となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

奈良ビバリーヒルズで初の撮影タイム

2024年10月28日 | カテゴリー: 山木康世

約1年ぶりの奈良、前回のお前と生きるの混乱を思い出せない。街はひたすらが頭を巡っていたのか。11月になろうとしてるのに程よい気温。本来は北風ピューピューの季節なのにいい感じの奈良。
奈良の近鉄駅前は好きだ。しっかり記憶に刻まれている駅前風景。そこに伸びているアーケード街、奈良のお土産はここでゲットだ。奈良漬は子供の頃から好きだった。
今日は撮影会の時間を設けた。アンコール最後の歌に限って撮影オーケー。さぁみなさんご用意しておいてくださいねと、しかしこちらの不備でフライングの人が数人。2曲目と事前にアナウンスしておいたがサービスで1曲プラスしてしまった。最後のGood NightGood Nightのつもりでいた。まぁ混乱もなくパチパチ、カシャカシャ満足していただけでしょうか。新たな試み、他の地区でも考えておりますので期待しててください。
配信先のお客様とともに2時間、いつもと違うパソコンソフトを使っての曲目の数々、微かな新鮮味で過ごすことが出来た。パソコンを紙の歌詞カードに変えてソロからの時代をLIVEしてきた。紙で18年デジタルで32年、本来は脳内に記憶しておくのがプロとして当たり前と言われそうだが、翻ってクラシックは未だに譜面台がないと行うことが不可能である。32年は十分クラシックだな、と言い訳をする。本当に刻むこと、保管することが不可能になりそうな年齢が近付いても居るのか。神のみぞ知る由々しき事態にならぬよう前向きに生きていこう。過去に引きずられることなく、未来に夢を見て青年の如く紀伊半島を南下する。紀宝町ミュージックカフェフォークスへ向かう。徐福の新宮も拝んで訪問する予定だ。
みなさん、お忙しい中ありがとうございました。

今回で何度目のビバリーヒルズだろう?


撮影タイム、盛り上がりました

奈良ビバリヒルズへの誘(いざな)い ~暮れゆく秋 音を楽しむ 昼下がり~

2024年10月25日 | カテゴリー: 山木康世

歳相応の音楽は何処に転がっているか。
実に50年に渡り作り続けているYAMAKINGSONGSを、この日はふんだんにギターによる弾き語り、日頃のお疲れ気味のお身体に癒やしのシャワーをたっぷりと降り注ぎ致しましょう。
感動という言葉が今の世に残されているのなら、ぜひ一枚加えさせてください。
音を楽しむ昼下がり、見上げれば古の都、奈良ビバリーヒルズではヒバリも鳴いております。
馬の後を鹿が若草山をノンビリと煎餅を食んでおります。
この日は配信もご用意しております。
短い時間ではございますが共に豊かに生きるとは何かを感じ入りたいと思う次第です。
どうぞ遊びにいらしてください。想い出に一枚74歳直後の真顔を撮らえ逃すな!

墨田区両国亭アフターバースデー御礼

2024年10月24日 | カテゴリー: 山木康世

74歳お初のLivelibraryは両国亭の高座における弾き語り。もう何度目の高座なのだろうか。初めて登壇したときの興奮と緊張を思い出す。まだ弁天様もいなかった。洋のフォークソングと和の高座がどれほどマッチングするか大変興味津々。一番の思い出は高座に登場、退場の時のおぼつかない足取りに我ながら年を隠せなくていやはやいやはや、転倒だけは避けようと思った思い出だ。見た目以上に高くて、あぐらをかいての弾き語りは古希以来のステージ、次回はこうしよう、ああしようと頭を巡らせて会場を後にしたもんだ。すぐ隣に駐車場があってまたとない絶好の駐車事情。そんな駐車場も半年ほど前から取り壊し、ただいま何やら空き地状態である。
昨夜に引き続きのお客様を初め何時ものお客様、お初のお客様如何だったでしょうか。
二日にわたるこの世に生を受けたお祝い日を皆様とご一緒に過ごすことが出来て、またひとつ良い思い出が出来たと感謝しております。こんなLIVE情景にも捨てがたい心模様がございます。
今月は紀伊半島ツアーが待っております。目玉は弁慶さんのお膝元田辺における歌「弁慶と義経」奉納でしょうか。果たしてどんな時空が待っているのでしょうか。
皆様方のつつがない穏やかな日々を願っております。
付け足しになりますが、お昼に両国駅下で所望した肉のヤマキ弁当がゴツい美味くて大満足の登壇でした。また食べよっと。

高座に胡坐でのライブは案外きついんです


弾き語りでたっぷり2時間


開演前の様子

南青山MANDALAヤマイハキカラYAMAKING

2024年10月23日 | カテゴリー: 山木康世

南青山MANDALAは東京都港区という花の都の中でも憧れの区、港区にある。港区と言うからには海が近いのであるな。東京湾は、その昔大いなる漁場であったという。江戸前寿司という言葉が残っているくらいだから東京湾で採れた魚を握る寿司なのであるな。
僕が若い頃6年間住んだ懐かしき港区である。MANDALAが出来るという話を吉祥寺の店長から聞いたとき、ほのかな予感がした。もしかしたら南青山3丁目と言えば僕が住んでいた住所と同じだ、心が人知れずときめいていたのだ。やはり的中した。
初めてここを訪れたとき、リハーサルを終えてひとりマンションを訪ねた。すでに違う建物になっていた。しかし裏道にあった小さな神社はそのままあった。母の回復祈願で何度かお参りをしたもんだ。本当はお百度参りと行きたかったが、二十度参りくらいしかしなかったなぁ。あれから40年以上も経つ。
今日は74回目のバースデーライブである。音楽生活51年目に突入、今日は僕が今あるお陰様の元気なお顔をおひとりおひとり確認したいもんだ。暗闇に向かっていた頃とは訳が違う。しっかり心に詩を本当の手作り手探り音楽をお届けする。50年支えてくださった理解ある大事なお客様なのである。LIVEのサポートをしてくれたBass木村は重要な要となっていて、北海道からわざわざビューンと飛んできてくれるには訳があるのである。おまけにMANDALA店長は札幌出身なので、これも訳があるのであるな。これをひっくるめてキズナと言うのであろうか。細いけれど強い糸でつながっているという安心にヤマイはやってこない。食べ物や飲み物だけでヤマイにはならない。やはり目に見えぬ心の持ち方次第で違ってくると確信する。出来れば嘘でもいいから穏やかで希望の持てる毎日でありたいもんだ。
大変に居心地の良い74歳スタートのLIVELIBRARY、お忙しい中誠にありがとうございました。ヤマイハキカラYAMAKING、今日は両国亭でドスコーイッと墨田区へ。

ベースのキムラケイコさんとの共演はもう15年来になる


前日の21日はスタジオで綿密なリハーサル

西新宿あんさんぶるスタジオ音は晩秋情景

2024年10月17日 | カテゴリー: 山木康世

季節は秋。秋だと思ってるのに少々体を動かしただけで汗ばむほどの暑さである。その体温を調節しているのが視床下部と呼ばれる重要な臓器である。
ここには体温・睡眠・生殖・物理代謝などの神経中枢が存在し自律神経系の中枢で生命維持には欠かせない中核とされる。とある。
一方師匠株などのややこしい家元制度は芸事や踊りなどで厳しく制限されていて、その流派を受け継ぐ重要な制度らしい。ある意味本家分家制度のようなもので室町時代に起こり江戸時代に発展したらしい。今の本家分家もその頃はなかったのか。僕も50年もっやっていれば立派な流派かもしれない。YAMAKINGSONGS。
それでも朝晩の程よい冷え込みに夏の候に感じなかった季節の巡りを感じる。
今どきは二十四節気、寒露(かんろ)というくくりのうち、七十二候、菊花開(きっかひらく)である。父親はダリアの前は菊が好きだったようで、鉢に植えられた菊の花を庭で多く見た。
ちなみに寒露の前の候は鴻雁来(こうがんきたる)で燕が南へ帰ると入れ替わりに雁が北から飛来する時季。暖かくなる春まで日本で生きるのである。渡り鳥にとっては格好の島国日本だった。
空を見上げると、ここ西新宿は超高層ビルオンパレードで、夜になると見事な現代の夜空を見せてくれる。
住宅街と高層ビル群と立体高速道路が行き交う不思議な空間にある「あんさんぶるスタジオ音」は体内から視床下部を通じ師匠株を醸し出す良い音場空間である。
すっかり夜になってしまった6時台の空を見て、ああー秋だな、それも晩秋か。もうじき74歳になる。73歳最後のLibraryだったなぁとサヨナラ燕、コンニチハ雁と夜空を見上げたがいなかった。貧乏神は体に良くない、さぁビスタを飛ばして中野へ帰ろう。

みなさま、お忙しい中ありがとうございました。

浦添市/LIVE cafe JULY(ライブカフェジュライ)でコンニチワサヨウナラ

2024年10月09日 | カテゴリー: 山木康世

50年沖縄の締めは中部都市浦添。
12〜14世紀の頃には沖縄の中心的存在の浦添はその後王朝が首里に移るまで大いに繁栄したという。第2時世界大戦の米軍の上陸で大勢の市民が亡くなったという激戦地。今では考えられない風光明媚な豊かな風景の広がる歴史的街浦添。
今日の会場は御夫婦で経営されている白が基調のライブハウスで、ギター弾き語りにはうってつけのJULYである。ご主人の生まれた月が7月でJULYである。沖縄の海風が穏やかに吹き込んできて一人が好きな人には落ち着ける良いお店である。
少し似合わないかもしれないが、スタートは「晩秋情景」弾き語り叙情歌。ますます沸騰化する地球、日本は昔の四季豊かな国ではなくなって四季が危ぶまれる熱帯国の様相が強くなっている中、昔の古き良き時代の日本における基調な歌のような感じを受けた。そして「柿の実色した水曜日」このタイトルはふきのとう秋の代表かもしれない。
昨日は読谷で今年お初のスイカを外で食べた。北部の今帰仁スイカであった。実に美味しくて読谷のそよ吹く風が心地よかった。口中に広がるとろけるような小ぶりのバナナも特筆ものである。そのときに沖縄ではあまり柿は馴染みがないかなと思った。今まで見かけた記憶がないかな。
最後の歌はもちろん「風来坊」である。この歌が醸し出した沖縄の当時を妄想すると、懐かしさの中に涙がこぼれてくる。哀愁のふきのとう。
今日の吾の歌心は一人のYAMAKINGSONGS紐解き、沖縄最後の日にふさわしい自然体で、ここに何時間でもいたいような気分だった。音響も実に自然で吾に相応しい時間を過ごすことができて幸福な夕刻だった。
また来てください。オレの高校時代はふきのとう一色でしたという大柄な男性が帰り掛けに声をかけてくださった。今度は友達と連れ立ってきますと静かに笑顔で帰っていった。
今回のお天気はまたも心配だけで終わって晴れ男健在ぶりを証明できたオータムマン底力であった。
沖縄滞在中お世話になりました皆々様、まことにありがとうございました。来年になりますが良い歌を引っ提げてアホウドリは風に吹かれてやってきたいと思っております。お元気でサヨウナラ。

お客様の中には懐かしい顔もちらほらと


本編ラストは「向こう岸」


楽屋めしはチキナー(沖縄の高菜)のおにぎり


シャコ貝の刺身で打ち上げ

うるま市ライブスポットEeは良い夜だった

2024年10月07日 | カテゴリー: 山木康世

うるま市は2005年石川市、具志川市、勝連町、与那城町の4つが合併してできた、沖縄中部東海岸に位置する街である。
沖縄に伺って30年ほど経ってできた新しい街でうるまの由来を知りたかったのだが、ご来場の地元の方々もご存じなかった。何か深い意味があってのうるまなのだろう。全国てきに平仮名の地名が増える中、やはり由来を知りたかった。
Eeには13年前の2011年初めて来ている。壁にかかった「何もいらないおまえがいれば そばにいてくれ 話がしたい」色紙サインを見て、恥ずかしいやら懐かしいやらのおまえと生きるの言葉である。
東北地方で大きな災害が起こった年である。60歳還暦の年だったのだなぁと感慨深いものを感じて、大勢のお客さんの前での2時間であった。やはり50年は短いようで長い歳月だった。白い冬、風来坊で名前を知られ顔を知られてたくさんの人達と会って別れての歳月である。正面の壁に貼られた半世紀,半生期、弁天様は母なるほほ笑みのもと今夜も良いひとときを過ごせて幸福だった。願わくば皆々様の更なるご健康とご健勝を祈るばかりだ。
親子2代にわたって結婚式で歌ったという「メロディ」小学生の甥っ子さんが耳で覚えて歌った「雪の町」叔父さんは驚いたという。ホテルベルパライソでの山木倶楽部ツアーの思い出、糸満での盛り上がりのライブ後に「感動した!ヤマモトさ~ん!」と叫ばれてずっこけた事件、そんな懐かしい思い出深い札幌からは遠い遠い異国のような沖縄の地は自分の中で特異な存在となっている。そこに住む人達の熱い思いをいつも感じていた。
デジタル時代ではあるが、目や耳や口はアナログでいたい。心のつながりはもっともっとアナログが必要だ。デジタルはあくまでも手段である。あまり過激に走ると人間味が薄れてしまう。僕が作ってきた歌たちは、そんな喜怒哀楽を思い起こす歌たちであってほしい。
また来ますと約束してEeの夜は更けていった。
みなさんまことにありがとうございました。

リハーサルも万全です


ぎっしり満席、ありがとうぎざいました


スタッフの皆様、お世話になりました

那覇市桜坂劇場は長い一日の始まりだった。

2024年10月06日 | カテゴリー: 山木康世

夜中に目を覚ました。桜坂での思いを書こうとサーフェスをバックの中から取り出した。充電をしなければ、さてと想い中に手を突っ込んで探した。えっ?ない、ない、ない。では銀のコロコロバックはと思い丑三つ時の探索が始まった。たしかこの中に入れた記憶もある。ない、ない、ない。
それから6時間ほど前の終演後の荷物整理の大捜査線が始まった。サーフェスを棚の上に置いた記憶が最期の手がかり。その後どちらかのバックに仕舞い込んだような、そうでないような。30分も途方に暮れて、最悪のことも考えた。バックアップしてある大事な歌のデータはなんとかなりそうだ。あの棚の上に、幸運なことにまだそのままにあったらであるが、映画館でもあるので、公演後他の通りかかったお客さんの目に入ってそのまま失敬などと拾われていないか、などなどいろんな妄想が頭をグルグル、酔もいっぺんに冷めてしまった。こりゃ朝まで眠れんぞ。でも疲れで4時間寝て目を覚ました。朝日の中やはりサーフェスはどこにもない。
9時半から桜坂は開いている。早くに連絡を取って安否を知りたい。長い2時間だった。電話をいれると係の人が調べて連絡をくれるという。まずまず連絡がついたという事実だけでも一安心。朝の光は希望の光である。窓の下の忙しくなり始めた国際通りを眺めながら、どうぞ神様幸運を。
そして桜坂に出かけた。あの最後の記憶の棚へ一目散走っていった。あったあった。地味な色合いの棚に溶け込んでしまいそうなサーフェスは昨日のままあった。幸運なことの成り行きに感謝、日頃の行いに感謝。みんなに感謝だった。よくぞ見ず知らずの目につかないでここにいたねぇ。よしよしと頭を撫でてやった。
そこで思った教訓を。
目立たないことは日頃探すのに戸惑うこともしばしだが、こんな時、逆に目立たないことが功を奏する。その前に日本人の道徳の一つに他人の荷物などは絶対に関与しない、もしくは拾ったら警察に届ける。困っている人の立場になって物事を考える。これが常識だった。しかし今はいろんな国の人達が訪れてそうも行かなくなった時代になった。忘れた、落とした人の責任で目に入ったものは持っていきますよ。こんな非常識なことがまかり通る時代になってしまった。
やれやれ事なきを得て、ダイアリーを書くのを忘れてしまっていた。
長い半日が朝で終わってしまったような気分で忘れてしまっていた。
非常に良好な桜坂劇場だった。永の知人たちの訪れもあってやる気や集中力も存分だった。その後の泡盛、赤魚も最高の夜だった。しかしその後に訪れる丑三つ時の大捜査線の伏線になっているとは誰も神様もご存知あるめぇの桜坂劇場興奮の結末の一日であった。
みなさまありがとうございました。

那覇の中心部にある「桜坂劇場」

沖縄市ミュージックタウン音市場ホワイエYAMAKINGSONGS

2024年10月05日 | カテゴリー: 山木康世

約1年10ヶ月ぶりの沖縄である。大雨雷警報発令中の中、初日は沖縄市。
昭和49年コザ市と美里村が合併して誕生した街。昭和49年と言えば「白い冬」デビュー、50年前の話である。生涯初めて足を踏み入れた沖縄。鮮明に昨日のことのように覚えている。
1972年沖縄は佐藤内閣の元、祈願の日本復帰の年である。佐藤栄作は74歳に亡くなっている。1964年から1972年8年間、自民党総裁を努めて、良くも悪くも今の日本の日米関係を推進、大きな飛躍の原動力となった。その頃僕は札幌で中学高校大学と多感な歳月を過ごしていた。14歳で東京オリンピック、新幹線、東名高速道路と日本は欧米並みの国力を取り戻した観のある年である。ギターを覚えてグループサウンズに日本の洋楽もどきの音楽に夢中になり大学で「ふきのとう」を結成した頃である。まさに自分の50年と符合していて面白い。地元では冬季オリンピックが行われた1972年である。
その頃沖縄は揺れに揺れ動きアメリカから独立を果たし晴れて日本国、世情は今とは考えられないニッポンだった。
沖縄市の誕生がまさに「白い冬」と同じ年だったとは意外な発見である。そして今回50年目の節目に沖縄市。これも意外な天晴れである。
雨の中、熱心なお客様に支えられてのYAMAKINGSONGS20曲の2時間は珠玉の充実の2時間。伊達には生きてはこなかった。流行歌で終わらせたくなかった自分の音楽生活。独自のシンガーソング&ライターにやっとたどり着いた。今回の公演は記念の年の公演と相成って幸福である。至福の観でいっぱいの沖縄市ミュージックタウン音市場ホワイエ。
まだ3回行われる沖縄での公演で更なる確かなものとする。みなさんありがとうございました。

集中してBOSSの歌と演奏に聴き入る沖縄のお客様


音市場のステージにも大旗が映えています


三線を弾く子供たちの絵がかわいいです

東京都国立スペースコウヨウ2024/09/26

2024年09月27日 | カテゴリー: 山木康世

確か前回、この街のマンションが完成間近で建て壊し。何でも住民が折角見えていた名峰富士の姿がマンションで隠れてしまって拝むことが出来ない。取り壊しを迫って、結局ほぼ完成のひと棟を壊すという話で世間の耳目を集めていた梅雨入り前の時季だった。マンションを見通せると落ちにはカメラをぶら下げた野次馬まで出ていた。
そして我はサーフェスを忘れて電車に乗車、気がl・ついても三鷹まで連れて行かれて戻るという失態を起こしていた。なんだかんだと1時間無駄にした。しかしこれがなければタダの人、50年の趣味道楽をすることは困難なのである。あー情けなき徒の50年よ。
そもそも渋滞状態化の中央道を避けて中央線で行ったことが事の始まり。土日祝日の日の渋滞は話にならない。よくぞこんな高速道を作ったものだ。まぁ侵入しなければ何事も起こらないだけの話だが。
今回は木曜日なので30数分で国立へ着いた。これぞ高速道路である。
すでに梅雨も終わって酷暑も過ぎて、少し風の冷たい秋の入口という国立。
SUZUKIオールドギターに弦を昨夜丑三つ時に張り替えて今日に臨んだ。素朴な良い音がしていた。早稲田通りに珍しく国産中古の店ができたと聞いたので早速伺った一昨年の話か。大将と話し込んで奥に鎮座していたSUZUKIを衝動買い。夕方受け取りに行った。今まで少し手荒く扱っていたようで各所に小さなこすり傷が出来た。しかしそれも丑三つ時にポリッシュで隠すことが出来た。1953年製と大将は言ってたが、その証はどこにも見当たらない。当時のジャズメン当たりが弾きこなしていたのだろうか。マンション一棟を建て替えするなどという粗悪な扱いは決してしないし出来ない。SUZUKIは曲を選ぶようである。
お忙しい中、ご理解のあるお客様で会場は熱かった。
暑さも少し収まって雷雲に変わって天には鱗雲がたなびく季節になった。秋分の雷乃収声かみなりこえおさむの真っ只中だ。

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