となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

父よ許せ。

2010年03月09日 | カテゴリー: ミュージック・コラム 

長年暮らしていた小さな家を解体することになった。誰がって学生のうら若き僕がである。本来は大工さんか解体屋さんが行うのであるが、なぜか父は人に出来て息子に出来ないわけがないと考えたのかお鉢が回ってきたのである。近頃は煙突掃除も一丁前にきれいに散らかさないで出来るようになった。ここはひとつ解体もやってみっか、全く父らしい。父流子育て。

父は大学生の僕に「父さんは離れて暮らしているんで、仕事が終わっても手伝えない。土曜と日曜は一緒にやろう。それまで一人で怪我しないようにな、やってみろや」
何とも恐れ入谷の鬼子母神。玄能(大型の金槌)とペンチとバリ、ドライバーくらいしか工具がないというのに父はやってみろと言ってきた。
不安定な屋根に長時間いることすらやったことがないのに、どこまでできるやら。
札幌の雪解けの春風はまだ冷たく、軍手を通して冷たさが伝わってくる。

この家は父と母が結婚してすぐに本家から譲り与えられて住み始めた台所と2部屋の小さな家だった。りんご園の本家の門衛の家のような格好で建っていた。そして僕を含め子供が4人生まれた。お祖母ちゃんに抱かれた1歳頃の写真が残っている。「野良犬HOBOの唄」でアルバム中に納めた遠い日の家族の肖像。
それから3歳で僕らは羊蹄山の美原に移った。9歳までの6年間の思い出の美原が終わって、札幌に戻ってきてまた住み始めて東京オリンピックまで寝起きした思い出の家だ。

屋根にまたがって先ずトタン屋根を外しにかかった。一枚一枚剥ぐように音を立ててトタンは剥がされむき出しの正目の板が見えてきた。木造のこの家は物置が付いていて、壁に何カ所か節目の穴があり、その穴から外をのぞくことが出来た。冬の寒さに良く耐えたもんだ。
やがてマサもすべて外した。家の見取り図のようにむき出しの間取りが見えてきた。ここからが一番危険な解体だった。柱にしがみつき数十本の横の柱を取り除き、最後に縦の柱を取り除いた。

我が家のトイレは北側の一角に面していて、電気がなかった。夜は開けて用を足していた。その便所が眼下に見えている、お世話になりました。横の柱に器用に乗ってそんなことを思った、瞬間哀れ玄能は手を離れて落下してしまった。
見事に命中、ボッチャン、久しく使っていない便倉には、まだくみ取っていない代物がたまっていた。上部が空気の幕が張ってあるように沈黙を保っていた便倉に非常事態発生。にわかに臭いが春風に乗って上空へ上がってきた。「クッサー!」思わず落下しそうになり柱にしがみついた。あっという間の出来事に声をなくした。しかし我が身がはまることのなかった幸運をかみしめて、玄能の悲しい末路に涙した。ずっと玄能の行方は秘密だった。父にも生前話したことはない。

何日かかってどのような経過をたどって解体作業は終了したのか全く覚えていないが、この玄能落下不祥事は未だに鮮明に脳裏に刻まれている。落ちて行く一コマ一コマがスローモーションのようによみがえる。音を立てて飛沫を上げて、これは見ていないが、深く深く暗闇に落ちていった玄能の気持ちになって申し訳ないと思ったことは事実だ。
たいしたことない紛失事件であるが、未だに臭いものに蓋をしている。

父よ許せ。しかし父はくみ取った後、最後に玄能を見つけてちゃんと戻したかもしれない。几帳面で生真面目な父には十分考えられる事ではある。非常に似たような立派な玄能が今でも実家にある。父が僕の珍事をくみ取ってくれたかどうか、真相は闇である。

(山木康世)