
やがて電車はUターンし、三吉神社へ向かう。

境内はぎっしり集まったお客さんでいっぱいだ。やる気が一気に出る。今年も五月の晴れの夜空で歌える幸せをかみしめて90分一本勝負。弁慶と義経が空から降りてきて過去最高の三吉神社例大祭奉納音楽会となった。
打ち上げでは、参加した新たな若い大学生のスタッフが紹介された。
札幌中心部の心の拠り所、神社は動き始めた。本来あるべき姿に戻りつつあると感ずる。人が出入りしなくては始まらないのだ。空気が淀んでしまっては何事も良くないのだ。ライブも同じだ。
「僕死ぬのをやめました。ありがとうございました。」二人連れが楽屋に戻る途中の松の暗闇で手を差し伸べてきた。がんばれよ、聴いてくれてありがとうね。

提案を記しておく。
土曜、祝日、休日市内中心部の駐車場を無料にする。路上パーキングは1時間に限る。駐車場への補てんは全商店街が知恵を絞ってひねり出す。人が大勢戻ってくれば、そんな金はすぐに捻出できる。警察も取締りばかりではなく、サービスで誘導したり道案内をする方向に向かわなければ人は戻ってこない。どうしてああも人を取り締まりたがるのか。子供だって親に怒られれば反発したくなる。同じで反感をもたれる警察のイメージを変えろ。田舎の駐在所のお巡りさんの心で市民に接してくれ。自然やさしい顔つき、やさしい心遣いになるというもんだ。
以上提案を述べて幸せの例大祭音始末とする。みんなありがとー、ありがとー。

(山木康世)

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