となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

士別生涯センター音始末記

2010年09月17日 | カテゴリー: ミュージック・コラム 

紋別の「弁慶と義経」は二度とないだろう。還暦を迎える佐々木、鈴木、子供のような年齢のベース木村による共演は圧巻であった。木村の母は還暦という。どういうわけか皆「木」の字が紛れ込んでいる。これで絆が分かるというものだ。
この年になると、二度とないとは双方にとって相当に重たい響きになる。毎日のライブもそうなのであるが、また来年も、再来年もということは簡単に若い頃と同じように言えなくなってくる。それはいろいろな意味で毎回が勝負と言うこところか。酒など飲んで、隣のいい人とキスをしながら、客に罵声を浴びるなど逆立ちしたってできっこない。

1975年、1977年、1978年、1991年と計4回お邪魔している士別であるが、ソロになって初めてである。会場に入る前に「羊飼いの家」に立ち寄った。なだらかなカーブをなす平 原に整然と並んで草を無心に食んでいる羊はかわいい。風は穏やか、空には筋雲が。眼下には士別の町が見える。時は3時、手前で食んでいた5頭ほどが一斉に小屋の方へ駆け戻っていった。彼らは時間を知っている。ティータイムの終了。その後続々と小屋に戻ってしまい一頭だけが我関知せずとばかりに食んでいる。どこの世界にもいるもんだ。
そんな彼らを見ながらのジンギスカンを食い終えて、「世界の綿羊館」へ行ってみた。
こんなに綿羊の種類が世界中にいるとは知らなかった。札幌に引っ越す前の美原での6年の生活はまさに夢の生活。母屋と離れたところに物置があり、その中に一頭の綿羊を飼っていた。名を「ドンツキ」という。32歳の頃に出した自著「金魚鉢の中の太陽」八曜社出版の「動物達」という件に詳しく書いてあるのでお持ちの方は引っ張り出してご覧あれ。そのドンツキはオスとなっているがメスの間違いであると当時、母に指摘されたもんだ。確かに股間に氷嚢のごとくぶら下がっている代物の記憶はみじんもないので間違いない。本当に立派な袋を御所持なさっておられる。綿羊に限らす人間以外の動物は食うことが生きることすべてである。ほかの動物に対しての警戒心は異常なものがある。起きているときは食い物を探すための行動をとること。後は寝ていることがすべて。こうしてみると実に単純だ。外連味がない動物は純粋でかわいい。今時の芸人の受け狙いなど芸とは言えないとばかりに、綿羊の一頭が草を食むのを止めて「メェー」ときた。驚いた。かわいい顔をしている。笑っているような表情にこちらも負けじと「メェー」とやり返した。

会場は熱気と人いきれに包まれて、20年ぶりの外連味のない、そう願いたい歌達は思いっきり羽ばたいた。
それにしても北海道のお客さんは地味だ。反応がおとなしい。あんなに大勢いるのに、拍手の力も控え目、手拍子も控えめ、笑いの反応も他に邪魔しないようにとおとなしい。自分も道産子なので痛いほど分かる。それにしてももったいない時間が過ぎてゆく。南の方に行ってごらん。思いっきり楽しんでいるお客さんでいっぱいで、それがまた場内に連鎖反応を起こして熱くなる。その熱さは歌い手を刺激して自然に、通常の数倍の熱が入る。こんな人が集まるエネルギーを実感するともう戻れない。ただ、いてもエネルギーは沸いてこない。風呂の水と一緒で初めに焚きつけるエネルギーが必要である。それが徐々に大きくなり、やがて煮えたぎるようなお湯へと変身する。

限られた時間を僕たちは生きている。楽しまなくては嘘である。同じ時間をどう調理するかはそこに集った人間全員の力学なのである。それはもしかしたら日本全国よく見かける駅前通の寂しい、わびしいシャッター街を活性化させる一歩なのかもしれない。政治家は郊外にどんどん大きな車を意識しての建物を建てることにはいとわない。もったいないシャッター街はまるで西部劇のゴーストタウンに成り下がってしまった。アメリカから黒船のごとく入ってきた車中心の社会はそろそろ考えなくてはならない。
子供の頃の町の中心の賑わいをみんなで取り戻せるのこの可能性は、ゼンゼンゼロではない。

コンサートを企画・主催してくれた士別の型破りの住職の力に乾杯、そして期待を込めてエールを送る。まずは風呂を沸かすガンビの皮になってもらいましょう。ガンビの皮はよく燃える。持っている油分が黒い煙を発して、力強く他の木が燃焼するため牽引役をする。少々湿った木だって燃えさせてしまう。

また会いましょう、みなさん、そのときはほどよい湯加減で会いましょう。
(山木康世)