となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

JUMBOMartin

2010年03月08日 | カテゴリー: ミュージック・コラム 

今日も札幌中央区にあるYAMAHAにギターを見に来ている。
高値の花のマーチンはもちろん手が届くはずもない。しかしそれに準じたような日本の手頃なギターを物色中なのである。山木康世弱冠22歳の秋である。
ぱっと目にはマーチンかと思わせるような、フルコピーのギターもあるにはある。YAMAHAはオリジナルで勝負していて、音もかなりの良い線まで行っていた。
最後に残った候補が2本あった。YAMAHAとジャンボだ。

ジャンボはあこがれのマーチンの形をしていた。両者とも35000円。悩むところである。昭和47年頃の35000円は今で言う10万ほどの価格であろうか。学生の分際でバイトでためた10万を潔く使うのはかなり勇気がいったと思う。まさに清水の舞台から飛び降りた感じだ。
僕は最後の最後にYAMAHAを止めてジャンボにした。自分でもびっくりしたが、遺憾なく天秤座の性格が発揮された瞬間である。
ものを買ったらそのまま使うということをあまりしない。何かしら手を加えないと気が済まない。自分流にしてしまう。カスタマイズであるが、ことギターなどに素人が手を加えたりすることは厳禁である。
ある夜、僕はドライバーとペンチと金の棒ヤスリを片手にフレットの打ち換えを決行した。どうしてもギブソンのような平フレットが気にくわなかったのだ。鐘を転がしたような鋭い音がほしかった。この音はマーチンの独壇場であるが、フレットを打ち換えただけで出るものではない、ということは百も承知だったが、行ってしまった。その結果傷だらけの無惨なネックとなってしまった。今なら絶対逆立ちしてもやらない。ろくな工具もなく、万力もないところで綺麗に出来るはずがない。
銀色に輝いていたフレットは多少黄色っぽいフレットに12フレットまで変わってしまった。弦がびびって音が濁るフレットは丁寧にヤスリをかけた。何とか徹夜でマーチンらしいジャンボギターの完成となった。
しかしヘッドの文字がJUMBOではMartinにほど遠い。そこで最後にプラモデルの手業でMartinに書き換えた。友人のKが、Martinを買ったので半紙に字体を写して、JUMBOを消してMartinにした。since1950もさりげなく入れた。
得意がってコンテストに出たものだ。このギターで道が開けたと言っても言い過ぎではない。デビューしてしばらくはこれを使っていた。
彼の岡林某もこのギターをMartinと信じ切って中野サンプラザで、自身のギターの弦が切れたので代用に使っていた。何も申さなかった。
このJUMBOで「夕暮れの町」を創った。これを引っさげて上京、勝ち進み賞金を得たこともある。

札幌に帰ると部屋でいつも待っているJUMBOは38歳ということか。
その横には67歳のMartinがある。息子という年の隔たりはある。
あのころ机の上で蛍光灯の下、皆が寝静まった夜中コピーしたMartinは世界にひとつのMartinだった。JUMBO家からMartin家へ養子に行った35000円は、悲しいかな本家にはなりえないままで終わるだろう。
プロになって日の目を見ることのなかったJUMBOMartinはその後実に37年経った2009年「旭日東天」の裏ジャケットで日の目を見た。それも裏側の板目模様で日の目を見たのである。何と奥ゆかしいギターであることか。

(山木康世)