お節介と親切3
2010年06月18日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
目的駅に着いたとする、さてホームで電車を待つ。ここでもまたアナウンスの多さに閉口する。何度も何度も次の電車の案内、女性のコンピューター声に始まり、駅員の過剰な案内。最後は黄色い線までお下がりください。まるで国民全員を子供扱い。それも言うことを聞いているのか、聞いていないか分からないような子供への扱いだ。何度も何度も確認、警告、案内。これは新幹線でも同じだ。
横道に逸れるが、新幹線は乗る電車が目の前にいるのに乗ることが出来ない。出発時刻10分くらい前にならないとドアが開かない。故に始発駅なのに並んだりする。社用で出かけるサラリーマンばかりではない。旅行を楽しみに初めての新幹線利用者もいるのだ。彼らは早くから来ているのに、過剰な車内清掃とかでなかなか乗り込めない。寒い風が吹くなかでも平気で待たせるのだ。それほど汚れていない床や頭を載せる白い布を交換しなくてもと思ってしまう。早く乗り込んで、駅弁買って、新聞買って、お菓子を買って、お茶を買ってと出発前の喜びにもっと応えるべきだ。そして窓の外に見える大井川や富士山の案内なども良いと思うけど、静かに寝たい人にはお節介か。
さてそんなうるさい電車を乗り継いで空港へ。ここでも終始アナウンスに閉口する。どこどこ行きの飛行機は何番ゲートで案内しております。何時までに受付を終えてください。何時までにお入りください。云々…
しばし静かな空の旅を終えて目的地に着いたとする。荷物引き取り、ここでも女性職員が声を荒げて、荷物をくれぐれも間違えないでお引き取りくださいと半ば怒声にも聞こえなくない。言われなくたって、大事な自分な荷物だ。間違えてもすぐに気がつき元に戻す。そんなことみんな当たり前でできる人ばっかりが移動しているというのに、何かおかしい人への親切心に見せかけたお節介という厄介者。分からない人への親切はありがたい。過剰ではなく、本人に考えさせる部分もあっていいのだ。
提言する。静かな日を国挙げて設けて試験してみる。公共乗り物アナウンスを一切停止してみる。果たして混乱がどの程度起きるであろうか。掲示板は実に見やすいデジタル表示で公共の場で行き先が分からないということがなくなった。それでなくとも騒音にあふれている大都会である。静かになること間違いなし。もしも目の不自由な人がいて困った状況に遭遇していたら、そのときこそ本来の親切心で彼らを導いてやればいいのだ。人と人が自然に近づく。そんな優しい社会を本当は目指しているのではないのだろうか。それとも人への介入は本来煩わしいものと考える人が世の中をデザイン、設計してあのような無味乾燥な公共アナウンス洪水状態を作り上げているのであろうか。
フランスの地下鉄は実に静かだった。次の駅名案内などなくてもみんな普通に静かに乗っていた。3人のジャズメンが車両の一隅で演奏していた。中には良い演奏があると拍手をするご婦人もいた。しかしほとんど無人の自動改札口で飛び越えてキセルする若者も多く見かけた。
To be continued
(山木康世)