足助鍛冶屋さん後始末記
2010年05月02日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
鍛冶とは金属を鍛えること。また、その人。とある。カヌチとも読み、カネウチ(金打)の約という。
普段なにげなく、「体を鍛える」などと使っている字だが、奥深い物語(ストーリー)を持っているようだ。その昔鉄を鍛えて農具や工具、刀を作る人は匠の人だった。今でも変わらないとは思うが、時代が変わって家に鍛冶屋さんにお世話になっている代物がある家は都会にはないだろう。。鍬、鋤、鎌、鏡、鎧、鑓、釘、鋸、鋏などなと金偏の字はその昔生活に密着していた。産業革命が世界的に起こって、日本にも波及して工場で物がどんどん生産されて人間の匠の技は機械に取って変わられた。そして金という字もお金の「金」が幅を利かす時代になった。何かを忘れて僕らは生きているよ、と鍛冶屋さんに並んだキラリと光る刃物たち、工具たちは語ってきた。
難しく読めない字は、昨今カタカナや平仮名に置き換わって、本来の成り立ちを教えてくれる漢字が姿を消して行く。地名すら平仮名が増えている。個人的には長い時の流れというロマンを消し去っているようで好きではない。確かに読みやすいのだが、有り難さが失われた。背景にある物語を語らないカタカナや平仮名は利便的には優れているのかもしれないが、漢字をじっくりかみしめて味わってみようではないか。僕らの生活や命の根本が見えてくるかもしれない。そんな余裕のある日常を過ごしたいモンだ。
音楽も日常生活には必要ないかもしれないが、この世から消えてしまったら無味乾燥な毎日を過ごすような感じもする。「意識」の二字をよく見たら「音」が音もなく隠れ潜んでいた。「職」「暗」「闇」「億」「響」にも見つかった。今夜も実に良い音だった。優れた音響師も現代の匠かもしれない。
深夜、真っ暗な足助の街道を名古屋に向かった。かつて「塩の道」と呼ばれていたそうだ。この川沿いの道を、その昔大勢の人々が塩を求めて行き交ったのだろうなと思って、フロントガラスを見上げると夜空には煌々とおぼろ満月が輝いていた。
(山木康世)