となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

セミとサクラと夜風

2010年07月30日 | カテゴリー: ミュージック・コラム 

メスのセミは7年前の夏の昼下がり、事務所前のサクラの木の樹皮に卵を産みつけた。やがて年が開けた冬の夜、樹皮からサクラの汁を吸って生き続けた一匹の孵化した幼虫が地面に落ちて、地中深く潜っていった。あれから幼虫はサクラの汁を根元から吸って成長しつづけた。7回の春夏秋冬を人知れずひっそりと真っ暗な地中で孤独な成長を続けて、雨の上がった今夜地中から這いあがって来た。

7年ぶりの地上である。あの日と同じサクラの木はかなり大きくなっていたが、もちろん花は散って青い葉っぱが生ぬるい夜風にサワサワと揺れている。木の近くに11階建ての大きなマンションなど建つとは誰も思っていない7年前。セミにとっては母なる木である。この樹液がセミを育てつづけてきた。

セミは人通りの少なくなった夜まで待ってノソノソと自転車の前輪に這いあがって来た。何もこんな不安定なゴムの上で変態をしなくてもと思ってしまう。鈍く光る茶色い殻の真中、背中から更なる変化の姿で徐々に最後の変身をしている最中に一人の男に見つかってしまった。

俺は自慢の空色の自転車にさび止めを吹きつけていた。そして腰をかがめてタイヤの具合を見た。ふと見た横の薄暗い自転車前輪に何かがへばり着いている。何かふんづけて、そのままにくっついているのかな。しかし良く見ると動いているようだ。茶色の真中から草色のものがモリモリと出てきているようだ。これはセミの脱皮じゃないか。あー何という幸運。小学生の夏休みに見て以来のセミの誕生だ。

一瞬セミは俺に気づいて動きを止めたが休むわけにはいかない。神様からの最後のコマンドを続けなくてはならない。俺は携帯のカメラでとりあえず記録をと撮った。セミがすっかり姿を現し終えたとき左手で柔らかいセミを優しくつかんだ。

セミは誰かに見られていることに気づいたが止めるわけにはいかなかった。7年間いた沈黙と静寂の地中から今這い出てきたのである。そして明日からの10日間がすべての生命体の完成を終えつつあった。しかしまさか人に見られていたとは知らなかった。最後の不覚という奴か。どうか良い人でありますように。

俺はきっちりした記録を収めようと事務所に連れこんだ。明るい蛍光灯の下で戸惑っているようなセミをニコンのマクロで数枚収めた。50年前の記憶がよみがえる。セミは何かから逃れるように必死で足をもがいてじっとしていない。誰にも見つからずもう少し、あのまま時間が経過していたら今ごろ母なるサクラの木に這いあがっていたことだろう。完成直前に人に見られるとは恥ずかしい。これがまさにセミヌード。しかしどうやら殺されるようではない。何とかなるだろう。

俺は階段をかけ降りた。握った右手の拳の中にはセミがいる。戻してやるよ。最後の営みを明日から元気でやれよ。暗闇の中、硬いサクラの樹皮にセミを戻して遅い晩飯を食いに自転車をこいだ。
セミはノソリノソリとサクラの高みへと昇っていった。多少湿りがちな生ぬるい夜風は優しく朝までにセミの幼い透き通るような柔らかい身体を、硬く乾いた強固な大人の身体へと変身させていった。
(山木康世)