となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

睡眠

2010年03月07日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

 睡眠時間は少ない方だ。
少なくて足りるので、目を覚ましたらつい起きてしまう。そして夕方時に猛烈な睡魔に襲われ机に突っ伏して、椅子にもたれかかって10分、これで事足りている。しかし近頃睡眠時間はそれほど短くないのに、寝起きが悪いときがある。頭が混乱している。起ききらない。すぐにシャキッとしない。若いときには考えられなかった早朝叙情詩。

 8時間睡眠が理想であるとか、人生三分の一は寝ているのでいかに寝室は大事かとか、4時間で十分であるとか、いろいろな説を信じて感じて寝不足の頭をひねりながら、脳という水道の蛇口から枯れ気味の感受性という水をひねり出して生きている。

 まぁ猫とか犬とかは寝ることと起きていることの区別がないのではないだろうかという生活をしている。眠るときはしっかりと体を丸くしているので分かるが、丸くなくても目を閉じているとき寝ているなと思うときがある。実に穏やかなお顔をしている。目を覚ましてもこちらの興味などまるで関心がないというお顔立ちのときがある。これは寝ているのだな。覚醒するとき腕でお顔をおかきになったりこすったりしている。きっと目の中に睡魔様がまだ居残っているのでそれを追い払おうと思いっきり伸びをしたりもするのだ。絶対間違いはない。

 日中彼らは寝ることと食べることが基本で働いたりしない。働くとは人間だけの行為であると、この漢字が示していた。人が動くで働くか。その上、人が重い力で働くか。良くできていると今、気がついた! 「働く」の定義、人が重たいものを動かすような力で行う行為。実に言い得て妙である。今まで物の本で読んだためしがない。もしかしたら今世紀初めての発見ではないか!武田某も気がついてはいまい。大発見その1。

 故に犬や猫は働かないで良い。動いていれば良い。疲れたらどこでも良いから伏して横になって良い。うーん、ほら伏すと言う字に犬が居たじゃないか。待て待て、横という字も良く見たら猫に近いような、猫の一部のような字が隠れていたじゃないか。大発見その2。

 なんて暇なことを考えていたら日が暮れてきた。からと言って眠くなる訳じゃない。寝たくはなるが眠くはない。昔の人は、夜になると昼に近いような周りを煌々と照らす明かりがないから、日が落ちたら眼の中に睡魔様がやってきて8時間きっちりお邪魔したんだろうな。睡魔様もお邪魔様も魔物の一つ。睡眠などと言うメカニズムを誰も知らないから勝手に仮死状態で毎日の三分の一を過ごしていただけだ。

 中におそらくナイーブなお人が睡眠とは何ぞやと考えたろう。
そしてある夜、隣で寝ている女房を観察した。目を半分閉じてスーイスーイとミーンミーンとやっている。これが睡眠の正体也。夢を見ているとき、目はあっちこっちに動いているという事実がある。寝ているとき我らの目は完全に閉じきっていなのだ。閉じきったが最後、それは死である。我らは生まれてこの方、否母の胎内に居るときから毎日毎日仮死状態を積み重ね死のリハーサルをして生きているのだ。つまり生きていると言うことは何も大それた事ではなく、死の準備をしているだけの行為であると考えたら気が楽になった。
 
 そんなことを考えていたら睡魔が襲ってきた。シンガーソングライターたぁ実に幸せな職業である。皆が働いている日中から好きなとき、好きなところで犬や猫と同じようにゴロリとやることができる。こんな幸せ申し訳なくてサラリーマンに口が裂けても教えられない。

(山木康世)

塩引きが食べたーい

2010年03月06日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

 朝の食卓に、額から汗が噴き出るような塩引き鮭が消えてしまったのはいつ頃なのだろう。アルミの弁当箱の鮭と言えば塩が吹き出したような、白っぽい鮭が普通だった。大きさは今の鮭の半分でおいしくご飯を食べられた。半ば塩で食っているような感じもあったか。

 お握りの鮭ももちろん塩引きだ。スキーに行って山頂で腰にくくられたお握りをほおばる昼飯時は最高である。お握りに巻かれた真っ黒な海苔も厚くてごつい海苔だった。それが白い飯を隠して爆弾のように巻かれていた。誠においしい塩引きと海苔のお握り。それに薄黄色の妙に甘くないタクアンがあれば、早起き朝からの疲れもいっぺんに吹き飛ぶというものだ。
 父もよく言っていた。「適度な塩分を取らなければ馬力が出ない。力仕事に力が入らない。健康志向が強すぎて病人食のような減塩食では仕事にならない」

 確かに近頃の食品は減塩である。病気予防のための減塩であるが、塩っぽくない漬け物はうまくない。水のような味噌汁も味気ない。醤油味の効かない寿司の味も半減する。まぁ素材を生かすために敢えて醤油は少なめにという言い方があるにはあるが。

 張り切って乗り込んできた車内で広げる駅弁も、病人食のように気の抜けた駅弁では逸る気持ちも萎えてしまう。うまい駅弁のひとつに塩分もあるというのが持論である。30品目を毎日摂ることが理想のようだが、つい食べたい好きなものに偏ってしまうのが常だ。

 おいしいものイコール好きなものという方程式の答えは幾つになっても変わらないだろう。僕には小さな頃、鮭がそのうちの一つだった。それも汗の噴き出るような塩引きだった。それが近頃トンと食っていない。妙に人工的に色づけしたような赤くて大きな高価な鮭の切り身は並んでいるが、買ってきて焼いてみてもうまくない。赤い汁が垂れていたり、口に入れても本当に脂がのった鮭など食っていない。それならばたまには塩で食っているような鮭を食わせてくださいと生産業者に、神様お願いーだ。

 卒業式で中学担任の最後の言葉。
「因数分解の答えは一つではないぞ。プラスとマイナスの二つの答えがあることを忘れるなよ」
国を挙げての健康、健康、身体の健康人は増えたが、心の病人が増えたようで年間3万人の自殺者の因数分解の答えを誰か教えてほしい。
(山木康世)

ビタミンM=マーク・ノップラー

2010年03月05日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

何度か聴いて良くなった楽曲と言うことをあまり聞いたことがない。
ほとんど直感的、直接的に響き届くもので、徐々に良くなったり他からの影響で良くなったりするものではない。
頭が良いとか、要領が良いとかも問題にならない。
一度聞いて響いたものは一生つきまとい、何かと人生のステージに顔を出すものだ。

イギリス人ギタリスト、シンガーソングライターにマーク・ノップラーという人がいる。
30年ほど前、深夜テレビで見かけていっぺんに好きになった人だ。
このときは「悲しきサルタン」のライブビデオだった。
あくまでもギターそのものの音を引き出すということか。
彼の弾くギターは実に歌とうまく絡み合って画面に釘付けとなった。
彼の弾くテレキャスターは、ノーマルでエフェクターをかけていないようだ。
彼はピックを使わない。サムピック(親指にはめて使うピック)でアルペジオ(分散和音)のように縦横無尽に弾きまくる。
案外サムピックで弾くギタリストは多いようだ。

そして彼の歌声だが実に良いテノールをしている。少し鼻にかかった乾いた歌声は、フォークソングにピッタリなのだ。
話すように、ささやくように無理をしない自然体歌唱法が良い。
作り過ぎの歌唱法の歌手には辟易する。ストレートが良い。まっすぐに突き抜けて飛び込んでくるボーカルが性に合う。

今ステージで見て聴いてみたいギタリストの一人がマーク・ノップラーだ。
派手さはないが世界で例を見ない個性派名手である。
一度聴いたら忘れられない音、歌声、ギター音、奏法、どれをとっても僕には極上の音楽だ。
心を軽くして、少年のような気持ちに戻してくれる性に合う音楽は僕の人生になくてはならないビタミンM(ミュージックのM)である。

グリコのおまけのように付け加えるが、彼の弾くドブロも外連味(けれんみ)がなく大好きだ。
※外連味とは受けねらいでするいやらしさやはったり。

(山木康世)

月は輝いているか?

2010年03月04日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

問題の先送りはだいたいに於いて良いことはない。
政治家の先生も討論の結果、善処いたします、などと言って先送りがあったりする。
みんな善処しようと懸命なんだ。いずれにせよいつかは答えを出さなければいけない。
出してから状況を見ながら変更を加えて良い結果を出すというのも一つの手だ。
何か答えがなければ、そこで皆が待機ということになり一歩も前に進まず停止状態となり何も生まれてこない。
確かに慎重を期するのは悪くはないが、何もせずにただ時間だけを無駄にするのでは意味がない。
それよりも先ず決断して方向性を確認して歩き出す方がよほど時間の使い方としては賢い。

「私の人生を返して」と言われたら、「今更そんなこと言われても仕方がない」と答えよう。
人生というステージの先送りをしてきたのは二人の責任。
何も自分だけに責任があるわけではないと逃げよう。
限られた時間の中ゴールに向かってみんな同じように歩いているだけ。
先に行った人間も遅れてきた人間もみんな湖の見える畔でちょっと一服。
夜空には満月がかかっている。
明日になれば南風が吹いて桜が一気に花開くそうだ。
桜は先送りなどしないで、毎年同じように花の綺麗さを教えてくれる。
明日行く道が分からなければ、夜が明けてから道ばたの道祖神に聞くというのも悪くない。

◆いい人生を送るコツは、好きなことをするんじゃなく、することを好きになること。〔アメリカことわざ〕

君の夜空には月が輝いているか?

(山木康世)

雛祭り

2010年03月03日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

3月と言ったらまだまだ雪の中だった。
ずっとそうだった。ひな祭りも雪の中のお祭りだった。だからこのお祭りの日は寒々としていて、外を見ると桜なんかまだまだで真っ白い雪が大地を被っている。吐く息だって昔の家の中では白かった。朝起きると掛け布団の首のあたりに霜がうっすらと付いている記憶もある。寒い寒い美原の冬の記憶。3月には春の足音がまだまだ聞こえない。

少々顔の汚れたお内裏様が男女、去年と同じ衣装で並んでいる。
お内裏様が最上段に、身の回りをお世話する3人官女、笛・太鼓・鼓・三味線・鉦を打ち鳴らす5人囃子とひな壇に続く。我が家では最上段のお二人が3月に登場していた。後の方たちは省略と言おうか、余裕がなかったということか。
女の子の成長、幸福を願って年に一度お祝いをするひな祭りの日は上巳の日で五節句のひとつであるという。この日曲水の宴が行われたともいう。何とも風流な遊びを昔の人はしたものだ。
きょくすい‐の‐えん【曲水の宴】
古代に朝廷で行われた年中行事の一。3月上巳、後に3日(桃の節句)に、朝臣が曲水に臨んで、上流から流される杯が自分の前を過ぎないうちに詩歌を作り杯をとりあげ酒を飲み、次へ流す。おわって別堂で宴を設けて披講した。もと中国で行われたものという。[広辞苑第五版]

お内裏様とは、昔の天皇、皇后の呼び名とは知らなかった。
僕らは知らない間に国中の一家、一家で天皇、皇后を年に一度お飾り、お祝いしていたのだ。
幼い頃、親戚の家などに行くと薄暗い奥の間に仏壇があって、鴨居に天皇、皇后のお写真が飾られていた。更にその横にはご先祖様のお写真、戦争でなくなった親戚の人などが仲良く並んでいた。
ボンヤリとお写真を見ながら、この部屋は昼も夜も年中この人たちが何となく漂っているような気がした。少しヒンヤリして何かしら怖さも感じたものだ。この神聖で畏怖の念を感じる空気感というものがなくなってしまった。
ものが少ない分、心の中を探り合っていた時代が長い間あった。ものが部屋中にあふれかえる時代になって心があっちこっちに寄り道をして、大事な人間の魂を考え、探り合う時間が少なくなってしまった。

本当に「豊かな時代」とは何なのだろうと考えさせられる現代である。

ヒマナツリヒナマツリ 

ボタン雪フワフワ ボンボリ三月
心のお池の縁に ポツネンと座って
日がな一日 なんにも釣れない
ひまな釣りひな祭り ボンボリ三月

笛や太鼓鳴らせど 桃の三月 
どちら吹く風やらと 君も連れない
お内裏様と 可愛いおひなさま
ひまな釣りひな祭り 桃の三月

茶だんすの上にも 弥生三月
まんじりともせずに お澄まし並んでる
明かりつけましょうか お花上げましょうか
ひまな釣りひな祭り 弥生三月

(山木康世)

青空色のコンバース

2010年03月02日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

♪お手々つないで 野道を行けば♪
雪が徐々に溶け出して、雪解け水が勢いよく道ばたの側溝を流れ落ちてゆく。やがて地面が見え始め、太陽の日差しを一杯に浴びて陽炎が立ち始める。待ちに待った春だ。足取りも軽く、スキップを踏んで口元からはハミングが…♪♪

先日、靴を左右間違えて履いて地下鉄に乗って出かけてしまった。先方に着いて、足元をよく見たら違うじゃあーりませんか。驚きだよね。しかし何の抵抗も違和感もなかった。靴とはおもしろいもので人の靴を履いたらすぐに分かるほど足癖が自分の靴についているもので本人はすぐに違和感を覚える。これを足の記憶という。

その昔、熊本でコンサートの途中、青いコンバースを買った。きれいな青空色のコンバースは一時僕の心を軽快にした。夜になって打ち上げで総勢20人ほどが座敷に上がってお疲れさんをした。
宴もたけなわ、いざ立ち上がり乱雑な靴の群れを探したらナイノダ。
お昼に買ったコンバースがナイノダ。どこを探してもそれらしき美しい真新しい青がナイノダ。
最後に残されていたものといえば履き古されたヨレヨレの黒いバッシュがひとつ。
驚きだよね。えー、これを履いてけって言うのかい、ひどいじゃないか靴泥棒。せめて九州ツアーが終わるまで履いていたかったよ。
仕方なく今頃ウヒウヒしている靴泥棒の靴を履いて帰り道を帰った。臭ってきそうな他人の靴は履き心地は悪く、気が重かった。と言いたいところだが案外そうでもなかった。酒が手伝って帰り道は他人になりすましスタッフともう一軒はしごをして帰った。

翌日の靴泥棒の靴の行方はまるで覚えていないが、あの居酒屋で最後に残っていたボロ靴は今でもしっかりと覚えているから人間の記憶はあてにならない。しかし、以上記したこともきっちり合っているかどうかも確信が持てないほど時間は経ったので覆(くつがえ)る、もとい靴帰ることはない。驚きだよね。

♪唄をうたえば靴が鳴る 晴れたみ空に靴が鳴る♪

(山木康世)

太陽の子

2010年03月01日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

僕らはみんな生きている 生きているから歌うんだ
手のひらを太陽に…
手のひらを太陽にかざしてみたら、手を形成している骨骨が透けて見えた。そんなこたぁないか。なるほど、見事な骨の織りなす業でまこと複雑な動きをする手がある。
手の先にある指がこれまた見事な動きをする。
創造の神様は何というデザイナーであろうか。
人間が他の動物よりも抜きんでることができたひとつに、この手の存在があったからだろう。

握る、つかむ、打つ、切る、届く、出る、空く、早い、回る、焼く、悪い、負えない、余る、合わす、乗る等々、手に従ってついてくる手下の言葉たちだ。
五本の指を広げた形を表した象形文字が手という漢字。
漢字を考えついて文字を作った遠大なる時間の中にいた人たちの頭上に、ギラギラと燃える太陽がいつでもいた。真っ赤な太陽の炎は、まさに人間の体内に流れている血の色だ。
しかしいったん体外へ流れ出た赤い色は、徐々に茶色、焦げ茶色、黒へと変色する。黒は死だ。そして黒は水分を失ってサラサラに乾ききって風に舞って塵、芥へ。
僕らはまったくもって太陽の子だ。

太陽がなくなったらすべて無だ。50億年前に太陽は生まれ、50億年後に死んでしまうということをはじき出した人間がいた。本当の話だろうか。誰も確認なんかできない50億年などという時間の長さなのだから神話のように「ある時太陽は生まれ、ある時死ぬ」で良い。

この手の話と同じような話がある。10万年に1秒しか狂わない時計。如何に正確な時計であろうか。
しかし。100年も生きるのが希な人間が10万年などという時間を当たり前のように言って、当たり前のように聞き流す。よく考えたら正確なことを言っているようで、実はいい加減なことを言っているのかもしれない。

チリで起こった地震は阪神震災の300倍のエネルギーだったという。これも分かったような分からないようなエネルギー。なるほどものすごかったんだということだ。ものすごい地震がいつ何時起こるか分からないと言うのに、僕らは意外と平然と床につく。どこかに避難しようなどと言う人を見たことがない。悟りの境地か、はたまた自分のところには宝くじのような確率で起こらないという希望的観測か。

また3月が巡ってきた。太陽の周りを1年かけて宇宙船地球号は去年の3月と同じポイントに巡ってきた。単純な運行らしいが実に正確に宇宙を飽きずに回っている。その地球も1日かけて自ら回っている。
そして時折身震いをする。人間の力など到底及ばないエネルギーで破壊行動を起こす。しかしこれは人間にとっての破壊行動で、地球にとっては細胞分裂のようなもの。新陳代謝をしているだけか。

水道の水が少しずつ温くなってきて春を感じ始めて来たことは確かだ。
さぁ年度末、確定申告、卒業、開花、ひな祭りと新陳代謝が続く。冬眠から目覚めてた熊やカエルやヘビが伸びをしている。オリンピックでメダルを取った選手、不調だった選手の冬が終わろうとしている。

僕が座っている座敷の外も桜色に変わった。
僕らはみんなみんな太陽の子だ。

(山木康世)

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