73歳北海道の締めは「小樽K・cafe」
2024年06月07日 | カテゴリー: 山木康世
美原の記念桜はこの2、3日のうちにすでに盛りを過ぎていた。
蘭越、真狩を過ぎて羊蹄は頭をスッポリ雲に隠して、雄姿を拝むこと叶わず。
留寿都を左に入ること4キロ、懐かしい美原が見えてきた。かつて65年ほど前に生活した官舎は見つけることすら困難な草の中。そこから毎日羊蹄を眺めて,美原小学校まで、村落の端から端まで毎日通学。子供の足でずいぶんと遠いと感じていたが、今ではあっという間の距離、車で1分だ。
確かここに学校とグランドが、その向かいに記念樹がと思いつつゆっくり車を進めた。行けども行けども見当たらない。Uターン、あったあった、桜が咲いていた。幹回りは太くなって、もうあの頃の幼い感じはもうない。写真の通り枝一杯に花をつけて風に吹かれていた。横には「平成15年閉校記念イベント」とある。確かに皆で植えた桜の樹だ。風雪に耐えて17年、見事に花を咲かせて、これからは大人になってゆくはずだ。
小樽は函館と同じような親族が住んでいた身近な港町。函館よりも町自体の規模が小さく、しかし坂がいたるところにあって、いつも冬は大変だろうなと思ってしまう。
ニシンが豊富に捕れた往時を妄想する。昔は半日がかりで札幌から来たものだ。海水浴場や潮まつりでの海からの花火を遊んだものだ。
一匹長屋→ありがとう→今回のK・cafeと30数年で姿を変えたが、中に入るとそれほど変わっていない。ステージが広くなり当時は弾き語り中心のliveが多かったのだろう。複数の人数対応、スピーカー類も随分と充実していて、音に余裕があって良い感じだ。
今回はjourneyreasonと3曲共演した。男性ピアノと女性ボーカル。と一寸変わった編成である。
「やさしさとして想い出として」「山のロープウエイ」そして「白い冬」彼女の声質は女性にしては野太いものがあり面白い。オリジナルキーでこなしてくれた。ハモリも万全のキーだ。
12月の札幌までに何かしら具体的なつながりが出来たらふきのとうホールはにぎやかホールになること間違いなしだ。半年後の74歳札幌を夢見て、北海道ツアーの締めとします。
皆さん、誠にお忙しい中ありがとうございました。
ヒーイズ フィッシャーマン!
2024年06月04日 | カテゴリー: 山木康世
お昼前札幌出立、定山渓→中山峠→ニセコ→黒松内→八雲→大沼公園→七飯そして夕刻の函館である。函館山が遠くに、ここまで来ると眼の前、津軽海峡の向こうに青森、大間辺りが見えてくる。北海道の南である。札幌から4時間、イカの町、往時の活気のあった町を偲ばせる金森倉庫郡は函館の宝であるな。建て替え建て替えで忙しい日本の落ち着かない東京もエネルギーを感じて頼もしいが、なぜか虚しさも同居する現代である。
母の親戚が大勢住んでいた函館の町。海とは無縁の羊蹄山の麓から函館の町は♪遠い山の向こうの 知らない町よ♪大都会、電車の走る町、函館山のロープウエイ、トラピスト修道院、温泉、棒二森屋、七飯の絵描きのおじさん、大事な大事な子供の頃の夢いっぱいの街、函館は今でも脳裏にぎゅうぎゅう詰めでいっぱいだ。町中に溢れていた塩辛工場の匂いまでこびりついていて風に運ばれてくる。大人になってギターをかついで青森から上陸、青函連絡船の桟橋は内地からのなくてはならない北海道上陸への道。
あうん堂の入口にはGLAYの大きな写真が飾られている。彼らが高校生の頃に通っていたという会場は木の温もりで一杯だ。対象的に音響設備に抜かりはない。マスターは挨拶もそこそこにステージ後ろの壁に新しい弁天様との中旗を貼ってくれる。リハを終えて案内された楽屋は説明の通り見事な天井裏の楽屋である。あれほど頭には気をつけて下さいと言われたのに。頑丈な木の梁に2回も頭を強打、目を覚まさせてくれる。
夕方に広げた数の子、身欠きニシンの親子弁当は美味かった。ニシンはまた少し戻ってきたが、いっとき遠ざかっていた魚である。独特の趣を持つニシンは好き嫌いがあるだろう。骨がうるさく、すぐに傷んでしまう。季節になるとニシンを求めて日本海を北上、まだ日本領が半分あった大きな大きな島、樺太の町へでかけた松太郎祖父さん。海が山のようにうねって真っ白くなりニシンの到来を告げる。大きな双眼鏡に飛び込んできて逸る心を抑える祖父さんの胸中を思うと涙が出てくる。生活ではあっただろうが、男のロマンの大漁節で抱腹絶倒、声も枯らさんばかりに眼の前のお宝を一匹逃さずガンバレー!とヤンシュウたちにエールを送る。帰ったらみなで美酒の乾杯だ。
2時間半の現代の孫の大漁節は終わった。ふきのとうのイメージから抜け出ることが出来ただろうか。祖父さん、どうだっただろうな。良い意味でも悪い意味でも今を生きなきゃ一回きりの人生もったいない。
終演後、月寒高校の同級生K氏が待っていた。今は写真家で函館が故郷になってしまったという。函館新聞のA氏は退職に際して、中学の頃から憧れだったと言って、今日の紹介記事を自ら大きく書いて頂いた。
そんなこんなで時空を超えての応援もあってあうん堂LiveLibraryは盛り上がって終えることが出来た。誠に皆々様のおかげである。
♪イカを食いたきゃ函館においで♪
♪松太郎さーんニシン来た来た樺太へ♪
ヒーイズ フィッシャーマン ヒーイズ フィッシャーマン!
僕ら全員人生の荒波でのフィッシャーマンである。海をかき分けかき分け航海を強く続けよう。
ありがとうございました。
「永遠に在れ 僕らの青春に乾杯!」
2024年06月02日 | カテゴリー: 山木康世
札幌に来て以来初めての青空。4日間待ちわびた。これから中山峠を越えて噴火湾を左手に南下、母の故郷思い出の町函館へ向かう。
昨夜の道新ホールには久しぶりに音楽仲間が集合。良い一日だった。
1963年に北海道新聞社のビルが建った時に、同時に道新ホールは作られた。僕は中学2年生である。まだギターというものに興味を示す前の頃の話だ。1965、2年後にギターを手にして虜になって60年ほど前の話だ。テレビ塔が建って町の火の見櫓がなくなって、札幌が徐々に近代都市へと様変わり、僕も多感な時期を迎えるわけ。
道新ホールには学生の頃何度かフォークソングクラブ定期演奏会で足を運んで、自分たちで切符を売って運営した。あの頃、大通公園を真下に見ることが出来た楽屋は洋室と和室に姿を変えていた、
町の中央にある、新聞社のホールということで、何かしらの文化の香りを感じて良い気分で演奏会をしたもんだ。いつも満員御礼、札止めという演奏会を思い出す。
この日のお題目は
「ありがとう 道新ホール」~永遠に在れ 僕らの青春に乾杯!~
出演 山木康世/佐々木幸男/みのや雅彦
ゲスト 手風琴/工藤忠幸
お別れの日に大勢の人たちが集まって僕たちと一緒にホールの別れを惜しみつつ感謝の日となった。
このような北海道在住の音楽仲間とともに過ごした日は久しぶりである。楽屋での話は一様に健康の話である。同じような年齢を迎えて一番の関心事はこれにある。健康一番である。自分たちの手作りの音楽を携えてホールいっぱいに音のシャワーである。平和、健康、つつがなくさらなる平穏の日々に音楽は貴重である。
ビルは少し離れたところに建てられ、ホールはなくなるという話だ。寂しい感じもする。時代の流れなので仕方がないとは思うが、自分たちの成長とともに移りゆく町で存在感のあった
中堅700名収容の道新ホールは6月いっぱいで姿を消す。
本当に長い間ありがとうございました。ご苦労さんでした!