となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

「夕暮れの町」よ永遠なれ

2010年06月09日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

高校時代の級友が最愛のお母さんを亡くしてから2年が経とうとしている。
お母さんは末期の肺ガンに冒されていたが気丈な人だった。江古田マーキーに初めて足を運んでくれたのは4年ほど前になるだろうか。僕は級友とお母さんを誘って開演前のひとときをファミレスで過ごした。お母さんは若い頃サイパン島に住まわれて、向こうでお父さんと知り合ったそうだ。やがてアメリカ軍の上陸、バタバタと周りの人が死んでいった。お母さんは当時女学生だった。着の身着のまま日本に戻ってきた。
何度もマーキーに聴きに来てくれた。ファンクラブにも入ってくれて僕の歌を、MCを好んで聴いてくれた。屋形船にも3度乗船して楽しんでくれた。彼女が亡くなる前の3年間に僕の思い出が滑り込んでくれたことを幸運に思う。
お葬式の日、級友は場内に嶺上開花の「夕暮れの町」を流した。僕も大変お世話になって、短い時間だけどたくさんの思い出を残してくれたお母さんのお別れに駆けつけた。お別れの参列者が大勢集まってきた。

サヨナラ 君はもういない 僕もいつもの道を ひとり帰ろうかな

学生の頃作った「君」は川向こうから遊びに来て、バスで橋を渡って帰ってゆく。「君」を見送る情景を歌ったものだ。
そしてあの会場に流れていた「君」は本当に向こう岸へ行ってしまうお別れの「君」だった。こんな情景を誰が想像したろうか。あまりにも悲しすぎる。人は生きている間にたくさんの人とお別れをする。まるで最後のお別れのための予行演習のようだ。自分もいつかみんなとお別れする日が来るのだと痛感した。不覚にも膝の上に「夕暮れの町」の涙がポツンと落ちた。

先日のマーキーの音合わせの時、知り合いのO君が「僕の大阪の親友が先日自ら命を絶ちました。高校生の頃にギターを教えてくれた奴でした。夕暮れの町を教室で教えてくれた。よく二人で歌ったモンです。良かったら奴の鼻向けに歌ってくれませんか」
本番でつぶやくように歌った「夕暮れの町」不覚にも涙がこみ上げてきて歌えなくなった。まだ高校生の奴らが札幌で歌っている情景が脳裏に忽然と浮かんできて耐えられなかった。まだまだ未熟者の僕らの若い頃の話だ。見たこともないが彼らは僕を知っていた。O君とはその後知り合いになり、今ではかけがえのない友となった。
悲しい、寂しい。人生にはつきものだ。仕方がないが受け止めて、それなりにみんな生きている。生きなければならない。自ら死んでしまってはいけない。残されたものがどれほど悲嘆に暮れるか想像したら死ぬわけにはいかない。いくら訳があったとしてもいなくなるのは卑怯だ。病気で生きたくても生きることができない人がいるというのに一人勝手にいなくなるとはずるい。

ふきのとうは「白い冬」で36年前デビューした。周りから、まず「白い冬」を出してから好きなことをしても遅くはない、と説得された記憶がある。僕にとってのふきのとうデビュー曲は絶対「夕暮れの町」だった。この歌を歌うために上京したと言っても過言ではなかった。しかし皆の説得に頭をたれた。今思い起こすことがある。もしもの世界があったとしたらの話である。初めに「夕暮れの町」で出て、すぐにB面の「白い冬」がラジオなどで話題になる、となったらどのようなイメージを世間から受けることになったろう。僕のイメージしていたふきのとうの世界が「夕暮れの町」なのだ。早晩「白い冬」は皆に知れ渡り評価を受けたことだろう。おいしいものをまず最初に喰うか、最後に残しておくか、大げさに言えば哲学の領域に踏み込むような気もする。
ギターギターで明け暮れた学生時代の熱病がこの歌には詰まっている。そしてコンテストで作曲賞という金字塔を立てたのもこの歌なのだった。その頃の僕にはレコード会社や事務所の人間の生活や出世まで保障する勇気や気構えにも欠けていた。
今となっては、あの頃のディレクターも、マネジャーも、この歌に目を付けてくれた地元札幌のラジオディレクターも鬼籍の人である。とっくに当時のS事務所もこの世からなくなった。寂しい話である。わずか36年ほどで兵どもが夢の跡なのである。音源は全国各所に残っていて瑞々しい当時を偲ぶことが出来る。

そんな訳で先日のマーキーで歌った「夕暮れの町」は新しい歌となった。自らが作った歌にもかかわらず、新境地を切り開かれた記念すべき日となったのである。お気づきの方もおられると思うがレコードでは「夕暮れの街」なのである。これも上京したときの一寸した心境の変化だったのだろうか。今はその経過を思い出せない。素直で初心な最初の頃に戻ろうとしている「夕暮れの町」なのである。
(山木康世)

月が煌々と照っている。

2010年06月08日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

俺は親父が二階建ての屋根裏にこさえた秘密の三階へ上がって行き、今夜も手作り望遠鏡で月をのぞいている。八月葉月、暦の上ではすでに秋を迎えておりますがまだまだ北海道だって残暑が続いております。立って歩けないほどの高さしかない。屋根からの釘が時折顔を見せたりしている。
隣近所、番犬、皆が寝静まった深夜を見計らって満月を観測する。満月や新月の2,3日後に起きる大潮の不思議さ。月と地球は密接な関係を持っている。地球誕生以来そうやってきた。まるで男と女の関係だ。一部の地球人は月も、まして宇宙も意識しないで我が物顔で暮らしている。月がくしゃみをすれば、それこそ天変地異なのであるのに無関心である。あったとしても恋人と空を見上げてロマンチックになるくらいだろう。

俺がのぞいている長さ1メートルほどの紙製の望遠鏡は通販で買い入れて自作したものだ。自作したと言ってもキットの類である。白い厚紙の大小の筒が2本、レンズが2個。それを組み立てるだけである。如何ほどしたものか全く記憶にない。
梁に半ば隠すように置いてあった望遠鏡を小窓にセットする。観音開きの小窓を静かに開ける。今夜は格別に快晴の夜空である。小窓から突き出された望遠鏡は何を発見するか。恐ろしく月の表面が輝いている。精度はそれほどではないが、倍率が大きいので手に取るように見えている。どこらあたりにアメリカ人は降り立ったのか。去年、宇宙飛行士がハッチを開けてソロリソロリと階段の手すりを捕まえて降り立った。そして「私にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である」と言ったとか言わなかったとか。それも確認できるほどの大きさに月の表面のクレーターが無数、丸い筒の中に見えている。

UFOは存在するのか。宇宙は無限のようで有限だと分かるようなもっともらしいほど広大無辺な話なので存在はするだろう。しかしそれが人間が考えつくような宇宙船や異星人とは限らない。月の裏側に秘密基地が存在して、そこから彼らは飛来する。ありそうな話である。ジッと月の縁を観察していれば、そのうち光る物体が次から次へと編隊を組んで地球にやってくる。俺はそれをジッと観察している。みんな寝静まっているので起こしては気の毒だ。明日があるのだから。しかし時折、地球の雲が筒にかかるくらいで何の変化も見られない。徐々に目があまりの光の強さに疲れてくる。

東の空が白み始める。今夜の秘密観測はこれにて終了。俺は物音を立てないように静かに三階から二階へ。どこかで見た光景だ。そうだアメリカ人宇宙飛行士もこんな感じで降りて第一歩を記したのだ。無事二階に帰還。地球にご帰還とは話にならないほど小さな帰還であるが自分だけの収穫を胸に秘めて自室のドアを開けた。さぁ明日は「夕暮れの町」本選会だ、全力を尽くすのみ。22歳の夏は「夕暮れの町」一色だったが、しばしの息抜きに見た月の魔力に今でも雁字搦(がんじがら)めだ。

オレンジ色の空の下 帰る君を乗せたバスが見える
千切れた雲の切れ間から お月様が寝ぼけまなこでのぞいてる

次回は「夕暮れの町」について記そう。
(山木康世)

江古田魔鬼音始末記

2010年06月06日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

36年か。世間でこの道一筋30年などとオーソリティーを取り上げたりするが、自慢するつもりはないが、実にそれよりも遙か6年も長くこの道歩いているのである。
それでは歌詞を見ないで何曲歌えるか?ということになると俄然形勢が不利になる。数曲しかない。トホホでござる。きっちりと36年を2で割った前半18年と後半18年を分けることが出来る。前半は比較的大きなステージである。ここでの勉強はほとんどゼロであったと言えよう。すでにステージに出る前に東京でリハーサルを終えて、自分の役割を果たすだけのポジションのひとりだった。幕が上がると場内は真っ暗で、その上距離が離れているので顔どころか姿も見えない。大げさに言えばお客さんが生きているか死んでいるかもうかがい知れない。おまけにスポットライトなど当たった日には逆光で何も見えない。そんな中で歌う歌はレコード通りに歌う歌。アァーなんて退屈な時間だろう。しかしその報酬は今よりは数倍大きかった。多くの人がグループを止めない理由のほとんどは、この報酬に尽きるだろう。しかしこの事を公の前で言ってしまっては身も蓋もない。であるからハーモニー、協調精神のすばらしさを説いたりする。会社と同じである。よくぞ自身も18年続けたものである。20代、30代、40代少々、貴重な時間をこの手の音楽生活で続けたものだ。

そして42歳で再出発をしたわけである。足下を見つめ直そう。もう一度やり直そう、立て直そう、今までの積み重ねた時間、スタイル、精神のすべてなげうって顧みて、再出発をライブハウスというお客さんとの距離が目の前のステージを選んだわけだ。ここでは鼻水を垂らしても、涙を流しても、無精ひげが伸びていても完全に見破られる。真剣勝負なのである。抜いたら竹光であったでは情けなくて困るのである。

初めて吉祥寺の「マンダラ2」の階段を下りていった日を良く覚えている。3日間行ったライブに集まってくれたお客さんは、ふきのとう時代のお客さんばかりであるから、まだライブ会場での自分ではない。まだまだギターも歌もふきのとう時代のスタイルだった。興奮のままライブ終了、ギターの片付けを自分ですることが何となく億劫だった。そしてまだ残っているお客さんの視線が怖かった。恥ずかしかった。
あれから18年月日が流れた。
江古田マーキーは全国で一番回数をこなしている会場だ。ホームグランドと言っても良い。年に平均3回ほどやっているので通算54回、階段を下りて上ってということになる。しかしまだまだやることが山積している。毎回挑戦のライブだ。ふきのとう時代のぬるま湯ではない。僕は本当に良いお客さんに恵まれている。人の傷みを分かる人間は良いモンだ。みんなみんなお先にどうぞ、どうぞの精神だ。そんな人たちが集まってくる夕べのひとときは幸せの夕べなのである。自然会場の空気が一体となる。居眠りするお客さんの寝息も聞こえてくるほどの静寂の中で聴き入ってくれる場内は歌い手、弾き手冥利に尽きるというモンだ。汗を一杯かく。身体が軽くなる。年に3回身体的、精神的に大きな新陳代謝をしている。昨夜も一番のライブだった。この頃、この一番を毎回更新してるような気分になる。
感動してくれる喜びは天からのプレゼント。

鳩山政権は260日ほどで解体、霧消した。何もまだ言ったことを実行せず沈没した。鳩山さん自身はおそらく40年近くも大きなステージで演じてきただろう。しかしそれが全く生かし切れなかった。つまりスポットライトにどう照らされるかだけで40年を過ごしてきたのだ。今それが完全に日のもとに露呈された。沖縄に初めて行った話を聞いたとき信じられなかった。僕でさえ年に2回も行っている。県民の揺れ動く気持ちも痛いほど分かっているつもりだ。その証拠に知事と那覇市長が違う党の人。これではうまくいくはずがない。北海道札幌も同じだ。せめて同じ考えの人が引っ張っていってくれなくては、一隻の船に違う港を目指す船長が二人いたのではいつまで経ってもどこに行くのか迷走するだけだ。ふきのとうの末路も同じだった。

「津軽鉄道各驛停車」をどうするか、とびっきり良いものに仕上げよう。11月の焦点だ。その前に「この国に生まれて60年」がある。あと4ヶ月で大台に乗る。昨夜皆が帰った後、楽屋で同じ歳のオーナーUと話した。「10月で60歳になるなんて信じられないなぁ」彼は苦笑しながら「嫌だなぁー」彼も10月生まれなのだ。全国広しと言えどもなかなかフォークソングがピッタリのお店が少ない。意外とジャズの店はある。しかしマーキーはますます練馬区江古田駅前千川通り吉野家地下で燦然といぶし銀の輝きを放っている。

みなさーん、ありがとー、あったかく軽くなったかーい!
次回9月4日土曜日は奇しくも母の命日、50代最後の「魔鬼」だ。
(山木康世)

竹中某とミスターマリック 

2010年06月05日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

ミスターマリックの名前が出てこない。
テレビで竹中某のしゃべり方を観ていて、誰かに似ている。この穏やかそうだが頑として自分の意見を貫くしゃべり方、誰だっけ?誰だっけ?
徐々に顔が浮かんできた。そして一気に顔が脳裏に浮かんできた。そーだこの男だ。ちょこちょこマジックのテレビ出演でお目にかかるこの男の名前は?
それから先が止まってしまった。
まぁ良いか、後でヒョンな時に思い出すだろう。今はとりあえず特徴をメモしておこう。黒メガネのマジシャン。
しばらくして車を運転中交差点にさしかかった。そのときマリックという名前が天から降ってきた。ミスターマリックだ。全貌が明らかになって僕の前方は明るくなった。

竹中某。郵政民営化の陰の立て役者。本当に立役者だったのだろうか。彼の口癖は「基本的に…」基本的には間違っていなかった。しかし現実は、枝葉は思った以上に茂って複雑な様相を呈していた。民営化前の郵便局の活気は今はない。出入りしている人も少ない。なぜなのだろう。東大出のエリートが口で酸っぱく理路整然と説いた未来図に庶民が郵便局に寄せる思い、信頼性、安心感などの空気感が足りなかったか。机上の空論であったのか。
マリックはマジックで完全に穏やかな口調で騙す。どうせ騙すなら身をもって実績の上、見破られないマジックがほしかった元郵政大臣。
穏やかに話す人がすべて人が良いとは限らない。善良な人とは限らない。
余談であるが東京12チャンネルの歴代の経済解説者の一人は竹中某。もう一人は階段で女高生の下着を盗撮したとして逮捕された大学教授Uだった。両者とも一見は善人である。

さぁ今日はお江戸の練馬江古田マーキー興行、ピッカピッカの7枚セットポストカードを持って、いざ参上いたしまする。
(山木康世)

胆振学校でいぶりがっこを食らう

2010年06月04日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

「いぶりがっこ」と「胆振(いぶり)学校」が座布団一枚なので、答えは「早来」でござる。
札幌は石狩支庁、美原は後志支庁、早来は胆振支庁にある。
馬の脳みそ殿の思いも寄らぬ早来!HAYAKITA!HAY! AKITA!ヘイ!秋田!座布団五枚でござる。
ほら吹きの答えにも苦笑。此奴は確か数年前、拙者のウエルカム=植える米と一刀両断に切り捨てた男。まだ生きておったか。
当の早来は現在、安平町に吸収されており元の呼び慣れていた勇払郡早来町字新栄は勇払郡安平町早来新栄に住所変更されている。父がいなくなって4年になろうとしている。生きていた頃よく見慣れた住所も変わってしまい惜別の情に堪えないでござる。。

胆振とは北海道の一支庁の呼び名でござる。明治政府が設置したものとある。石狩 空知 後志 渡島 檜山 胆振 日高 上川 留萌 宗谷 網走 十勝 釧路 根室の14支庁がある。道産子にとっては慣れ親しんだ名称でござる。今でも天気予報などでよく耳にする。地元に戻るとテレビやラジオから聞こえてくると、懐かしい響きで胸が熱くなるのでござる。

早来の実家で初めてお目にかかったNHK「胆振デイ」には大受けしたものでござる。NHKもやるなぁ。座布団一枚。
漬け物の「こっこ」に反応。拙者らは「おここ」と使っていた記憶がよみがえってきて一人笑ってしまったでござる。漬け物=香の物→こうこ→おここ→こっこ

今はネットで検索するとほとんど家にいながらにして知りたいことが山ほど分かってしまう時代になって少々味気ない気もする。しかしこの二日間クイズで皆の衆の心の内が見えたことは大収穫でござった。人の心の内まではネット至上時代でも入り込めず、知り得ないと言うことが確認できたでござる。皆の衆、ありがとう、ありがとう!

さて民主党号の船長は誰になってどんな操舵でどんな港へ我らを連れて行ってくれるであろう。これはクイズではない。悪しからず。早朝7時現在。

明日は久方の江戸での興行、大勢の見物客のご来場を夢見てござる。
(山木康世)

いぶりがっこ

2010年06月03日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

結論からまいろう。
「あっちか」でござる。「AKITA」を引き返す、ひっくり返す。「ATIKA」になる。早くからご明答を出されたHKD51さん、手持無沙汰の昨日ではござったよ。しかしなかなか大勢の脳細胞を垣間見た燃える書き込みの日ではござった。火曜日、東京は燃えるゴミの日でもござった。

ATTI→ITTA あっちへ行った!?
「あっ!近かっ!」
「アッチー」一回→いっかい→行くかい

などなど迷答もござって、ウーンと唸って感心した次第でござる。
短い書き込みの中にもそれぞれの隠れた個性が見え隠れ。BBSが寺だとしたらさしずめ「書き込み寺」。

江戸時代の「駆け込み寺」は離婚したい女性がすぐには離婚できない事情を解消してくれる寺。ここに逃げ込んだ女性が、ある一定期間勤めを果たせば離婚が許された尼寺だそうだ。「縁切り寺」とも言われて当時の女性は、男性に比べてかなりきつい地位を甘んじられ生活を余儀なくされたのだと思うと不憫に思ってしまう。男性諸君、女性には大いに敬意を表しませう。ー妄想癖の言。

さぁ再度挑戦してみてちょーだい。
僕の生まれは札幌である。幼いころ育ったのは美原である。父と母が最後に暮らしたのは早来で大人になって帰省した地である。
さて秋田続きで、秋田には「いぶりがっこ」と呼ばれる名物漬けものがある。大根を囲炉裏の上に吊るして燻製状態にしてからぬか漬けにしたものである。コリコリした触感が漬けもの好きにはたまらない。
問題である。この「いぶりがっこ」を上記の札幌、美原、早来のどこかの学校で食べることができる。SAPPORO、MIHARA、HAYAKITAいずれでありませう?
なお申し訳ないが、北海道の方にはお答えを遠慮していただこう。
あぁークイズは楽し!

土曜日のマーキーは新しいギターの音色を聞いてもらいましょう。
26日の四谷フレンチ、ヒザとヒザを突き合わせて歓びの土曜日といたしましょう!
(山木康世)

あっちかこっちか

2010年06月02日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

秋田に向かっていた旅人は勢い余って秋田を通過してしまいました。
「引き返せ、引き返せ」と心の中でもう一人の自分が盛んに促します。
夏の真っ盛りということで、頭上にはギラギラと太陽が。思わず「アッチー」と額の汗を拭きながら急ぎました。
行けども行けども秋田は見あたりません。
フト立ち寄った峠の茶屋でコッチコッチのかき氷を口にして今日中に戻らなければライブに間に合わない。
「イソゴウイソゴウ」。
やがて上空には4っつに畳んで持ち帰りたい青白い月が夜道を照らしてくれました。
「急ごう急ごう」夜道を急ぎました。
しばらく行くと二股の道、向かって左「あっちか」向かって右「こっちか」と書かれた立て看板が出ていました。さて僕はどちらに行ったら秋田に着くのでしょう?

皆さんの灰色の脳細胞をフル活動、この難問を解いて下され。答えは明日のブログでいたしやしょう。
(山木康世)

ギブソンB-25のピックガード

2010年06月01日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

我が愛器ギブソンB-25は手前味噌で申し訳ないが名器である。名機であることも明記しておこう。
マーチンの華やかな音色とは異なり、実に低音の効いたドスのある音を出す。
原宿の竹下通りの2階の楽器屋で入手した。1990年頃だったと思う。20年近く我のものである。その前に何人の人の手に渡っているか想像できない。製造されたのは1960年代後半のものと思われるが詳しくは知らない。世間にはやたらその辺のことが詳しいマニアがおられる。この時代のものは、表板は何々で裏は何、何本製作されたものとか恐れ入谷の鬼子母神でござる。
ギブソンはマーチンで働いていた男がのれん分けして会社を立ち上げ、独自のファンを開拓、現在に至っているという。明らかにマーチンとは異なるギターである。これほど明白に示してくれると選択に困らない。似たようなデザインで音も似通っていると悩むところである。はっきりと主張を持ったギターは魅力的である。あとは持つ人との相性に関わってくる。人それぞれ千人千色。楽器などは演奏して聴かせて喜んでもらえる、と同時に演奏者自らも喜び楽しんでいるのである。心の現れが楽器から現れ出でる。
いろいろのスタイルがある。寸分の狂いも許さない人、かなり緩い人、コピーをすれば天下一品の人、がさつで荒々しい人。みな心の現れである。

先日ピックガード(ギターボディの中心に穴がある。その下部に演奏時、ピックが本体にあたって傷が付くのを防ぐために張ってあるセルロイド状の板)を探し回った。あいにく地方都市にはなく、東京で買い求めた。しかし我が愛器にピッタリのものはなく一枚の下敷きにノリ紙が付いたようなものを買い求めた。あいにくギターは五所川原に送ってしまい手元になかったので現地で切り出し、取り付けようと決めていた。
ただいま完了也。秋田県鷹ノ巣のホテルの一室で、フロントで借りた鋏で前のものと同じ形に切り出した。これで長年の懸案事項が終了した。このピックガードの形にも好き嫌いがあるだろう。僕は好きである。これを考えたデザイナーに拍手である。
こうして北秋田の5月、ホテルの一室で修復、完成されたB-25。長いつきあいがまたまた始まる。このギブソンB-25の新しい歴史が始まった。
ただいまテリーズテリーカジュアルを打ち合わせ中。今に世界でただ一つの名器が誕生すると明記しておく。

ギターを弾いていると幸せでござる。
(山木康世)

北秋田麦歌音始末記

2010年05月31日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

五所川原→弘前→大館→早口→鷹ノ巣と電車は2時間ほど走って目的地に到着。駅に降り立って日曜日というのに駅前商店街に人が一人も見えなかったことに驚いて、寂しくなった。車も数えることが出来るほどしか走っていない。信号機は動いてはいるが、なくてもトラブルなんか起きないよなぁ、と思ってしまった。
こんな風景、全国各地に見られる。誰がこんな街作りをしてしまったのだろう。故郷札幌だって同じような悩みがあるという。少子化に輪をかけて中心の空洞化。郊外に大型店舗が一見便利で車社会にとってはありがたい存在と思える。
しかし飽きが来て、そのうち皆が冷静に考えて街に戻ってくる日が来る。駅前が混雑する日がやって来る。そのとき歩行者天国などをやっていては時代遅れなのだ。車天国にする。どこでも誰でも駐車、停車OKにする。警察はこの日ばかりは田舎の駐在所の優しさで皆に接して、取り締まりではなくサービスに徹する。こんな警察のあり方も町興しには欠かせない職種なのだ。
コソコソ隠れて取り締まりをして、なんだか時代遅れの軍隊の憲兵のような警察はノーである。テレビもアメリカの過激な警察まがいのドキュメンタリーは作るべきではない。

そんなこんなをしゃべって幕を切った鷹ノ巣ライブは最高の盛り上がりだった。
この店で、入社して初めて手に取ったサンプル盤が「白い冬」だった、という元ソニー社員におめにかかるとは誰が想像出来ただろう。こんなところまでソニーも責任を負わない。責任なんてどうでも良いが、良い話を知らない大企業もかわいそうな気もする。不景気になった時、こんな話に耳を傾けるような会社がほしいもんだ。街の無人化と関わりがない訳でもない大企業のあり方。最後に残るのはお金ではなく人の心のあり方、持ち方が街を作り国を作る。

「麦の歌」オーナーの小笠原さんはネットとは無縁の生活をしている。ライブの告知を新聞社に出かけて載せていた。大勢の人が集まったのは彼の情熱がまず第一にある。そして近くから遠くから足を運んでくれた皆さんの心優しき歌心にある。
どーもありがとー、大変充実の一日でした。また会いましょう!
(山木康世)

津軽鉄道各驛停車音始末記

2010年05月30日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

この青空に感謝です。岩木山の勇姿にしばしホテル最上階の展望レストランより見ほれておりました。沖縄の湿った風のもと、走るように雲が流れる真っ青な空とはいささか違いますが、本州の最果ての青空も格別でございます。今日は「幸せは青空の彼方から」まさにその空の下を秋田へゴトンゴトンと移動です。
「津軽鉄道各驛停車」発表会は大成功。作詞者、版画家の藤田健次さんともお会いできました。とても温厚な方で、画風が体を表しております。僕も津軽鉄道サポーター(応援隊)でございます。ストーブ列車に乗り込みたくて4年前に企画し、ライブ実現で蒔いた種が実を結ぼうとしています。春夏秋冬を4回重ねてこの初冬に“花”を咲かせます。人生の醍醐味は新しい人との出会い、昔の人との再会、夢、行動実行、実現、現実にあります。過去の積み重ねで今があるわけです。今も過去になるのです。
脳味噌はその中から良いものや、驚きのものを最上階に積み重ねて行くのでしょう。昨日の津軽鉄道各驛停車ライブは最上階でピカピカに輝いております。ただいま10時22分秋田鷹ノ巣へ向かい準備、11時にはホテルを出立です。
澤田社長、藤田健次さん、澁谷さん、高瀬さん、名前を挙げたらきりがございません。誠に楽しい実りある一日をどうもありがとうございました。
一度なくしてしまったものを取り戻すには時間も労力も根気もいる。せめてなくさない方向で皆が寄り集まって知恵を絞っても遅くはない。スピードや便利さ、快適さだけでは人間の生きていることの充実や快適さは得られないことも頭にたたき込んでおこう。
本当にこの青空に感謝です。
(山木康世)

« 前に戻る次のページ »