となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

京都都雅都雅後始末記

2010年05月10日 | カテゴリー: ミュージック・コラム 

晴天のもと、四国を後にする。サヨナラ四国、コンニチハ本州。大鳴門橋、淡路島、明石海峡大橋、本州明石へと急ぐ。淡路島はでかい、でかい。四国へ向かう時の渋滞混雑が嘘のようで、向かう時には見えなかった明石の街が外国の街のように目の前に広がってくる。明石の街の地下へ吸い込まれるようなトンネルの入り口が迫ってくる。
土曜、祝休日の1000円高速でどの程度の渋滞があるかと心配したが、ゴールデンウイークで遊び疲れたか、お金を使いすぎたか、人出は予想を外れ一度も渋滞に遭遇しなかった。去年の1000円高速開始時に浮かれて飛び出した全国のドライバーは、学習しているように見える。

ユーチューブというチューブがある。これは一体誰が何の目的で続けているのだろうか? さっぱり分からない。井戸端会議の延長線上にある人々の寄り合い所なのであろうか。寄り合い所には自分が作った音楽を聴いてもらうためにプレイヤーにかける。または自分が実演してそれを聴いてもらいたくて音楽を流す人もいる。音楽が鳴り響き人々は感想を述べたり、ほしいなどと言ったりする。そしてプロが精魂込めて作った音楽も同じような精神的レベルで垂れ流される。これは自分の好きな人の音楽への応援もあるだろう。中には秘蔵音源を自慢げに聴かせたい人もいるだろう。興味本位で自分の持ち物を発表したい人もいるだろう。立場が変わればやることも変わるのである。しかし立場の異なる人へ配慮は十分すぎても十分なことはない。こと相手はそれを生業としているプロなのであるから。
 
言葉でブログを書いても、普通の人はすぐに飽きてしまう。誰も見ていないかもしれないと想像すると意欲が湧かなくなってくる。しかし音楽を流すだけなら、何も言葉を考えるほど難しくないので手っ取り早いチューブへの参加の仕方と見える。しかしそこに起きる波紋をよーく考えないと混乱を引き起こす。音楽を生業にしている人にとっては痛し痒しなのである。応援してくれて大変ありがたいのであるが、反面それだけ聴いてハイ終わり、という人が多数いて音楽の購買につながらない、ということも忘れてはならない。近頃CDなどの音楽が売れないと言われている。その一因を買っているのが応援者であったら、それは応援者ではなく妨害者になってしまうのである。
であるからしてプロで生活している人への介入はほどほどにというのが結論である。実にネットで流すのは楽である。楽であるからその反動も大きい。

京都「都雅都雅」でのライブは生涯で最高点に近いライブだった。八幡浜とはまた違い、実験ライブでもあった。しかし実験結果に大満足である。今後の姿を占うようなライブであった。ますます歌うこと、ギターを弾くことに興味を抱いている。
アリーナ席、二階席のみなさん、まっことおおきに。幸せでござった。またの日までさらばじゃ!!
(山木康世)