福岡スクエアガーデン風がすぎていった
2025年06月10日 | カテゴリー: 山木康世
1974年9月21日といえば忘れもしない「ふきのとう」におけるデビューの日である。第二の誕生日であると言ってもいい。当日ジャストの記憶は残っていないのであるが、かすかに思い出せるのはキャンペーン連日の日々であったということは記憶にある。
デビュー曲「白い冬」が売れ始めて社長以下会社が躍動を始めたくらいは想像できるが、キャンペーンというものに巻き込まれるとは夢にも思っていない。SONYにしてみれば新人歌手の誕生につきもののキャンペーンは当たり前の出来事。我がスタッフ陣もエレックレコードからの移籍組ということで過去に経験したことのない出来事で内容自体の説明もなかったし出来なかったことであろう。SONYに電話をかけると「はい、白い冬のソニーでございます」と女性従業員は電話に応える。それを聞いたときは勘違いを起こしたのも事実である。まさか天下のSONYが我らを名指しで答えてくれるとは!これは後にわかることであるが、一押しの歌があれば、他のだれであってもそれを受け答えるシステムになっていただけの話であるが、まぁそれほど売れたということである。
この年の10月、スタッフ以下何かと関わり合いの多い福岡、博多へ出かけた。思い出すのはRKB毎日放送のとある一室である。来訪した歌手たちが、地元ディレクターさんたちと談話をする応接間のような部屋である。そこに置かれた一台のテレビから野球中継が行われていた。長嶋選手の現役引退試合である。
10月14日に後楽園球場に最後の雄姿を見ようと5万人の観客が押し寄せたと言う。今では若い人のコンサートに10万人などという話も聞く時代であるが、一人の野球選手の引退試合に球場に5万人は驚異的な数字である。そして生中継が行われた、そのテレビに地元ラジオ局、我らふきのとう御一行様はくぎ付けとなっていた。キャンペーンどころではない。熱いものがこみ上げて、長年の長嶋選手を我がことのように思い出しテレビの前で感慨深いものを強く感じて今にも泣きだしそうだった。
9月21日に発売した「白い冬」若干23歳であって、あと1週間余りの10月22日には24歳となる。大いなる旅立ちの日々いざ出発進行、方や引退試合である。まさに終わりがあって始まりがあるである。偶然立ち寄った博多の放送局の一室におけるあの日のテレビ観戦は未だ色あせていなくて脳みそにしっかりと刻み込まれている。そして先日の89歳ご逝去で、まさに風がすぎていったである。
博多の街は頑丈で大きなビル群に生まれ変わっていた。久しぶり徒歩で西鉄駅界隈を歩いた。札幌より人口では少し負けるが、街の活気は博多に軍配が上がる。ここに住んでいる若者の精神が札幌とは少し違うようだ。札幌人の少々控えめな態度は冬場の厳しい長い環境がそうさせるのか。デビューの時生まれて初めて訪れて、夜になって福岡出身のスタッフの連れて行った親不孝通り。ここで商売をしている当時の友人、知人を紹介してもらった。その時に感じたエネルギーは、今でも見ず知らずの若者たちに大いに感じる。
随分とお世話になったなぁ、キャンペーンだけではなくそれに付随した周りの多くの人たちの出会いを鮮明に梅雨空の下思い出した。博多はとても良い街である。
デビュー後たびたびキャンペーンで訪れた博多であるが、当時夕方の男性アナ二人による歌謡番組の冒頭の言葉は永の友人のようにも感じて、その後の励ましにもなった。
「元気だった?今度の新曲も良いねぇ!」

体調もバッチリ、九州3か所目のライブです

ブルーの灯りの中で歌います
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