となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

松山唐古後始末記

2010年05月06日 | カテゴリー: ミュージック・コラム 

松山のライブハウス「カラフル」の以前のオーナーだった児雷也さんが亡くなって、スタッフはさぞかし落胆してるだろうと思っていたが、そんなことは余計な心配で、スタッフ皆さんの温かいお出迎え誠にうれしゅうございました。

『坊ちゃん』のふるさと松山は、どこか文学の香りのする町でございます。あくまでも私見。漱石は49歳まで生きている。その間に松山中学に赴任、この町での思いが小説になって我々の心を楽しませてくれる。漱石は慶応に生まれて大正まで生きた。最後の慶応の年に東京(江戸)で生まれて明治、大正を見たのである。まさに新しき日本の夜明けである。ロンドンへ洋行していることが100年以上経ってもモダンなのかもしれない。可愛い子には旅をさせ、可愛い子は若い時分に旅をするべきだ。いろんなものが身について生涯にわたって見方をしてくれる。見聞の広さは大事なのであるなぁー。

正岡子規は伊予で生まれて松山で生きている。その間に漱石との出会いがあった。漱石と同じ年に生まれて、漱石よりも14歳も若く、つまり35歳で亡くなっている。子規が生きた年数以上に、僕は音楽人生を歩んでいるわけだ。
「ベースボール」を「野球」と翻訳したのは通説には子規であるといわれてきたが、ウイキペディアによると子規ではなく中馬某であった。子規は捕手としてベースボールを楽しんでいた。子規の幼名がのぼる、そこで雅号を「の(野)ぼーる(球)」としていた、という説が間違いの元、子規が造語したなどとずーっと広まってきたとある。僕も通説を信じていた一人であった。
奥の深い野球。近頃大味のベースボールより小技の日本野球がおもしろいと思えてきた。パ・リーグの人気はドサンコとして目を見張るものがある。華やかで芸能界ぽいセ・リーグ、地味で野武士集団のパリーグ、そんなイメージが子供のころあった。時代は確実に変化、流動している。

「カラフル」のみなさま、10月は東京でお待ち申し上げます。いろいろとみなさんありがとう、ありがとう。
(山木康世)