となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

北見端野石倉音始末記

2010年09月14日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

端野は北見の外れにございました。のどかな緑が広がる中に石倉が良い感じで建っておりました。
聞くところによりますと、米の倉庫だったようです。石壁の厚さが30センチほどもございますので、音響に関しては締りの良い音が期待されます。ここでは何でも行われるようで、先日はプロレスを行ったそうでございます。
会場一杯に並べられたパイプ椅子の多さがやる気と興奮を誘います。やはり人は多いほど良い。あまり多すぎても、感動を伝えることは難しくなります。程よい人の数は、程よいライブ感を出すものでございます。ギター一本の限界もございますので、程よさが良いのです。

すっかり日の落ちた控え室で、はやる心を抑えて準備していますと、お握りの夕食が。これにナスとキュウリの漬物が添えてございました。こんなちょっとした気遣い、心遣いが嬉しゅうございます。ブラインド越しの暗闇を見ますと、会場前30分にも関わらず熱心なお客さんが行列を作っておりました。こんな場面を見てやる気を起こさないアーティストは不幸を招くことでございましょう。熱心さの表れが人の行列なのでございます。
本番にはほとんど見たことのない老若男女がギッチリと会場を埋め尽くしておりました。
こちらはいつもどおりの姿を披露となったわけでございますが、想像以上のライブだったようでございまして「ブラボー」とクラシックコンサートでかかるお声が出る始末でございます。何とも面映いという場面でございました。

打ち上げの出席者は、わたくしがデビューした36年前には幼児期だったスタッフがほとんどでございます。理由は主催が商工会青年部でございましたからです。40歳が上限と言う青年部のスタッフたちはわたくしの子供の年といっても良いような方たちばかりでございます。こんな打ち上げを36年前には絶対に想像できなかったわけでございます。やはり確実に月日は流れておりました。しかし、こんなそんな連中が今の日本を引っ張り、日本の姿を作るのでございます。彼らがどんな気持ちで国造り、町造りをするかで趣が変わってくるのでございます。
老兵は去るのみ、ではなく老兵は経験談を話して聞かせ、後ろからジッと見守る相談役で出番は幾らでもございます。音楽も同じで世代のスライドがスムーズにできなくて住みよい世の中は、なかなか考え辛い。老若のお互いが取り柄を存分に認め合い、存分に交流し合うところに人生の妙味があると信じております。こんな時に発するブラボーは本当にブラボーでございます。

酒飲んで、客と口論して、コンサートして、その上払い戻しまでしてまでも成り上がっていられる歌手など世界では絶対に通用しないはずなのに、そこに群がる大勢の観客、メディア、実に日本とは緩く甘いお国柄だと痛切に感じる今日この頃でごまします。

みなさん本当にありがとうございました。
(山木康世)

江古田魔ー鬼ー音始末記

2010年09月07日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

やれやれもうすでに土曜日から3日も過ぎてしまった。
ついつい忙しさにかまけて日々を過ごしてしまったらこの様だ。あれほど会場でブログの話をしておいて、期待をしていたお客さんには申し訳ないく申し訳ないく平身低頭。

もうよい、もうよい(お客さんの声)

9月4日も東京は猛暑.残暑どころではない。しかし8月に比べると幾分湿気が減ったようで、蒸し暑いというよりは直射日光の暑さという感じでしのぎやすくなったか。
今日のマーキーは僕にとって特別な日。母の命日である。30年前母は他界した。
僕は札幌保全病院で早朝野球、不覚の左足首骨折、全治3ヶ月退院まで1週間というところだった。母はこの日、朝4時ごろ平岸にある幌南病院の一室で息を引き取った。窓を激しくたたく風どもを思い出す。母を風どもも一緒になって「まだ行っちゃだめだ、逝っちゃだめだ」と起こしているようだった。翌日は夜明け前のお別れがうそのようで青空にはたくさんの赤トンボが飛んでいたっけ。兄貴と病院の帰り道、喪服を買うことを相談しなければいけないことが悲しかった。

先日の江古田は盛りたくさんのメニューをこなした。
まず母の死に面して、一人自分も病室という孤独な環境で作った歌「秋の夜」「外は雨模様」「パレード」を当時を思い出しながら歌った。30年前の歌には思われない不思議さを味わう。30年という月日の長さは一瞬にして昨日のように縮まった。
「津軽鉄道各驛停車」をミックスしてマーキーに持っていった。その音源に合わせて会場でご披露となった。根津でしっかりコーラスで参加している雑魚音の会のみんなにも早く聞いてもらいたかった。五所川原小学生37名、津軽太鼓が入った完成版だ。冒頭には津軽鉄道社長の「出発進行!」が発破をかける。

安宅の関での勧進帳祭りもしっかり歌った。20日後にはローソクの灯りの元、どのようなイベントが催されるのか。弁慶、義経、富樫も天界から降りてくる支度で大わらわだろう。東京からわずか50分ほどで石川県は小松空港に着く。なんだかんだして乗り換えやごった返していたら、埼玉や千葉よりも近いかもしれない。天気のご機嫌を願うばかりだ。

マーキーご参加の全員に聞いてみた。
「ネットでブログをいつも見ていない人は拍手をしてください」
一人もいなかった。もしかしたらこの話の実態から理解できなくて途方に暮れていた方もおられたかもしれない。まぁ良いとして、昔は半数くらいの人が拍手をする時期もあった。かなりの普及率と見た。これで書きがいがあるというんもんだ。
別れ際オーナーのU氏から還暦コンサートに花を送ると言われた。うれしかった。お互い60歳を向かえるにあたって、もう少しこの国は考えないといけないということで合意した。これを機に領土問題や、過去の戦争の意味、意義などを風化させないようメッセージをしていこうと別れた。50代最後の絶唱は終わった。完全燃焼也。

僕がマーキーを定期的に続けてきた理由にU氏のものの考え方や、店の持っている雰囲気が大いに手伝っている。僕は死ぬまでフォーク魂で行こう!
次回は11月20日、きっと秋風が吹いて僕は60歳になっている。
(山木康世)

どこで拾われました?

2010年09月03日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

「どこで拾われました?」
駅員は黄土色の財布を受け取り尋ねてきた。札入れのような縦長の財布だ。
どこと言われても、電車の中なので移動している場所をどう説明したら良いか一瞬考えた、
「僕は『新井薬師』で乗って、気づいたら向かいの座席に放置してあったので『下落合』あたりでしょうか。」
これが一番近い答えのような気がして答えた。
「分かりました、1番ホームに今入った電車ですね。」

今日も東京は猛暑。ホームで各停新宿駅行きを待っていた。日陰を探して電車を待つ。たった今急行が勢い良く通り過ぎたので、もうじき普通電車は来る。肌がジリジリと焼かれている感じだ。まぁ夏は思いっきり暑いほうが夏らしくて良いのかもしれない、それにしても今年の記録ずくめの猛暑は異常といえるだろう。

悠悠空いている電車に乗り込んだ。涼しいー!あいにく日差し側の座席に座る。みんな隣の人と、ひとつずつ開けて座っている。寝ているか、携帯画面に目をやっているか、何もしないで風景を見ている人を見つけるのは近頃難しい。昔は本を読んでいたが、今は本当に小さな画面に釘付けだ。まぁそのうちみんな飽きて本に戻るのだろうが今はものめずらしさと言うところか。

そんなことを思いながら自分も携帯端末画面を見ている。向かいには中年男性が盛んにメールを打っている。そのひとつ空けて座っているキャップを被った、少々服装の乱れた若い男性も携帯に釘付けだ。電車が停まって、その男性が降りたな、と目の片隅で認識した。そして良く見ると座っていたところに黄土色が放置してあるではないか。気が付いたときにはすでに時遅し、電車はドアを閉じて動き始めていた。躊躇しないですぐに声をあげて立ち上がり黄土色を拾い上げていたら間に合ったかもしれない、と思いながら隣の中年を見ると認識したのかしていないのか分からないほどまだメールに夢中だ。手を伸ばせば彼からは届く距離に黄土色はある。どうなることやら。誰かが次の駅で乗り込んできてそこに陣取ったら次の展開へと事は進むはずだ。しかし誰も乗り込んで来なくて、中年も「高田馬場」で画面を見ながらそのまま降りてしまった。

車内には数えるしか乗っていない。次は終着の『西武新宿駅』だ。僕はここで一番良い行動は何かと考え、まず席を移動、黄土色を確保した、しかしこれは届け出る行動の初めの段階であると誰に言うともなく心で唱えていた。決してポッケなど絶対にしない、神に誓って言う。こんなことで人生を棒に振るほど馬鹿ではない。しかし中身が気になるところだ。僕は流れる外の風景を見ていたが、何にも見えなかった。
きっと落とし主は今ごろなくした財布に気が付いて、尻のポケットから座席に滑り出てしまったんだ。困った、困った金はそれほど入ってないが、免許証やカードの類をこれからいちからやり直せっていうのかい。トホホ、泣くに泣けない昼下がり、きっと拾った主は良い人に違いない。きっと届けてくれているはずだ。駅員に早く知らせよう。もしも悪い人だったら…。

ドアが開くのももどかしく、急いで黄土色をしっかり右手に握りしめ小走りでホームを案内所へ。もしも僕の行動を誰かがしっかり見ていて、あいつは財布を拾ってそのまま小走りでホームを改札口に向かっている。これは一大事、声を発して事件を未然に防がなくては、とか、あり得ないが、さっきの男性が後ろから「スミマセーン、その財布僕の何ですが」とか、そんなことになったら自分の考えをどう説明したら皆が納得するか。こうなると本当に事はややこしくなる。世間でよく言われる冤罪というやつか。やだやだよしてくれよ、身に降りかかる火の粉は早く、未然に自ら解決しなくてはならない。僕は善人です、悪人ではありません、今、困っている人を助けようと急いでるところです。

こんなそんなが脳裏を交錯したが、ほどなく何事もなく駅案内所にたどり着いた。
自動ドアを開けて中に入ったときには本当に安堵していた。良いことをして、こんなに心臓の鼓動がときめいたのは初めてのことだ。
日常とは何とも、いつ何時何が起こるか分からない筋書きのないドラマであるなぁ。その積み重ねの連続がその人の人生であるということか。
落とした男性は今頃戻った財布を見ながら、拾って届けてくれた正直な善人が東京にもいることを思ってくれただろうか。携帯の画面ばかり気を取られていて、もっと取り返しのつかない不測の事態が起こるかもしれないから気をつけなよ。

「どこで拾われました?」

(山木康世)

アナログとデジタル

2010年09月02日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

HMV渋谷が閉店した。タワーレコードなんかとっくに姿を消してしまった。少し若いころ、レコードからCDに音楽配信が変わったとき、海外の大型CDショップが日本に、まるで黒船がやってきたかのように襲来した。
表現者にとってアナログレコードはいろいろと都合がよかった。あの大きさがまず大きすぎず、小さすぎず格好な大きさだった。紙の持つ柔らかさと、塩化ビニールの絶妙なバランス。しかし買うほうにとっては何枚も大量に買うということはなかっただろう。好きなアーティストはかかさず買ったにしても、見栄で買ったり付き合いで買ったりする人は少なかったろう。存在感のあるアナログレコードは、その分それでなくても狭い部屋を占拠するのだから考えてしまう。
もしもCDがこの世に出現していなかったら、今の何千曲も持ち歩くような聞き方もないはずだ。デジタルの進化系が今の姿である。人間とは恐るべき発見、発明をするもんだ。そんなことをやらかす人間は数字に滅法強く、数字が飯より好きな工学系の人間であろう。学校では目立たないがいつも上位にランクインしている優秀生であろう。

片や音楽となるとどちらかというと文学系であろうか。妄想癖があり、何かにつけてロマンを感じてしまい、人前で涙を流すことをはばからない人間が多いと言えるかも知れない。アナログの時代は両者が拮抗していたが、デジタルになって逆転してしまった。音楽が数字的の色合いを濃くして行った。
その象徴が聞き方に現れている。
昔は聞き始めると30分ほどはスピーカーの前から離れられなかったものだ。一部のマニアは良い音を聞こうと一生懸命工夫をしたものだ。針を交換したり、高価なスピーカーに買い換えたり、アンプを自作したりと音への追求も忘れなかった。東京に行ったら、音楽好きは秋葉原へ直行だ。雑誌で見たパーツやキッドを見に出かける。帰りには輸入盤を買ってくる、なんてハイカラなこともあった。

作る方もポスターを付けたり、曲順をみなであぁでもないこぅでもないと考えた。LPレコードでかもし出せる世界を可能な限り追求して1枚を作り上ようと懸命だった。聴き手は聴き手で歌が終わると次の歌のイントロが聞こえて来るほど好きなレコードは何回も何回も盤がすり減るほど聴いた。1枚聴き終わると、これが待ちに待った待望のレコードだと抱きしめたりもしたものだ。ジャケットを壁に飾ってインテリアの一部にもした。そんなあまっちょろいロマンチックでセンチメンタルな世界は、みんなみんな消えて闇の向こうに行ってしまった。
デジタルが悪いのではない。むしろデジタルの可能性のほうが一般的には大きな貢献度である。しかし音楽の持つ深さ、広がり、曖昧さ、衝撃さなどとの相性が合わなかっただけだ。

楽曲はまるで市場に並ぶ魚の切り身のように一曲いくらと切り売りされ、パソコンへダウンロードされ、聞き飽きたら削除すれば目の前から消えてなくなる洋服や食べ物と一緒になってしまった。今時の若者はCDは買わないらしいが、買ったとしてもさっさとPCにコピーしてMP3化してしまい、ケースや本体はゴミ箱行きになると聞いたことがある。恐ろしく合理的、かつ冷たいなぁというのが印象だった。明らかに僕らの若い時分と大きな違いがあって言葉も出ない。制作者の意図など全く関係ないというところ。
魂の音楽と呼べるものがこの世にあるとしたら、そんな魂の音楽も薄っぺらなブランド品と同じような扱いにされてしまった。
歌は世に連れ、世は歌に連れなどとずっと言われ続けて来たが、まさかこんな時代になるとはお釈迦様でも気がつかなかったであろう。

42歳のとき初めてアメリカに行った。ニューヨークに寄ったときタワーレコードに立ち寄って、日本でも買えるのにマーク・ノップラーの新譜CDを買ってきた。今では絶対にしない旅行の仕方であろう。ちなみに若かりし頃、南青山に住んでいたことがある。ツアーで明け暮れていた頃の話であるが、久しぶりに東京に帰ってきた休みの日によくレコードショップに出かけた。目的は聞いたことのないシンガーソングライターのレコード漁りであった。店主はいろいろとレコードをかけて紹介していたものだ。名もなきシンガーソングライターが未だに心の片隅に生き続けている。

先般、根津で雑魚音会のメンバーの「津軽鉄道各驛停車」のコーラスを録りにデジタルレコーダーをひっ下げて出かけた。後日、青森県の五所川原へも、今度は小学生のコーラスを録りに出かけた。アナログ時代には出来なかった芸当である。事務所で採取してきた音をミックスした。その日も東京は猛暑で暑かったが、ヘッドホンから流れ出る音の洪水に得も言われぬ感動で厚い胸が熱くなった。デジタルとアナログの融合の形の一つだろう。
世の中がどんどんデジタル化してゆく中、僕の心はやはりアナログ思考であることを確認したレコーディングではあった。

(山木康世)

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