痛み
2010年08月05日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
肩が凝っている。奥歯が痛い。膝の関節が痛い。頭が痛い。お腹が痛い。腰が痛い。手の指関節が痛い。足の親指関節が痛い。昨日ぶつけた箇所が黒ずんで痛い。等々。
痛みは生命維持装置の防御反応で、この反応がなければ人間は悪い箇所に気づかずに死に至るという。自分の身体であるにもかかわらず、分からないことが多すぎる。
子供時代は一時的な痛みで、原因を取り除けば当分痛みとは無縁で生活できる。
しかし年をとるにつれ痛みはいろいろなところに顔を出し、慢性のものとなり、いつもご主人様と同居して生活して行くと言うことになる。こんなにも身体に痛みが出てくるものとは若い頃想像できないことだ。案外痛みとの戦いの日々が年をとった人の姿なのかもしれない。ガタが来る、錆び付く。父も母もそうだったのだろうか、あまり聞いたことがないので分からないが人知れず痛がっていたのかもしれない。先日のラジオのくりまんさんも右手の親指付近にサポーターをしていて辛そうだった。何が原因ではなく、老化による内部の肉体的変化ではどうしようもない。個々人で微妙な違いがある。
人間は生きて行くために多くの臓器や多くの骨、筋、肉で支えられている。しかしそれらはすべて日々新陳代謝をしていて、じっとしていない。しかし、考えたらそれらすべてが人間を形作っているパーツでもある。パーツがそれぞれの役目を支障なく毎日履行している。決して異常な行動を起こそうとしない。もしも異常な行動を起こしたとすれば、それが病気や怪我と呼ばれるやっかいな代物である。生まれてからこの方、その人にあった歩み方でずーっと何とか来た。それがその人自身でもある。あとは脳と心臓が大事なパーツである。とりわけ脳が精神、心と呼ばれる領域。
心も傷む。そして高じると自分が自分を傷めて人間辞めましたとばかりに取り返しの付かない事態を引き起こすことも人間では可能だ。他の動物は自ら自分を辞める方法を知らない。一部の動物は集団行動で訳の分からない死を選ぶこともあるという。
議員が不祥事を起こすと、すぐに辞任である。議員の辞任。それが責任の取り方であると思っているのか。辞めることで水に流せるとでも思っているのか。辞めるのは簡単だ。辞めないで働いて働いてその間に税金を皆に返そう、戻そうという議員の話を聞いたことがない。そのような償い方もある。
戦後65年、当時の身体的傷、心の傷を負って生きてこられた方が大勢いる現代である。100歳以上のお元気な方が4万人もいる日本であるという。そのうち、やがてこの世から戦争の記憶のある人がゼロになる日が来る。体験していなくても勉強すれば二度と悲惨な殺し合いをする無意味さを少しは理解できる。
傷みを分かち合える人間になりたい。
(山木康世)
スクラップブック
2010年08月04日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
父は実にまめな人だった。毎日の最高気温、最低気温を年間カレンダーに書き入れていた。これはダリアの畑の調整に毎年必要な自分だけのデータベースだったのだろう。母がいなくなってからも、実家に行くとキチンと片付いていて教えられること多々であった。
父は昔、九州一円へ母と退職祝い旅行をした。僕が大学の頃の話だ。その頃カメラに凝っていたのか、多くのスライド写真を撮ってきて家で撮影会をした。そのときの父の表情はいつになくご満悦である。だいたいにおいて写真にしろビデオにしろ当の本人たちはおもしろく見るのであるが、長い時間見せられる他人は決して本人たちと同じ気持ちではなく、まだあるの?がよくある話。気をつけなければならない。
押し入れの中に一冊の大きなスクラップ帳が残されている。その九州旅行のときに父が訪れた旅行の足跡だ。泊まった宿の資料、領収書、弁当の包み紙、その他各地で得た情報を父なりにスクラップにしていた。40年ほど前の日本の事情をかいま見る思いがして中々興味深い物がある。決して父はスクラップマニアではなかったが、このときは、ほとんど初めての母との九州旅行思うところがあったのだろう。
父は非常に好奇心の旺盛な人だった。あらゆることを知りたがっている風だった。分からない言葉や英語の単語があるとすぐに広辞苑を開いてひとり合点を打っていた。完璧にそのDNAは受け継がれている。オランダに一緒に行った時のビデオを父は僕に会うたびに、これに音を入れて編集したいと僕の顔を見ながら誰に言うともなく言っていた。
思うにスクラップブックもあまり巨大に成りすぎると、ビデオやデジタルカメラの写真に近い存在になってどこから見て良いか、どこに何があったか分からなくなる。人生の時間の中で本当に自分にとって有意義、かつ必要なスクラップなんて大きめのスクラップ帳一冊で足りるのかもしれない。それより必要なのは明日への未だ見ぬ夢や希望だろう。現代は過去の物を保管するには大変便利な時代である。黙っていたら、それこそ過去の物を集めるだけで終わってしまうかもしれない。くれぐれもご用心。要らない物は躊躇なく、勇気を持って捨て去ろう。
昔の時代の人と同様に父もあまり思い出に残る物を残していない。ビデオなどもほとんどない。しかし父が精魂込めて何かを求めて作り続けたオリジナルダリアたちと、一冊のスクラップ帳を眺めればいつでも会うことが出来る。
あぁー部屋に溜まったカスのような必要のないものを、どこから手を付けて整理すればいいのだと思いながら、こんなことを思った次第である。
(山木康世)
高円寺演芸船音始末記
2010年08月03日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
記録である。何がってかい、距離さ。
今までは事務所から一番近いのが江古田マーキーだったが、それも及ばない近さのライブハウス「ショウボート」でのライブであった。マーキーが近いとは思っていたが、「来たーっ」ていう感じである。事務所から歩いてでも行ける隣町の高円寺駅から徒歩5分というところに、開業17周年という老舗のライブハウス「ショウボート」であった。老舗というには多少若いか、今が一番脂の乗りきるときだなぁ、と思ったよ。
ショウボートといったらミシシッピ川を走っている演芸船とでも訳したら良いのか。内部は黒色の壁で昔風ライブハウス、良い感じの空間である。楽屋、防音も空調も完全、よく出演者のことを考えておるなぁ。
到着するとステージにはすでに手取り足取り、痒いところに手が届くというほど完璧なステージセットが整っており、何も言うことなし。実にスムーズな開演前の音合わせができた。
これで練馬区、杉並区のライブハウスに出没したわけであるが、我が中野区はまだである。あまり近いのもなんだなぁ、顔が知れ渡り遊びにも行けない、なんてことになったらことだし。
ここまでは昨夜本番前、楽屋でカキコした文章。以下はその後の文章。
アンコールで「めんどりぶるーす」を演奏した。イントロを演奏していてひらめいた。出来るだけ英訳して歌ってみようと急遽脳が指令をした。脳はいつ何時何をしでかすか分からない。そのうち僕自身を認識しないようになるかもしれない。そうなると肉体は単なる容器でしかなく、脳が主人である。
まず悲しいかな冒頭のめんどり(雌鳥)が浮かんでこなかった。チキンでも良いか思ったが、雌鳥は何か他の単語があると思って、和訳はやめた。オハヨーは「グッドモーニング」、なんて調子で6番の死んで皆に食べられるシーンまで進んだ。そして最後「焼き鳥のブルース」を脳は焼きバードとした。何?バードになってしまったか。単なる鳥に哀れ雌鳥は変身してしまった。我が、最高学府出の英語能力検定試験は落第、こんなもんさ。
しかし脳はそのときめまぐるしくめんどりぶるーすが終わるまで、いつになく最高にフルに発揮、あーでもない、こーでもないとエンジン全回転、実に身体に良い時間を体験した。これは健康にとって大変良い若返りであると発見した。しかしいつもいつも許されるとは思わないが、こんな試みをお客さんの前でいつまで続けられるか、見物であるな。
物忘れ、ど忘れ、人の名前を思い出せない、周りでよく聞く脳の堕落である。これを防いでいつも若々しくいるためにはこんな遊びを心がけていれば、まず大丈夫だろう。
年内にもう一回おじゃましそうな感じである。今度は何して楽しもうか、今からワクワクである。
「音楽」字の如く、大いに音を楽しもう。
演芸船の店長以下心優しいスタッフ様、ありがとうございました。
そしていつも我が音楽人生を支えてくれる雑魚音の皆様、これからもよろしくと行きたいものです。
(山木康世)
浮かれ調子で純情商店街
2010年08月01日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
明日はいよいよ高円寺ライブ。
そんなこんなで、こんな歌も作っちゃっただ。
聴きに来てくだされ。待ってるよー。
浮かれ調子で純情商店街
狂おしいまでに 君の笑顔は 僕を虜にした
許されるなら このままずっと 君と一緒にいたい
あー高円寺 純情商店街
君が横町の向こうから
僕は浮かれ調子で 待ち伏せしようか
あー猛暑の夏は無関心
踊る阿呆に 見る阿呆 同じ阿呆なら
踊らな損損 行こうか戻ろうか あーえらいこっちゃ
あー高円寺 純情商店街
君が携帯を手に持って
僕は浮かれ調子で 君が大好きだ
あー君の心は無回答
時は室町 ここは高円寺村 武蔵野台地
氷川神社に源頼朝 深い鎮守の森
あー高円寺 純情商店街
君が下駄をカランコロンと
僕は浮かれ調子で 手ぐすね引いて待つ
あー頼朝はこの際無関係
新宿駅からJR中央線で 西へひた走り
東中野過ぎやがて中野 次が目的地
あー高円寺 純情商店街
君が浴衣着て小走りで
僕は浮かれ調子で セントラルロード
あーライブ見に行こう ショウボートへ
(山木康世)
高円寺「ショウボート」への誘(いざな)い
2010年07月31日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
高円寺といえば吉祥寺と並んで、学生のころの僕には格別な響きのする町だった。
あいにく今住んでいる中野は存在外だった。
ほんやら堂、がらん堂という日本を代表するライブハウスが遠く北海道の地まで聞こえてきていた。ここへ行けば日本人によるアメリカンフォークソングが聞ける。そんな夢の町だった。
そして本当に、わけも分からず上京した折り訪ねてみたことがある。今思うと夜の中央線を高円寺で降りた。さてそれからどうするのだ.何も持っていない。電話番号も地図も持っていない。
何も見つけられずに高円寺の町をブラブラ、中央線をトンボ帰り。それでもあるはずの町へ行けただけで目的は達成したようだった。いつか機会があったら訪ねてやるさ。
そんな高円寺へ歩いてでも行ける中野の町に住んで22年。
こんな近隣の町に住みつづけるとはあの当時思いもしなかった。そして高円寺ライブ。「ショウボート」はお初であるが、僕の中では念願の高円寺ライブなのである。
物の本によると高円寺は室町時代に開かれたお寺の名前にちなんでいて、高円寺駅近くの氷川神社は源頼朝ゆかりの地で旧高円寺村の鎮守であったという。江戸時代には鷹狩の地として有名で家光将軍がよく遊んだらしい。ちなみに中野の村は家光の4男である犬公方綱吉の生類憐れみの令でお犬様を異常に大事にした施設のあった村である。その当時の武蔵野台地は昼なお暗い木立がうっそうとする森林台地であったのか。
さてどんなライブが展開されるのか、本当に楽しみな高円寺ライブである。みなさまお閑でしたら8月2日月曜日、是非遊びにいらしてください。お待ち申し上げます。高円寺ライブ公演時間は7時半開演でございます。
(山木康世)
セミとサクラと夜風
2010年07月30日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
メスのセミは7年前の夏の昼下がり、事務所前のサクラの木の樹皮に卵を産みつけた。やがて年が開けた冬の夜、樹皮からサクラの汁を吸って生き続けた一匹の孵化した幼虫が地面に落ちて、地中深く潜っていった。あれから幼虫はサクラの汁を根元から吸って成長しつづけた。7回の春夏秋冬を人知れずひっそりと真っ暗な地中で孤独な成長を続けて、雨の上がった今夜地中から這いあがって来た。
7年ぶりの地上である。あの日と同じサクラの木はかなり大きくなっていたが、もちろん花は散って青い葉っぱが生ぬるい夜風にサワサワと揺れている。木の近くに11階建ての大きなマンションなど建つとは誰も思っていない7年前。セミにとっては母なる木である。この樹液がセミを育てつづけてきた。
セミは人通りの少なくなった夜まで待ってノソノソと自転車の前輪に這いあがって来た。何もこんな不安定なゴムの上で変態をしなくてもと思ってしまう。鈍く光る茶色い殻の真中、背中から更なる変化の姿で徐々に最後の変身をしている最中に一人の男に見つかってしまった。
俺は自慢の空色の自転車にさび止めを吹きつけていた。そして腰をかがめてタイヤの具合を見た。ふと見た横の薄暗い自転車前輪に何かがへばり着いている。何かふんづけて、そのままにくっついているのかな。しかし良く見ると動いているようだ。茶色の真中から草色のものがモリモリと出てきているようだ。これはセミの脱皮じゃないか。あー何という幸運。小学生の夏休みに見て以来のセミの誕生だ。
一瞬セミは俺に気づいて動きを止めたが休むわけにはいかない。神様からの最後のコマンドを続けなくてはならない。俺は携帯のカメラでとりあえず記録をと撮った。セミがすっかり姿を現し終えたとき左手で柔らかいセミを優しくつかんだ。
セミは誰かに見られていることに気づいたが止めるわけにはいかなかった。7年間いた沈黙と静寂の地中から今這い出てきたのである。そして明日からの10日間がすべての生命体の完成を終えつつあった。しかしまさか人に見られていたとは知らなかった。最後の不覚という奴か。どうか良い人でありますように。
俺はきっちりした記録を収めようと事務所に連れこんだ。明るい蛍光灯の下で戸惑っているようなセミをニコンのマクロで数枚収めた。50年前の記憶がよみがえる。セミは何かから逃れるように必死で足をもがいてじっとしていない。誰にも見つからずもう少し、あのまま時間が経過していたら今ごろ母なるサクラの木に這いあがっていたことだろう。完成直前に人に見られるとは恥ずかしい。これがまさにセミヌード。しかしどうやら殺されるようではない。何とかなるだろう。
俺は階段をかけ降りた。握った右手の拳の中にはセミがいる。戻してやるよ。最後の営みを明日から元気でやれよ。暗闇の中、硬いサクラの樹皮にセミを戻して遅い晩飯を食いに自転車をこいだ。
セミはノソリノソリとサクラの高みへと昇っていった。多少湿りがちな生ぬるい夜風は優しく朝までにセミの幼い透き通るような柔らかい身体を、硬く乾いた強固な大人の身体へと変身させていった。
(山木康世)
あーもったいないったらありゃしない
2010年07月28日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
尾崎と中田
尾崎行雄は僕が12歳のころに大活躍した東映フライヤーズの大投手だ。高校を2年で中退、すぐにプロ野球で20勝、新人賞。怪童と呼ばれて、子供ながらにピッチングフォームを良く覚えている。多少前のめりで投げ出されたストレートは、打者をキリキリ舞い、バットは空をきる。ビデオから計測した推測速球は159キロという。こんな選手が日本の高度経済成長期を精神的に支え応援していたと思う。世界の日本になるために世の大人たちはなりふり構わず、働き蜂の如く働きに働いたものと想像する。つかの間に見るテレビからは尾崎の剛速球が。スカッとしたに違いない。カーブやシンカーなどの変化球ではなく、直球勝負がビールをうまくしたものと思う。
片や平成22年の札幌、日本ハムファイターズ、中田 翔が弾丸2号をかっ飛ばしたと記事にあった。中田は高校野球から3年前に入団したと思う。しかしすぐにベンチ入りはさせてもらえず、2軍でフォーム矯正、プロとしての準備を余儀なくさせられた。中田が高校生のころから、良い選手が出てきた、すぐにプロで大活躍すると期待していた。それを外野席があーだこーだと3年も教唆した。確かに良くなったのだろう。しかし僕が見たかったのは平成の尾崎行雄なのであった。どうプロで通じるか計り知れない天才のバットを見たかったのだ。失敗してもやり直しが利く。それを凡才の監督やらコーチが玉を磨こうと躍起になって失敗した。僕にはそう見える。本当に見たかった、プロのピッチャーを手玉に取る18歳の天才バッターを。今からでも遅くはないが、旬という言葉からは大幅に遠ざかってしまった。
野球ファンは何も手堅いチーム成績だけが目当てではなく、ハプニング、面白さも大いに期待している。
ガンバレ中田 翔、CM出まくりの石川某なんかに負けるな。
(山木康世)
地球は生きている
2010年07月27日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
この夏世界各地から異常気象のニュースが続く。
大雨、猛暑、大寒波、いずれも尋常な数字ではない。何とも世紀末風で不安になる。
地球は回っている。風を起こしている。雲を作っている。雨や雪を降らしている。まるで生き物が呼吸しているように代謝を繰り返している。
中国人Aの証言=私たちの農場では、雨をコントロールしてきました。ロケットは私たちに恵みの雨を降らせ、太陽の温もりを好きなときに好きなだけくれます。今やロケットなしの繁栄、収穫、幸福などありえません。
中国人Bの証言=私の乗っている漁船は、過去に何度も台風に遭遇して命拾いをしたことか。細々と経営していますので、天候は非常に大事です。天気は神頼みの時代は終わりました。ロケット会社に頼んで事前に海上の天気を良くしておけば、大漁は間違いないです。
去年こんなニュースがネットにあった。
2009.10.2 00:01
中国国営新華社通信によると、建国60周年の1日、パレードなどが雨で悪影響を受けないようにするため、「消雨ロケット弾」432発を雲に向かって打ち込んだ。北京市中心部は前夜から未明にかけ雨が降っていたが、式典が始まった午前10時にはほとんど雲のない快晴となった。
こんなことを隣国では日常茶飯事で行っているという。
地球は戸惑っているに違いない。怒りや悲しみなどではなく、困惑しているのだ。巨大なシステムの一部が何ものかによって狂わされている。地球は長いこと平和主義者に味方してきた。しかしここ一世紀の間に、見せ掛けの平和主義者によって、ボロボロにされてきた。今や地球は平和システムのコントロールを失ってしまった。
元通りに回復してもらうには、直ちに目の前の幸福に預かろうという下衆なエゴ体質を改善しなくてはならない。天上の雲や雨を制御して、自分たちだけの幸福追求などという根性は神への冒涜である。
今や世界の人口の四分の一を占めるまでになった中国は、地球自体を狂わすまでに暴走しているのであろうか。
(山木康世)
柏WUU音始末記
2010年07月26日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
柏でライブをするようになって1年半が過ぎた。
千葉県は遠くて近い県である。道産子の僕には東京も千葉も同じように思えるのだが、千葉の人は何をおっしゃりますると右手を顔の前で左右にヒラヒラ。
毎回土曜に行われるライブ。去年も同じく7月の第4土曜日に行っていて、大変な賑わいを経験していた。
この日、柏では柏祭りが行われて、町の倍の人が繰り出す。去年は柏駅から2つ先の我孫子駅前に車を停めて電車に乗り換えギターと荷物を運び込んだ記憶がある。今回は豊四季という隣りの駅に駐車、東武線で参上いたしました。豊かな四季とは何と日本人らしいセンスであろう。拍手である。ひらがな名の町が増えたりしている昨今、妙に感心しきりである。その上土日は1日駐車1000円という東京では信じられないお手ごろな駐車料金も手伝って足取りも軽い。
この日は、柏の中心部から自動車は排除される。何か目玉の出し物でもあるのかと尋ねるとそうではない。何もない、ただ人が近隣から集まってくるだけという。
その通り、駅東口からWUUまで道に人があふれかえって、土日の原宿駅前周辺と同じような喧噪ぶりに変身、年に一度のお祭り騒ぎとなる。
縁日の屋台が道の両側をズラリと占めて、時折パレードが行われている。何が出ているのかさっぱり分からない。しかし人は老若男女が混雑さを楽しみに来ているようだ。脇道に入ると、ヤンキー座りをした若いモンがかき氷やイカ焼きなどをつっついている。人が人を呼ぶ賑やかさを嫌と言うほど考えさせられるこの日である。
お祭りは本来こんなもんだったのだろう。それがいつしか町のため、企業のために作られたお祭りになって日本各地で繰り広げられているのだろう。札幌のよさこい祭りなど典型的であろう。
故に自然とこの日の柏ライブはお祭りの気分が身体に染み渡り、お客さんも僕も普段にはない浮かれ気味である。人生はお祭りである。何かしらそれぞれの人にとって毎日がお祭りである。町に繰り出せる心身の健康は幸せの一つである。
あの混雑を疎ましく思ったり、妬ましく思えてきたら黄色信号である。
帰り道、ライブの余韻と祭りの後の興奮がまだたっぷりの夜空には稲光が頻繁に光っていた。これは一雨あるか、ざぁーと通り雨でも来るか。
次回は9月、その次は12月と3ヶ月に一度という頻度で行って行く予定である。
店のAご夫婦、仕掛け人O氏の汗だくさにほだされて常磐道を通うライブは、地元の方が言うように近くて遠い気分のライブと整いました。
(山木康世)
夕暮れのビール
2010年07月23日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
アルコールは健康のバロメーターになる。まずくてすぐに酔いが回るようなときは、何かしら身体が疲れている。早々に切り上げ引き上げるべし。
飲む時間帯によってもアルコールの効能は変ってくる。夕暮れに、それも外が望める場所での飲酒は何とも言えぬ心地よさがある。種類としてはビールが程よい。いきなり日本酒は見栄えも悪いし、効き目もありすぎ。ここはぐっと喉越しを楽しもう。それでも飲みすぎると何でも一緒だ。
話の合う友人との飲酒は何物にも換えがたい。時間を忘れて話に花が咲く。こんなときの夕暮れ時は本当に心地よい。風も穏やかで通りすぎる人も楽しげに見えてくる。互いが互いを気遣い、距離を少し置き言葉のキャッチボールをする。そしていつの間にか終電の時間になってしまい、別れのときが来る。しばしまた会いましょう、御機嫌用。
電話が来る。
「ただいま名古屋におります、もう新幹線もないので鈍行で戻ります」
ミスターTは浜松の人。どうしたものかと思っていたら、乗り過ごし。
そんな自分も吉祥寺まで連れてゆかれ先ほど中野に戻ってきた次第。
JRに乗り過ごす賃を儲けさせるほど今宵は飲んでしまった。分かっちゃいるけど止められない、船を漕ぎ漕ぎの電車移動の恐るべし瞬間移動。窓の外の駅名を見て、車内放送の駅名を聞いて乗り過ごしに気がついたときの一匹の迷える子羊の放心状態、狼狽振りを何に例えよう。
達人になると何度も何度も往復する。こうなるともう手がつけられない。電車睡眠に執りつかれた移動の旅人はまさに過去と未来を行ったり来たり、いい加減にしないとどこに自分が行くのかさえ定かではなくなる。
ここはどこ、私は誰?
あぁー哀しいほどに、夕暮れのビールは金を払ってでも買いたくなるほどの美味さである。
(山木康世)