となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

「夕暮れの町」よ永遠なれ

2010年06月09日 | カテゴリー: ミュージック・コラム 

高校時代の級友が最愛のお母さんを亡くしてから2年が経とうとしている。
お母さんは末期の肺ガンに冒されていたが気丈な人だった。江古田マーキーに初めて足を運んでくれたのは4年ほど前になるだろうか。僕は級友とお母さんを誘って開演前のひとときをファミレスで過ごした。お母さんは若い頃サイパン島に住まわれて、向こうでお父さんと知り合ったそうだ。やがてアメリカ軍の上陸、バタバタと周りの人が死んでいった。お母さんは当時女学生だった。着の身着のまま日本に戻ってきた。
何度もマーキーに聴きに来てくれた。ファンクラブにも入ってくれて僕の歌を、MCを好んで聴いてくれた。屋形船にも3度乗船して楽しんでくれた。彼女が亡くなる前の3年間に僕の思い出が滑り込んでくれたことを幸運に思う。
お葬式の日、級友は場内に嶺上開花の「夕暮れの町」を流した。僕も大変お世話になって、短い時間だけどたくさんの思い出を残してくれたお母さんのお別れに駆けつけた。お別れの参列者が大勢集まってきた。

サヨナラ 君はもういない 僕もいつもの道を ひとり帰ろうかな

学生の頃作った「君」は川向こうから遊びに来て、バスで橋を渡って帰ってゆく。「君」を見送る情景を歌ったものだ。
そしてあの会場に流れていた「君」は本当に向こう岸へ行ってしまうお別れの「君」だった。こんな情景を誰が想像したろうか。あまりにも悲しすぎる。人は生きている間にたくさんの人とお別れをする。まるで最後のお別れのための予行演習のようだ。自分もいつかみんなとお別れする日が来るのだと痛感した。不覚にも膝の上に「夕暮れの町」の涙がポツンと落ちた。

先日のマーキーの音合わせの時、知り合いのO君が「僕の大阪の親友が先日自ら命を絶ちました。高校生の頃にギターを教えてくれた奴でした。夕暮れの町を教室で教えてくれた。よく二人で歌ったモンです。良かったら奴の鼻向けに歌ってくれませんか」
本番でつぶやくように歌った「夕暮れの町」不覚にも涙がこみ上げてきて歌えなくなった。まだ高校生の奴らが札幌で歌っている情景が脳裏に忽然と浮かんできて耐えられなかった。まだまだ未熟者の僕らの若い頃の話だ。見たこともないが彼らは僕を知っていた。O君とはその後知り合いになり、今ではかけがえのない友となった。
悲しい、寂しい。人生にはつきものだ。仕方がないが受け止めて、それなりにみんな生きている。生きなければならない。自ら死んでしまってはいけない。残されたものがどれほど悲嘆に暮れるか想像したら死ぬわけにはいかない。いくら訳があったとしてもいなくなるのは卑怯だ。病気で生きたくても生きることができない人がいるというのに一人勝手にいなくなるとはずるい。

ふきのとうは「白い冬」で36年前デビューした。周りから、まず「白い冬」を出してから好きなことをしても遅くはない、と説得された記憶がある。僕にとってのふきのとうデビュー曲は絶対「夕暮れの町」だった。この歌を歌うために上京したと言っても過言ではなかった。しかし皆の説得に頭をたれた。今思い起こすことがある。もしもの世界があったとしたらの話である。初めに「夕暮れの町」で出て、すぐにB面の「白い冬」がラジオなどで話題になる、となったらどのようなイメージを世間から受けることになったろう。僕のイメージしていたふきのとうの世界が「夕暮れの町」なのだ。早晩「白い冬」は皆に知れ渡り評価を受けたことだろう。おいしいものをまず最初に喰うか、最後に残しておくか、大げさに言えば哲学の領域に踏み込むような気もする。
ギターギターで明け暮れた学生時代の熱病がこの歌には詰まっている。そしてコンテストで作曲賞という金字塔を立てたのもこの歌なのだった。その頃の僕にはレコード会社や事務所の人間の生活や出世まで保障する勇気や気構えにも欠けていた。
今となっては、あの頃のディレクターも、マネジャーも、この歌に目を付けてくれた地元札幌のラジオディレクターも鬼籍の人である。とっくに当時のS事務所もこの世からなくなった。寂しい話である。わずか36年ほどで兵どもが夢の跡なのである。音源は全国各所に残っていて瑞々しい当時を偲ぶことが出来る。

そんな訳で先日のマーキーで歌った「夕暮れの町」は新しい歌となった。自らが作った歌にもかかわらず、新境地を切り開かれた記念すべき日となったのである。お気づきの方もおられると思うがレコードでは「夕暮れの街」なのである。これも上京したときの一寸した心境の変化だったのだろうか。今はその経過を思い出せない。素直で初心な最初の頃に戻ろうとしている「夕暮れの町」なのである。
(山木康世)