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八幡浜素珍具後始末記

2010年05月06日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

生涯で何度かあったか、なかったかの感動のライブだった。まさに此がライブの醍醐味。粗大ゴミではない。36年やってきたキャリアを堂々とお披露目、自分でも感動のライブだった。
人と会場が一体になる難しさ。この日の熱気は生涯脳裏に刻まれる。
元気の良い、分かってくれる男性客が多い会場はエネルギーを感じる。女性客もそれにつられて自然、顔がほころび拍手もでかくなる。まさにこの構図の八幡浜市、やわたはましライブでござった。

松山からの途中、海岸通りを西へ西へ佐田岬を目指した。伊予の町中では「花かつお通り」というありがたい通りもかっ飛ばした。その先には「ヤマキはなカツオ開発センター」の大きな建物も見た。あーここで味わいのある日本のふるさとの味を日夜研究、開発しているのだな、松山、愛媛はヤマキのはなカツオ満艦飾でござった。

大渋滞の喧噪を駆け抜けてきた旅人をお迎えする町は、ミカン畑の山が後ろに迫ってきてすぐに海という実に感じの良い町でござった。フィリピンパブであったという今夜の会場「スティング」も、これからますます良いライブが行われると太鼓判を押す。

本番前に「食堂ロンドン」で食した八幡浜チャンポンも美々でござった。
中西さん、ストーン山本さん、貞じぃ~、日吉村の幸せ者さん、大勢の良き理解者のみなさーん、感動をありがとう。
忘れていた!かっ飛ばし隊、横綱、関脇もその名に恥じない駆けつけ、ありがたく心に刻みます。

貨物船とミカン畑

青い電車に揺られて 君に会いに行こう 海辺の町に住んでる 君に会いに行こう
ガタンゴトンと山越えて トンネルを抜けたら 海にぽっかり浮かんだ 黒い貨物船 
ミカン畑が SUNSUN 日を受けてキラキラと 光ってる

日本の美しい風景 広重や北斎 デジカメより繊細に 切り取り描いた 
たおやかでしなやかな 竹林からの風 豊後水道を飛んでいった カゲロウの夢は何
ミカン畑が SUNSUN 日を受けてキラキラと 光ってる

もうすぐ次の駅だ 君はいるだろうか 君にお土産を持ってきた 肉まんとシュウマイ 
潮風に吹かれて食べよう 防波堤に腰掛け 夕方まで時間は たっぷりある
ミカン畑が SUNSUN 日を受けてキラキラと 光ってる

忘れ物なきように 荷物棚を見て 右手の指でなぞる ポケットのチケット 
青い電車は徐々に スピード落として 去年よりきれいではないけれど いつもの君がいた
ミカン畑が SUNSUN 日を受けてキラキラと 光ってる
(山木康世)

松山唐古後始末記

2010年05月06日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

松山のライブハウス「カラフル」の以前のオーナーだった児雷也さんが亡くなって、スタッフはさぞかし落胆してるだろうと思っていたが、そんなことは余計な心配で、スタッフ皆さんの温かいお出迎え誠にうれしゅうございました。

『坊ちゃん』のふるさと松山は、どこか文学の香りのする町でございます。あくまでも私見。漱石は49歳まで生きている。その間に松山中学に赴任、この町での思いが小説になって我々の心を楽しませてくれる。漱石は慶応に生まれて大正まで生きた。最後の慶応の年に東京(江戸)で生まれて明治、大正を見たのである。まさに新しき日本の夜明けである。ロンドンへ洋行していることが100年以上経ってもモダンなのかもしれない。可愛い子には旅をさせ、可愛い子は若い時分に旅をするべきだ。いろんなものが身について生涯にわたって見方をしてくれる。見聞の広さは大事なのであるなぁー。

正岡子規は伊予で生まれて松山で生きている。その間に漱石との出会いがあった。漱石と同じ年に生まれて、漱石よりも14歳も若く、つまり35歳で亡くなっている。子規が生きた年数以上に、僕は音楽人生を歩んでいるわけだ。
「ベースボール」を「野球」と翻訳したのは通説には子規であるといわれてきたが、ウイキペディアによると子規ではなく中馬某であった。子規は捕手としてベースボールを楽しんでいた。子規の幼名がのぼる、そこで雅号を「の(野)ぼーる(球)」としていた、という説が間違いの元、子規が造語したなどとずーっと広まってきたとある。僕も通説を信じていた一人であった。
奥の深い野球。近頃大味のベースボールより小技の日本野球がおもしろいと思えてきた。パ・リーグの人気はドサンコとして目を見張るものがある。華やかで芸能界ぽいセ・リーグ、地味で野武士集団のパリーグ、そんなイメージが子供のころあった。時代は確実に変化、流動している。

「カラフル」のみなさま、10月は東京でお待ち申し上げます。いろいろとみなさんありがとう、ありがとう。
(山木康世)

高松遅歩調後始末記

2010年05月04日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

大型連休、どのようにお過ごしでしょうか? ってかい。走っているよ快調に。
昨日は大阪→明石→明石海峡大橋→淡路島→大鳴門橋→徳島→高松。なんと大阪から明石まで、橋にたどり着くまで3時間、窓の外をマラソン選手が手を振り笑いながら駆け抜けて行く幻視が。何という高速運転。天気はさらに加速をつけ、雲ひとつない晴天、気温もグングン上昇。さすが四国であるわい。
「SlowStep」は中心街から香東川沿いの郊外へ引っ越ししましたが、眺めの良い音楽の店に進化しておりました。
マスターの愛犬、ベル社長は連日の運動によりお疲れ、おねむでございました。

ところで世の中には鳥の苦手な人がいる。あの鳥のクチバシ、足の鱗状のかぎ爪、すべてが怖いそうでございます。黄色いヒヨコの可愛いピヨピヨの話をすると、顔面を強ばらせ、唇をキュッと引き締めて、イヤ、イヤの反応をする。聞くと幼き頃のトラウマが。首を切り落とされた鶏が血しぶきを上げて走り回る姿が強烈に脳裏に焼き付いているとのこと。何と残酷なことを、今では動物愛護団体から猛烈な抗議、たたきのめされるような行動。これは僕も遠い昔、目撃している。
当時あちこちの家々で鶏を飼っていた。家族が食うための卵と肉の飼育が目的である。あくまでも家族が生きて行くために必要な栄養を鶏が担っていたのだ。卵は毎日産み落とされて僕らの食卓に。そして問題の肉は、もう卵を産まなくなった鶏の末路なのであろうか、一人の男によって振り下ろされた出刃包丁によって首を切り落とされる。首から流れ落ちる血をカップに受け止める。その血は元気回復の元、お年寄りに配られる。首のない鶏は信じられないが付近を走り回る。この姿が恐怖となって今でも時々おそってくる。やがて鶏はぶっ倒れる。それをムンズとわしづかみ、蒸気のムンムンと立ちこめるお湯の容器に鶏をザブンとつける。僕はあの臭いも脳裏にこびりついている。そして男はお湯から引き上げると毛をいとも簡単に引き抜き始める。やがて素っ裸になった哀れな鶏が真っ白い素肌を表す。
カレーライスの中に収まった夕方の鶏の恵みをムシャムシャとスプーンですくって食らいつき僕らは大きくなった。成長した。ありがとーニワトリさん。

鯨やイルカ漁をすることがやり玉に挙がって妨害行動を受ける。妨害する自分たちは牛を、魚を、豚を平気で殺して食っているのに、何と自分勝手な論理で行動を。人は生きて行くために何でも食って生き延びてきた。本当にグロテクスなものまで口にして生き延びてきたモンだと感心すること度々である。
そんな動物はアリガターイ天使様なのだ。神様からの贈りもの、恵みものなのである。動物は人間様のために犠牲的精神で尽くしてこられた。エラーイ、人間よりもエラーイことが見えてくる。
父の旺盛さを示す例の一つに小鳥の剥製作りがあった。野ウサギの毛皮作りがあった。あの当時の大人たちがよくやった旺盛さであって、父だけではないだろうと思ったりする。僕らの時代には動物を自分の手にかける勇気を持ち合わせていない。そんな時代でもなくなってしまった。

各地でサルやシカが人間世界に被害をもたらしたという情報が聞こえてくる。難しいモンだ、人間と野生動物の共存。
僕は音楽でそんな問題の欠片を歌ってきた、歌っている、さらに歌っていこうと思う今日この頃なのだ。

めんどりぶるうす

可愛いめんどり 可愛いめんどり オハヨーオハヨー 可愛いめんどり 村で一番 可愛いめんどり

卵を産んだよ 卵を産んだよ 初めて初めて 卵を産んだよ 白い大きな 卵を産んだよ

ひよこになったよ ひよこになったよ ピヨピヨ ひよこになったっよ 藁のベッドで ひよこなったよ

ひよこが逃げたよ ひよこが逃げたよ 大変大変 ひよこが逃げたよ ある日どこかへ ひよこが逃げたよ

めんどり泣いたよ めんどり泣いたよ 毎日毎日 めんどり泣いたよ 哀れ嘆きの めんどり泣いたよ

めんどり死んだよ めんどり死んだよ 淋しくて淋しくて めんどり死んだよ 月夜の晩に めんどり死んだよ

めんどり食べたよ めんどり食べたよ みんなでみんなで めんどり食べたよ 今日は涙の 焼鳥のぶるーす

(山木康世)

大阪五番街後始末記

2010年05月03日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

「♪春の雷に 白い花が散り 桜花吹雪 風に消えて行く♪」
ささやきというよりつぶやきだった。大阪ライブの最後の歌はお客さんとの信頼関係の元「春雷」で締めくくった。

30年前、東京は南青山グランドハイツ3階のとある部屋の深夜、3畳間寝室ビールケースで作った自称サッポロベッドの上であぐらをかいてギターを片手に歌を作っている。深夜、声を張り上げて近所迷惑も顧みず作曲など出来るタイプではない。音楽は押しなべて大音量で聴かなくてはならない、などということはない。適当な音量というものがあるのだ。フォークギターはただかき鳴らすだけで良いというものでもない。最小音量、中音量、最大音量と心のおもむきを醸し出すのも良いモンだ。いつもいつも120パーセントでは疲れる。

僕が作ってきた歌はつぶやき、ささやきが基本であった、ある。と近頃気づき始めている。確かに今でも日常生活でも自問自答が多い。考えたことをすぐに口にするタイプではない。牛が食べたものを何度も反芻するように僕も反芻することもたびたびだ。そして飲み込んでしまうこともある。
深夜、飲み込まずポロリとはき出された言葉たちがメロディーにからみつき出来た歌たちが、今でもライブなどで歌われているのだ。僕の作り出す歌の本性はつぶやきなのだな、と分かってきたというわけさ。声を張り上げてのメッセージやプロパガンダを言ってないのである。僕には実に心地の良い音楽である。しかしあまりつぶやき、ささやきが続くと健康に良くない。
押したり引いたり、緩急自在にライブの妙を作り上げることはおもしろい。今後どのように変化、進化して行くのか興味津々である。
さて出かけるとするか。渋滞は果たして? 瀬戸内海を渡って四国は高松を目指そう。

5th streetにお集まりのみなさん、どうもありがとうー、僕のつぶやきを最後まで飽きずに聴いてくれて感謝します。マスター、お店のスタッフさん、駐車場まで荷物を持ってみなで送ってくれて助かったよ。フラリと立ち寄った北の旅人さん、お父さんにきっと会えるよ。と手を振りながらつぶやいた。
(山木康世)

名古屋源後始末記

2010年05月02日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

「山木さんと同学年ですね、私はうさぎですが還暦ですね」
「そうですか、全然実感が湧きませんが還暦ですね。昔の人もこんな感じだったんですかね。今は健康状態も良いし、戦争もないし、やはり若いですね。ご隠居さんなどというイメージはないですもんね」
源さんはその昔、名古屋今池のライブハウスに出入りしていたそうで10年前に、この店をオープン、夢を開花させたとのこと。
明らかに民家である。靴を脱いでスリッパで上がって行く。壁にはニセコ在住の画家の絵が数点飾られている。来店した知り合いのミュージシャンの写真が10年の月日の長さを物語っている。
黙っていても時間はどんどん過ぎて行く。こんな話がある。
大の本好きな男がいた。彼は若い頃、働いてお金を稼いで、その金で本を買い込んでおこう。今は読む時間がないが、退職して時間ができたら本棚の本を思う存分読みふけろう。
やがて月日はたっぷりと経って数万点に及ぶ本が、見事に本棚に収まった。彼は読みたかった大長編名作を読もうと暖炉の火のもと、本を広げた。しかし字がかすんで読めない。なんと言うことだ、若い頃なんとも思わなかった小さな活字が読めなくなっていた。ルーペで何とか読めるには読めたが全然集中力が続かず内容が頭に入ってこなかった。彼は泣きたい気持ちだった。何のために若い頃寝る暇を惜しんであれほど働きに働いたのだ。こんな月日の変化を想像もしていなかった。お金をほとんど本につぎ込んで第二の人生をゆっくりと楽しもうと思っていた矢先、こんなことになろうとは。
本棚には寂しく新品のままの手つかずの汚れていない本の背表紙がピカピカに輝いていた。そして彼は考えた。このままでは自分の人生は絵に描いた餅のようなものだ。何とかしよう。
数日後彼は近所の子供たちに解放して私設図書館を開いた。新聞ではローカルニュースとしても取り上げられるほどのちょっとした話題になった。
次から次へと新刊本が出てくる。もう彼は本を買いあさる金も気力もなくなっていた。彼の本好きの夢はこして幕を閉じてしまった。
有限の人生を歩いているのだ。くれぐれもあれをやっておけば良かった、これをしておけば良かったと後悔のない人生を送りたいものだ。源さん、今度は客席でどうぞお客さんと一緒になって楽しんでください。せっかく作ったすばらしい音楽の広間でくつろいで、みんなと一緒になって楽しみましょう。余計なことを言ったかな。
(山木康世)

足助鍛冶屋さん後始末記

2010年05月02日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

鍛冶とは金属を鍛えること。また、その人。とある。カヌチとも読み、カネウチ(金打)の約という。
普段なにげなく、「体を鍛える」などと使っている字だが、奥深い物語(ストーリー)を持っているようだ。その昔鉄を鍛えて農具や工具、刀を作る人は匠の人だった。今でも変わらないとは思うが、時代が変わって家に鍛冶屋さんにお世話になっている代物がある家は都会にはないだろう。。鍬、鋤、鎌、鏡、鎧、鑓、釘、鋸、鋏などなと金偏の字はその昔生活に密着していた。産業革命が世界的に起こって、日本にも波及して工場で物がどんどん生産されて人間の匠の技は機械に取って変わられた。そして金という字もお金の「金」が幅を利かす時代になった。何かを忘れて僕らは生きているよ、と鍛冶屋さんに並んだキラリと光る刃物たち、工具たちは語ってきた。
難しく読めない字は、昨今カタカナや平仮名に置き換わって、本来の成り立ちを教えてくれる漢字が姿を消して行く。地名すら平仮名が増えている。個人的には長い時の流れというロマンを消し去っているようで好きではない。確かに読みやすいのだが、有り難さが失われた。背景にある物語を語らないカタカナや平仮名は利便的には優れているのかもしれないが、漢字をじっくりかみしめて味わってみようではないか。僕らの生活や命の根本が見えてくるかもしれない。そんな余裕のある日常を過ごしたいモンだ。

音楽も日常生活には必要ないかもしれないが、この世から消えてしまったら無味乾燥な毎日を過ごすような感じもする。「意識」の二字をよく見たら「音」が音もなく隠れ潜んでいた。「職」「暗」「闇」「億」「響」にも見つかった。今夜も実に良い音だった。優れた音響師も現代の匠かもしれない。

深夜、真っ暗な足助の街道を名古屋に向かった。かつて「塩の道」と呼ばれていたそうだ。この川沿いの道を、その昔大勢の人々が塩を求めて行き交ったのだろうなと思って、フロントガラスを見上げると夜空には煌々とおぼろ満月が輝いていた。
(山木康世)

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