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大阪五番街音始末記

2010年09月24日 | カテゴリー: ミュージック・コラム 

東京を発って6日目、大阪へと歩を進めた。思えば秋の「2010 Live Library」豊橋、奈良、紀宝町、大阪である。

昨夜の熊野灘は猛暑から一転、秋へ向かうための自然の衣替えのような海だった。真夜中に煌々と照る月は中秋の名月、十五夜お月さんである。美原で子供のころ、ススキを立ててお団子をお皿に盛って窓辺で見上げた満月が同じ姿で熊野灘を照らしている。黒い海原に映る光のショーはまさに圧巻、これだけでドラマになる。点々と電灯をつけて漁船が数隻仕事をしている。イサキでも捕っているのだろうか。まことに美々であった晩飯のイサキ。イサキを全国巡って食べるツアーをイサキ巡りという。なんちゃって。

それから2時間、カーテンの隙間から光が点滅してる。見ると大きな雲の塊の向こうでなにやら光のショーが始まっている。稲妻である。音はせず、ただ光が不規則に天と地を点滅している。そのたびに海上を真昼のように浮かび上がらせる。あの雲は雷雲なのであろう。ひときわ大きく黒く空から垂れ下がっている。人間が作り出す爆弾の何万倍のエネルギーであろうか。これは何かの前触れか、良からぬ災いが降りかからなければ良い、明日は秋分の日である。猛暑への決別の稲妻であろう。

朝方、強い雨の音で目を覚ました。台風のように風と強い雨が海をたたいている。やはり海は怖い。鏡に映るように凪いでいた真夜中の海、稲妻に不気味に光る海、明け方の白波を立てて雨を風を受け入れる海、そして案の定、時間が経って東の空が薄赤く染まって新しい朝が到来した。今夜の天文ショーを一部始終とは言えないが、一部一部垣間見たダラニスケの心は大阪へ飛んでいた。久しぶりの5thStreet、大阪の空はどんな塩梅であろう。

黒いお揃いのTシャツを着たお店のスタッフは全員気の良い、ハキハキとした若者集団で気持ちが良くなる、壁に飾られたマーチンの名器がオーナーの心意気を示している。きちんとステージが尺高で作られており照明も効いている。紀宝町のフォークソングとは少々異なるが、こちらは都会のカントリーの味を出すお店というところか。カウンターにはバーボンが、フォークギターの小物が数多く並べられている。専門店の味を存分に出していて、雰囲気がポップコーンのようにはじけ飛んでいる。

「羊飼いの恋」は場内から手拍子とコーラスのような歌声で始まった。みんな待ち望んでいると出番を待機している。ステージ袖でうれしくなった。これで成功は間違いない。みんなの気持ちが手に取るように分かる瞬間だ。今夜の戦前生まれのマーチンはこよなく良い音で泣いてくれたようだ。その日の気分なのか、鳴りが微妙に異なる生の楽器はとても人間っぽい。ドブロもギブソンも悪くはないが、今夜の主役は戦前生まれだった。おそらくお店のマーチン熱に浮かれて同調したのだろう。古里に一時戻った鮭のような覇気を発揮した秋分の日のマーチンであった。

ライブが終わり眼鏡で乱れ髪のオーナーが楽器を片付けていた僕に近づいて「この部品を弦とネックの隙間に挟み込むだけで正確な調弦を約束します」といって木っ端のような小さな部品を贈呈してくれた。何でも古いマーチンは何かと調弦がやっかいとのこと。それを正すための小物らしい。特に2弦と5弦のなかなか合わない不具合を解消するという魔法の木っ端。明日からの戦前生まれは、ますます眼光鋭く、正確無比な音の粒をはじき出すことだろう。

奈良からの若きスタッフは北海道の音楽に興味を持っており、特に今夜のアンコール「冬銀河」におけるコーラスの皆の優しい顔に感銘を覚えたという。そして僕は触媒のような感じでステージにいると言っていた。言い得て妙である。まさに僕の作り出してきた音楽は共感、共鳴の世界かもしれない。歌謡曲のように華やかではないが、素朴で淡々と語りかける歌がフォークソングであると先般書いたばかりある。ますますショーアップされ見せる音楽がもてはやされる現代、何か大事なものが置き去りにされている感もない音楽界。魂の言葉などということはおそらく問題外であろう。おもしろい言葉、受け狙いの言葉、乱れに乱れきった若者言葉、この先を大いに案じる。困るのは当事者なのに、まったくすぐそこにやってくる自分たちの未来を眼中に置いていないような振る舞いに危機感を覚える。彼の心の研磨を期待して店を出た。ギターを2本持って駐車場まで手伝ってくれた。別れ際握手した右手は大きく厚く力強かった。店の前にはオーナーと娘さんが同じTシャツで手を振ってお別れしてくれた。

サヨナラ、サヨナラ、大阪は吹田、江坂の町の名ライブハウス、5thStreetよ、また会う日までしばしの別れだ。
(山木康世)