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あの日の翌日

2020年03月12日 | カテゴリー: 山木康世 

大変な時代に入った、これからの日本は、日本人は今までと違う観念で生きていかなければならなくなるのだろう。
高校時代十勝沖大地震があって全員グランドに集合、先生の指示により早め帰宅。家に着くと母親が心配そうに外にいたのをよく覚えている。家の中で一人いることが不安だったのだろう。
あの日の翌日、つまり9年前の今日は隅田川での山木倶楽部主催屋形船の日だった。しかし自粛どころの話ではない。中止だ。2名の予約者と連絡が取れない。日の陰った5時過ぎまで川べりで待つことにした。滔々と流れる隅田川の水の流れはいつもと何も変わっていない。しかし東北で重大事が発生している。現地からの報道に僕はこれから何ができるだろう。先ずは明日の中止の徹底だ。夕飯を取りに入った事務所近くの去年の年末に閉鎖した居酒屋で原発の建屋爆発を知る。メルトダウンの始まりなのだろうか。いろいろと明日からの不安が頭をよぎって心騒ぐ日が続くのである。
そのころの日々の記録が残されているのでアーカイブス2011年3月をご覧ください。

コメント(4) to “あの日の翌日”

  1. 裕見子

    アーカイブス2011年3月を見ました。
    ショッピングモールのテレビで見た大津波にのみ込まれる建物や激しい水の中に流れていく家屋や車。
    その惨状に物凄いショックを受けたことを思い出しました。

    その年の12月に聴いた「北風の荒野にて」と次の年の3月に聴いた「復興前夜」に感動したことも。

    甲府ライブも無事終えられ良かったです。
    私のところのコカリナもホテルのチャペルのマリア様の元、20人も集まればと思っていたのに満席で無事終わりました。
    奇跡の一本松で作られたというコカリナの演奏にも感動しました。
    「あの日を忘れないように」とこの時期、演奏会をしてこられたそうです。
    色々なイベントが中止される中、「決まっていた事なので」と開催されました。

    迷いを断ち切って進まれる人、迷いだらけの私には 凄いなー です。
    早くコロナウィルスが治まって、人の集まる場所にも躊躇せず行けるように、日常が戻ることを願っています。
    今の私にできる事、ゴムも集まってきてとりあえずはマスク作りです(笑)

  2. ひさ子

    2011年3月16日のミュージックコラム三陸を救え!をもう一度読みました。
    静かに耳を澄ませて聞く努力。できるところで手をさしのべる。整理しきれない気持ちをくみ取ろうと努力しよう。という発信、私は何ができたんだろう。
    東日本大震災9年の日、新聞では催し物自粛、高校野球中止、パンデミックなど暗いニュース。
    ケ・セラセラといかなくても、皆でケ・セラセラ聴きたい。歌いたい。新宿の空は雲一つない青空~♪ 放射能も新型ウイルスも消えて無くなれ~!!
    2011年1月京都 都我都我ライブの日、市内ではめったにない大雪でした。二条城のお堀には緋連雀の大群が飛来していました。2ヶ月後に大きな地震が来る事、知ってたのかな…
    私にできる事、「復興前夜」記憶にとどめ、多くの人たちに聴いてもらおう。

  3. チーバくみこ

    そうそう、屋形船でみんなで楽しむはずだった日の
    前日の金曜日でしたね。
    関東でも、毎日毎日余震で揺れ、
    この先いつまで続くんだろうと、不安な日々でした。
    言葉を失うような光景の中にいらっしゃった、
    被災地のみなさまのお気持ちは、
    いかばかりだったかと思います。

    表現者でいらっしゃる山木さんが、
    「復興前夜」をはじめ、震災を受けて作られた
    10曲以上もの歌。
    どれも、心に残る素晴らしいものばかり。
    ずっと歌い続けていただきたいです。

  4. 恵子

    9年前、9歳だった少年は20歳になり、プロ野球に入団し、
    活躍する姿を、亡き父や、遺された人々に見せられるよう
    頑張ります。とインタビューで応えていた。
    一瞬にして、ふる里を奪われた日から9年。
    全く新しい町として生まれ変わろうとしている。
    日本の原発事故から学び、
    原発依存から再生可能エネルギーに方向転換した
    他国を見習って欲しいものだ。
    地震大国日本に原発はいらない。

    コロナで、不要不急の外出禁止。
    学校中止。コンサート中止。高校野球中止。
    かわいそうだが、今は辛抱。
    子供が親と過ごす時間が増えるのはいい事かもしれない。

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