となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

花のサンフランシスコ

2010年03月31日 | カテゴリー: ミュージック・コラム 

深夜車のラジオから懐かしい歌が流れてきた。「花のサンフランシスコ」である。思わず声を出して歌った。
鉄琴の独特の音がメロディを奏でてイントロが始まる。鉄琴とは木琴の木の代わりに鉄を取り付けた楽器だ。鼓笛隊を思い起こしてもらえばわかりやすいだろう。鉄琴を縦に持って、歩きながらバチで打鍵する。吹きすぎる風のイメージであろうか。

「花のサンフランシスコ」を初めて聴いたのは昭和42年17歳だったと思う。ふさぎ込んだ心を解放してくれる涼風の如き名曲である。月寒高校2年生の頃、ギター覚えたてで、朝から晩までギター、ギターの頃だ。
音楽の世界はサイケ調のデザイン文字が流行って、サウンドも少し幻想的なムードを醸しだし、世情はベトナム戦争のなかなからちのあかない空しさが漂っていた。
「花のサンフランシスコ」のメロディはママス&パパスのメンバーが書いたものと最近知った。印象深く歌いやすい良い歌である。スコット・マッケンジーが歌っていた。サンフランシスコが歌詞の中にたびたび出てきて、この歌のキーワードなのだが、歌にとてもよくマッチしている。このキーワードがなく違う地名だったら名曲になっていなかったと断言する。口をついて歌いたくなるキーワードはヒットする条件の一つだ。

サイケは死語になったのか、今時使われない。サイケデリックの略である。LSDなどの服用によって幻覚状態にあること。その際に経験する幻覚と同様な、原色的で刺激の強い絵画・音響などもさす。
これは1965年ごろから1970年ごろに感覚的陶酔を求める若者の間で盛んになった。ドアーズ、ピンク・フロイドが代表格であった。とある。ビートルズも名盤『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を出している。ドノバンもこの頃ドップリこの世界に浸っている。実際に彼らは服用して音楽を作っていたであろう。インドへ行って音楽を作ってもいる。普通では考えつかない奇抜なメロディーやサウンドがレコードやCDに残っている。その昔の色鮮やかな画風のピカソやゴッホも何かしらの幻覚剤を使っていないとも限らない。どんな映像や音楽が頭の中に去来するのか想像するしかないが、それも芸術の一つか。
横道にそれるが裸に近い山奥に住む世界の人々が吸引している煙は通常のタバコではないだろう。何かしら怪しいものを吸って実に楽天的に生きているように見える。テレビなどの映像だけではわからない。

高校生の頃、日本ではタイガース、テンプターズなどのグループサウンズが全盛である。この5年ほどを過ぎるとシンガーソングライターの世界が来る。そして日本のフォークソング流行、ニューミュージックの台頭となる。
若い頃サンフランシスコは夢を抱かせた街の一つだった。
花と音楽と太陽の街が僕のイメージするサンフランシスコだった。42歳の初夏、ふきのとう解散最後のコンサートを終えた翌日、初めてアメリカへ行ったときサンフランシスコにも寄った。ケーブルカーや急坂の路面電車、有名な吊り橋、金門橋が見たくて立ち寄った。街の建物の窓々に7色レインボーの旗がはためいていた。その旗をかざしている家は同性が同性を愛する人々が住んでいるという目印だと説明を受けた。さすがアメリカだと思った。

その後僕は日本に帰りコンピュータを買った。Macである。今ではiPodで一躍有名になったMacであるが初めのマークは、まさにあの旗の七色のリンゴだった。Mac開発者の心があのマークに象徴されているとすれば、Macはサンフランシスコ、そして名曲「花のサンフランシスコ」へとつながるのである。
ベトナム戦争の泥沼化から逃れるためにドラッグの世界へ走った服を着た裸族が45年ほど前、地味なカーキ色の世界を一変、色鮮やかな解放の世界を作った。
ベトナム戦争がなければ未だに世界はカーキ色だったかもしれない。災い転じて福となる。
(山木康世)