ギター四方山話音叉乃巻
2010年04月15日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
ギターは弦を張っただけで弾いても演奏にはならない楽器である。張ったらチューニング(調律)という作業をしなくてはならない。このチューニングという作業が初心者には大変な作業である。日々の生活にも心の調律の必要があるのと同じだ。
まず耳が良くなくてはならない。まぁ普通で良いのだけれど、聞きとりにくい人には苦手な作業となる。僕が高校生の頃には調音笛なるものがあった。6個の笛を一つに束ねたものである。1弦から6弦までのそれぞれの音の笛である。それを口にくわえて吹きながらギターの弦を鳴らし合わせるのである。これが初めの頃は、合いそうで合わない。やがて、ハーモニクス(弦を直接脂版に押しつけて音を出すのではなく、弦の表面に触れただけで音を出すとポーンというような音が出る。倍音という)の音と笛とを合わすと、チューニングしやすいということを知ってくる。このハーモニクスを普通にできるかどうかで初心者との差が出てくる。
そのうち音叉というものを知った。これは一本の鋼をU字型に曲げて中央に柄を付けたものである。柄を持って軽く打てばU字型の鋼が振動を始め共鳴する。それをギターの胴体部分にあてがうと増音して聞こえてくる。基本は5弦のA音が普通である。これを元にそれぞれの弦を決めて行く。音叉をそのうちに口にくわえて鳴らすと脳の中で振動が起こり耳に聞こえてくるということを知る。骨伝導である。このやり方もかなり合わせやすいことを知ってくる。
一人ならまだしも、二人以上で演奏をするとき、ともに同じピッチに合わせなくてはならない。これが合わないと険悪のムードを作ったりする。俺の音の方が合っている、おまえが合っていないなどと口には出さないが反問し出す。こうなると演奏会どころではなく気持ちの離反ということになりうまくいかない。故に演奏家は協調の精神を持ち得なくてはやっていけない。音楽家は自然と平和主義者ということになるのかもしれない。世界の指導者がみな楽器をできる人だと戦争はしなくなる。僕の持論。
30年ほど前、ある日スタジオに弁当箱のようなものを持ち込んだ演奏者がいた。それが発売間もない電子チューナーというものだった。確かKORGというメーカーから出たもので、音の周波数を関知して針が振れてメーターで教えてくれるというものだった。切り替えによって笛のような音も出た。これは目で確かめることができて、間違いがなくなった。両者の反目もできなくなった。良い製品が出たものである。しかし耳にとって怠け癖が付いたと言えなくもない。今はクリップ型のものも多くあって自分の使い易いものを選んで使えば良い。やればやるほど耳が良くなり音に対して敏感になってくる。5弦さえ分かればあとは、弦同士で合わせることもできるようになる。実践、実践あるのみ。どんどん向上してくる楽しみを実感する。楽器を覚えると一人でいることが苦でなくなるという幸せの贈り物がある。
札幌の後輩のJはギター弾き、おたくである。彼のスタジオのあちこちに電子チューナーがまるで置物のように散らばっている。新発売したもの、旧来のものすべて買いそろえている。まさにチューナー生き字引。
絶対音感を持っている人種がいる。彼らには音叉などのチューナーはいらない。5弦のA音を脳に持っているのでそれに合わせるという芸当をいとも簡単にやってのける。赤ちゃんがこの世に生まれ出て初めて発する音がA音(440サイクル)と言うが本当であろうか。本当だとしたら神様の粋な計らいがここにもあることになる。
浜松市にある駅前高層ビルの形は音叉型に見える。浜松は世界的音楽の町である。だとしたらビルを設計した人のセンスに拍手。
浜松に行くと自然に口をつく歌がある。
よい子が住んでるよい町は
楽しい楽しい歌の町
花屋はちょきちょきちょっきんな
かじ屋はかちかち かっちんな
(山木康世)