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戦争に行かなかった父 その1

2024年05月10日 | カテゴリー: 山木康世 

父は果たして本当の父親だったのか。僕がこの世に来る前の話なので誰もわかる話じゃない。役所だって大勢の人の記録をとっているだけで知ったこっちゃない。結婚の儀を挙げた札幌中央区の三吉神社の当時の宮司に聞いたって分かるはずもないし、当然生きていないじゃないか。
DNA鑑定も良いだろうが、もうこの世にいない父親のDNAなど、お別れの無言で焼かれちまった骨以外なにも残されていなくて宇宙にすら存在していない。まぁ手がかりとして分かるような話をすれば、少し顔立ちが似ている。自分で性格が似ていなくもない。これは想像するしかない。そうか骨の鑑定でのDNA抽出は現代の科学では可能なのか。
いろんな思い出の情景・場面で、生前の父親が確かにこんな感じで家族に接していたな、とか、こんなことを口にしていたとか、嫌だったなぁとかを思い出す。
父はカメラ愛好家でライカの高価なものを持っていた。オリジナルダリアの新作を撮るためだったようで、家族の写真とかで撮られた記憶がない。新年などに家族が集まったときに撮る機会があって、いつも時間がかかりすぎて家族は呆れるのが常だった。
仕事の手伝いをするとき父は詳しくあーすれこーすれを言わない。昔の人間は手取り足取りではなく、自ら見て触れて覚えろというわけか。要するに察すれと言うこと。これが苦手だった。
僕の好きな思い出のひとつに、小学生の頃、父と外出するときバス停までよく手を繋いで歩いた。そのときよく握った手をモゾモゾと動かしていたことを妙に思い出す。無意識だったのか意識的だったのか。末っ子で人一倍かわいかったのかなぁ。
父は晴れて国家公務員を60歳で退職、札幌の実家から50キロほど離れた早来に土地を購入、家を建てて念願の若い頃からのダリアの花作りを誰にも時間にも邪魔されず始めたのである。
父は70歳で免許取得、自動車学校開設以来だと自慢していたな。あの世で今時の高齢者の事故をどのように見ているか。何年乗車していたのか、80半ばに返納、その間にずいぶんと楽しんだのだろうな。札幌にはなかなか出てこなくて、近くの田舎の駅に停めて電車で来ていたもんだ。千歳までよく送ってくれた。時間になるとソワソワしていたのを思い出す。ハンドルには遊びが必要だといって必要以上に遊んでいて、助手席でドキドキしていたが、あまり口に出して言うに言えない空港までの懐かしい時間があったなぁ。別れた後無事家に帰ったか心配もした。本当に好奇心の強い人で何事にも関心を持った興味の尽きない人生を楽しんでいた感じのする人だった。