となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

小倉民謡歌曲村音始末記

2010年10月04日 | カテゴリー: ミュージック・コラム 

夜な夜な障子の陰で油舐め舐めのオーナーは変わらずに元気だった。しかし今年の猛暑に幾分参ったようで、オーノーと言ったとか言わないとか。

「フォークビレッジ」という言葉の響きだけでワクワクソワソワしてしまう。高校生のころ、つまりフォークギターに憧れていたころ、どれほどこの言葉に魅了されたことか。
愛読書でA5版ほどの一冊の音楽本があった。「アメリカンフォークソング」とか何とかいっていたと思う。故に僕の素性は、根本はここにある。ページをめくると歌いたい、覚えたい、弾きたい歌がごっそりと詰まっていた。ちりばめられた海の向こうのフォーシンガー達を飽きずに眺めたモンだ。みんなマーチンやギブソンを持って、そろいのシャツを着て歌っている。札幌の街のヤマハに行ったってガラスケースの中にしっかりと鍵をかけられ、触れることもできない。まぁ買うという意志を見せれば話は別なのだろうけど、そんな大金どこに転がっているというのだ。高嶺の花、高嶺の花、高峯美枝子だ。

P.P.M、ボブ・ディラン、ブラザーズ・フォー、キングストン・トリオ、ニュークリスティ・ミンストレルズ、ジョーン・バエズ、ピート・シーガー、サイモンとガーファンクル、ジョニー・ミッチェル、その後に現れるジェームス・テイラー、ニール・ヤング、あぁー涙腺ものだ。みんな60の壁を越えて人生の佳境に入っている。今はどんな歌を歌っているのだろう、どんな歌を作っているのだろう。もうあの世へお隠れになった御仁もおられる。500マイルも離れてである。
この世のこの夜の演奏は超ピカイチだった。手前味噌で申し訳ないが、何かが取り憑いていたと言うしかないほど脳と手が平和的共存関係にいた。すばらしい音響が場内に鳴り響き弾き手は興奮、感動の坩堝(るつぼ)と化した。もちろんお客さんも同じだったろうと思うほど、拍手の圧倒的強力さに演者は毎度毎度歌が終わって鳥肌を立てていた。(ややこしい話をすると、鳥肌が立つ、とよく使われるが、これは恐ろしいときに使う方が当たっているようで、感動ものの時には使わない方が正解のようだ。)当代切っての名演奏会だった。普段、こんなこと滅多に言う人ではない。おそらく晩秋に旅するミンストレルが弁慶と義経と桃太郎とキジとサルとイヌ、そして無法松、松本清張に取り憑かれた情景というしかないだろう。

楽器の音色はただ有るのではなく、そこに潜む音楽との密接な握手、ハグ状態にあってこそ生きるのである。楽器の幸せはそこに有るのだ。友よ見失うことなかれ。心の琴線を研ぎ澄まし、耳をそばだてるのだ。決して目の前の金銭に惑わされるな。さすれば自ずから聞こえてくるだろう。何を歌えばいいのか、何を言えばいいのか、何を演奏すればいいのか。
小倉のこの村はいつも心を戻してくれる。舵を切って戻してくれる。歳をとって意味もなく街を徘徊する老人になってはいけない。意味もなく心の螺旋階段を彷徨ってはいけない。

塩とコショーのほどよく効いた3センチ角ほどの、適度に炙った豚バラは実にうまいものがある。できれば串に刺して3枚ほど連結で、間にはタマネギを3枚ほど挟み込んでいただきましょう。口中で唾液と絡み合った妙味はシンプル、かつマイルドである。フォークソングの神髄と似ていなくもない。気をつけなくてはならないのは、食べ過ぎのエネルギー過剰摂取である。特に寝る前には十分気をつけよう。ペットボトル一本が2500グラム有ったとする。10キロ太ったとすれば、4本身体にぶら下げて街を歩いていることになる。相当な膝への、腰への負担である。大事に使おう、父と母からもらい受け継いだ骨と皮と肉と筋と腱と血と、そして最後に精神を。

小倉の街に日が昇り、バスクリン色したどぶ川に朝がやってくる。

(山木康世)