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姶良茶請後始末記

2010年04月05日 | カテゴリー: ミュージック・コラム 

「奥さーん、今年の漬け具合見て、ホンとうまく漬かったわー」
「そうぞ、どうぞ、いらっしゃい、まぁそこに腰でも下ろして休んでいって」
北国の遅い春を待ちわびて、去年の秋に漬け込んだタクアンをドンブリ一杯に隣のおばさんは持ってきた。

「ヤス、大根洗うの手伝ってね、早くしないと時間がないからね」
北風が急に冷たく強く吹き始め冬支度をせっつかせた。母は今日こそしなければほんとに雪が降り始めてしまうと決心をした。
僕は日曜日、物干し竿の横で汚れた大根を一本、一本タワシで洗い泥を落とす。一斗樽に貯められた水道水も手に刺さるほど冷たい。「ヒョエー、ナンタルチア、この冷たさは、これが身を切る冷たさというものか」水から自らの手を取りだして両手でギュッと握りしめて回復を待つ。軍手からは冷水がポタポタとしたたり落ちる。

しかし人間の肉体適応力はすさまじく、徐々に軍手で被われた大根を洗う手は慣れていった。そのうち湯気が立ち上るほど手は抵抗し始め、冷たさを感じなくなった。母は僕が泥を落としきれいになった真っ白い大根を2本ずつ藁で束ね物干し竿にかけてゆく。50本か100本か詳しい記憶はないが、相当な量の白い大根の見事なすだれが北風に吹かれている。乾いた北風にさらされて適度に乾され太陽の甘さを一杯に取り込んだ大根は数日後に一斗樽に漬け込まれる。物置で3ヶ月ほど寝かされて、漬け込まれた大根はタクアンに変身して朝の食卓を飾る。
母は漬け物が大好きでニシン漬け、白菜漬け、キュウリ、ナスの漬け物などを豊富に食べさせてくれた。ご飯をおいしく食わす脇役として漬け物は欠かせなかった。

隣のおばさんが持ってきた今年のタクアンは今日は脇役ではなく、立派な主役である。大根役者が名役者でいられる日である。
母も台所で我が家の漬け物を切ってきておばさんに出して、お茶を飲みながら漬かり具合など世間話に花を咲かせる。夕方のひとときはあっという間に過ぎてゆきおばさんはおいとまする。

タクアンは沢庵という江戸時代の僧侶が考案した漬け物らしく、蓄え付けが訛ってタクアンになったという。太くてピチピチの白い大根が乾されてシナシナになり、糠と塩で更に水分を吸い取られまことに美々なる冬のタクアンとなる。
大根足、大根役者などあまり良い意味で使われない大根。しかしこれに変わる漬け物はない。ちかごろやたら甘い漬け物が多く美味くない。もう少し本来の塩の持つ美味さで漬け込まれた漬け物がほしいものである。

今日も良い天気だ。ひねもすのたりのたりかな。別府から姶良まで280キロの道と340キロの道があった。全行程高速使用と熊本インターからの高速使用の両方が考えられた。今日は日曜日なので高速でも距離は心配しなくとも良い。やまなみハイウエーを選ぶ。クネクネ曲がった道は阿蘇の山々を周囲に見ながら熊本を目指す。途中蕎麦を食しに休憩。そこで美味い麦味噌漬け大根を所望した。あいにく一本のままの漬け物は車内で食うことができない。まさかタクアンの丸かじりはないだろう。曲がりなりにも、その昔「ふきのとう」なんざんす。そこで切ってもらえないかお願いすると、蕎麦屋の女性が奥の方で食べ易いように半身を輪切りにしてパックの中に詰めてくれた。うれしいじゃないですか。こんなすぐにでもできる心遣いがなぜか都会では有料となったりお断りされてしまう。寂しい限りですな。これで姶良までのお茶請けができたというものだ。パリパリ歯ごたえもよく美味い麦味噌の味が口中に広がる。

姶良のライブは鹿児島という県民性もあるのか大いに盛り上がった。実に反応が良くて手拍子、シングアウト、おまけに焼酎「さつま風来坊」、両棒(ジャンボ)餅、チョコレートなどのおみやげ付きである。近隣諸国への騒音という迷惑もしっかり考慮の上10時半には終了した。熱く熱く余韻は姶良の夜に火照っていた。
夜食に出してもらった豚のバラ肉入りカレーライスが美味かった。熊本からの馬刺しにも舌が鼓を打っていた。また来たいモンだアイラー。

しかしこの日の運転はここで終わらなかった。みなにお礼と再会を約束しての手を振って更に160キロほど、真っ暗な高速道路を宮崎へと突っ走った。やがて走行距離500キロの一日が南国の星々とともに眠りについた。
(山木康世)