となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

柏WUU音始末記

2010年09月18日 | カテゴリー: ミュージック・コラム 

決して練習ではない、決して安宅関の日の練習ではない。柏WUU本番入魂一発の「弁慶と義経」。コードはDsusのみ。DコードにGの音が入っただけの7分の世界は淡々とリズムを刻むだけ。時折シンバルの強調がアクセントをつける。ワンコードの醸し出す世界は、ある種トリップである。
mayakuやkusuriによるトリップは違法である。しかしビートルズも一時インドへお出かけになり、4人とも朦朧とした世界へトリップして名曲を残して去っていった。おそらく一度知ったら日常の単調な感覚のつまらなさに嫌悪感を覚えてしまい、二度と戻れなくなるので違法にしているのだ。今世間を騒がせているO容疑者に聞いてみたい。みながみなこの世界へ行ったらどうなるのだろう。未開の土地に住む現人神たちは絶対にやっている。彼らの純真さは身体にしみこんだ何者かのせいだ。実に平和である。実に暢気である。実に楽天的である。ほとんど裸に近い現人神たちは今日も世界の地の果てでトリップしていることだろう。
法律に縛られた我々にも救いは残されている。たとえて言うならお経の世界である。読経は一人より二人、二人より三人と人数が増える分圧倒的な世界を繰り広げる。そこには小賢しい目先の受け狙いのコード展開などお呼びもしない荘厳な世界が広がる。

母が死んでお経の世界を知った。般若心境の不変性、奥の深さ、日常のせせこましい世界から逃れた瞬間でもあった。おそらく父も手の届く距離でお経を初めて感じたことだろう。みなが集まって読経することで心の平安を取り戻す。本当なのである。死という誰もが避けて通れない人生最後のイベントを悲しいものだけで終わらせないという心の働きかけが読経にはあるのである。それまで他人事のように考えていたお経の世界。訳の分からない漢字を声を出して読み上げることに何の意味があるのか、とさえ思ったころもある。何の意味なんかないのである。それだからこそ究極のトリップなのである。西洋のゴスペルなどにある高度な音楽展開などない。ただひたすら呪文のようにみなでお坊さんに合わせて読経するのみで救われるのであるから不思議である。時折入る鐘や木魚の強調。老若男女、声質、高低など一切おかまいなし。雑魚音なのである。まさに雑魚音を追求の身としては先行きの好い話なのだ。

人気の出るお坊さんになるには必須の条件があるようだ。腹の底から響き渡るような低音の持ち主はまずもって成功する。決して浮ついたセンチメンタリズムの高音ではない。低音は人々を引き付ける。迷った子羊たちを救いの道へと導く。穏やかに包まれるような低音はα波を出す。集った人たちは脳を安らぎ全身をリラックスさせ明日への希望を見出すだろう。そんな連中が塊でやってきたら逃げ出したくなるだろう。恐ろしささえ出てくるだろう。

「弁慶と義経」は実は歌い手が一番はまって楽しんで、どこぞの世界へトリップしているのです。申し訳ないですが、そこには聞いているお客さんがいるということを忘れてしまうほどの言葉では言い得ない我入の世界があるのです。

10月には「この国に生まれて60年天晴れコンサート」が待ち受けている。最終仕上げ調整のため1週間ほど修行僧の如き旅につきます。

決して練習ではございません。修業の身に練習などございません。悪しからず。
(山木康世)