「エーなんと申しましょうかー」
2010年02月24日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
このフレーズをご存じの方は昭和30年代の長島、王が大活躍の頃をよく知る方であろう。
僕も熱狂的な長島ファンであった。どうしてあのように長島が国民のヒーローだったのだろう。映画スター顔負けのマスクをしていたのは確かなことであるが、人気では映画スター以上なのであるから不思議な現象だった気がする。
今懐かしの映像を見ると、意外と球場は閑散としていたりする。時代はラジオ全盛であるから耳から入ってくるアナウンサーの声と観客の声援と淡々と解説を入れる解説者とバットに当たる球音のみで情景をイメージしていた時代である。
そこで登場するのが「エーなんと申しましょうかー」の小西徳郎氏であった。彼がしゃべり出すと、ある種の魔法がかかってベースボールが野球になる。つまりアメリカ式の剛は柔を制すではなく、時として柔は剛を制すのしなやかなスポーツのムードになる。
ペリー一行が大挙、年に一度来日してサムライをコテンパンにやっつけて帰って行く。しかしたまに勝つときがある。そのとき国を挙げて沸いたものだ。
当時の大人は、先の戦いで負けた仇を取ったような気分にひたったのだろう。
祝杯だ、勝利の祝杯だ。そして球場に足を運べない大勢のファンは耳からの音のみで脳に勝手に大勝利の情景を想像してしていた。
長島はそのヒーローの代表選手であった。
良い時代である。明け透けに見せる必要のないところは見せない時代。
デジタル画面のように毛穴の一本一本まで見せる必要などなかった時代。
国技館のガラガラを見せる必要のなかった時代。
国会中継で居眠り大臣の醜態を見せる必要のなかった時代。
有名人の嫌な日常を見せる必要のなかった時代。
スローモーションでもう一度と重箱の隅をつつくような場面をのぞく必要のなかった時代。
100分の1秒などという人間生活で必要のない時間を論じる必要のない時代。
リセットなどという言葉がなかった時代。
コピーが一般ではできなかった時代。
見たものだけを信じ、聞いたものだけを信じ、味わったものだけを信じられた時代。
精緻さを求めすぎた現代、感覚で計り知れない数字の幻の価値に熱狂しているように見える。テレビでは、公共の電波を我が物顔に毎日拝借して、まるで職場のように登場するほんの一握りの人間が予想屋、読心屋、評論屋となってしゃべりまくる。
選手が競い合っている会場に流れているムードの採点を取り戻さなくては人間らしい瑞々しさがなくなり、人間はロボットと化す。予想が当たると公共の電波泥棒は画面を分割されて、小さく映った小窓の自分の顔だけを気にしながら悦にいる。やだやだ。
裏で大金が大手を振る研ぎ澄まされたスポーツの祭典も良いけれど、逆ののどかなスポーツの祭典を見てみたいと願う天の邪鬼。
そこで登場するのが小西氏の「エーなんと申しましょうかー」なのだ。
(山木康世)