終戦記念日考察
2010年08月15日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
65回目の終戦記念日である。
戦争が終わったのか、戦争を終えたのか。前者だと時間的運命で何かしらの力が加わり、終わったという、ある種無責任さが加わる。ネガティブ(受動的)である。後者は自らの意思で終えたということになりポジティブ(主導的)である。
終戦記念日という言葉自体があいまいなイメージである。果たしてどんな終戦で記念なのか。
バンザーイなのか、やれやれなのか、チクショーのイメージなのか。記念日はアニバーサリー、後々の思い出に残しておくこととある。どちらからといえば良いことの記念が良い。敗戦、終戦の記念は分かり辛い記念である。終戦の日で良い。
敗戦記念日でもあるのだが、敗戦だと戦争に負けるがネガティブ、ポジティブだと言葉が見つからない。あえて言うと放棄するであろうか。戦争自体がポジティブなので、敗戦というネガティブな言葉と矛盾してしまう。
戦いを能動的に行わずして戦争と言えるだろうか。戦争をやらされたというような戦争はない。個人的な戦ならあるかも知れぬや、国家間の戦争ではありえない。戦争のネガティブな最悪な結末は国の破滅である。
先の戦いは原子爆弾が登場した最初で最後の戦争だろう。悪魔の兵器は、もう二度と使えないように封印されるだろう。それでなければ地球の破滅ということがあり得るので、こうなると人類の破滅であるからだ。
日本は植民地化されたことがない国なので、国の消滅のイメージがわいてこない。他国に自分たちの現在、未来を管理されるのだ。これは屈辱、恨みしかない。英国が発祥の帝国主義の時代とはこんなことが当たり前のようにまかり通っていた時代なのでである。
おそらく能動的に始めたであろう戦争を終えるには謝るしかない。武装解除して敵国に頭を下げて謝罪するのである。これもおかしな話だ。例えばサッカーで、ボクシングで負けたほうが謝るなんていう話は聞いたことがない。
東京湾のミズーリー号甲板で行われた降伏調印文書に判を押す行為は何だったのだろう。両者の戦いをこれにて終えますという誓いの判なのか、あなた方に対しての数々の残虐な行為を謝り戦いを止めますなのか。戦争自体が残虐なので両者ともにおあいこだ。
作文では受動的な文章は薦められず、指摘される。能動的な文章が良いとされる。
素直に人に謝ることができる人は救われる。謝っても誠意のない態度、不真面目では謝らないほうがいい。アメリカ人は謝らないという。謝ると裁判で不利になるからという。
日本人は何かとスミマセンを使う。これは謝罪のスミマセンというよりお手数をかけますが、とかお世話様ですがというようなニュアンスであろう。時にはありがとうの時にも使ったりする。外人には理解できない相手に対してへりくだる態度の言葉だろう。
今朝の風は、昨日までの風と違い涼しい。海水浴もお盆までと言われたものである。それを裏付けるような風の吹き方である。名もなき兵士の英霊にスミマセンと誇りある戦死を再確認する八月十五日。
(山木康世)