となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

何も特別な理由なんかなくても歩いて帰ることだってあるんだ。

2010年07月10日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

皆と別れたときはタクシーに乗って帰る予定だった。
それが道の向かい側から乗らなくてはいけなくて、たまたま青に間に合わなかった。雨が降りそうだったので乗って帰るつもりだったが、信号のところで夜空を見上げるとそれほどでもない。
なんだか雲が白く紺色の夜空に流れている。これは降らないな、と思った。歩いても30分で着く距離だ。今夜は滅茶苦茶酔いも回っていないので、歩くか。青になって渡ってもタクシーが来る気配はない。これで決まりだ、よし歩こう。バックを背に、ギターを肩に担いで歩き始めた。この斜めの道を突っ切って行くと5分は得をする。電信柱に「登校下校時には子供が多く歩きます。車の運転は十分気をつけて下さい」これはお願いである。甘い、甘い。お願いではなく厳重注意にして「気をつけろ」と命令しなくては、一歩間違えば生死の問題なのである。
この看板のことの重大さを分かっていないで書いた人間にムカッときながら軽い足取りで夜道を急いだ。

腹が無性に減ってきた。あれほど人には「飲んだ後のラーメンは絶対いけない。若いときならいざ知らず、もうこの年齢では我慢しなくてはならん」なんて言っておきながら、今夜はすんなりと中華料理屋に飛び込んでしまった。高菜豚肉入りラーメン。「スープはいくらうまくても全部飲んではいけない。半分ほど残して店を出ろ」なんて人には言っておいて全部、多少塩辛いスープを飲み干した。丼の底にはコショーの残りかすがこびりつき汁気がないほどまで飲み干した。まぁいつもは残すので今夜くらいは大目に見てほしい、と誰に言うともなく言い訳していた。「ごちそうさま」

早稲田通りに出た。坂道を下ってクネクネと車では絶対通らない民家の建て込む夜道を、一度も歩いたことのない道をまるで鮭が遠い海原を成長して、ある日生まれ故郷に戻ってくるように最短距離を自宅へと急いだ。
天を突き刺すように樹齢何百年であろう太い幹がそびえている。いくら町が開発されてもこの木だけは誰も倒そうとしないだろう。僕が生まれる前からこのあたりをずっと知っていて、僕がいなくなってもずっと立っているだろう木の生命力に思わず柏手を。
やがて新井薬師前駅前商店街の明かりが見えてきた。
この坂道を下ったら中野通り。札幌にはない東京の意外な坂道の多さに気がついたのはいつのことだったろう。目に付きにくい坂の町、東京。22年が経ってしまった。
赤坂グラフィティ、晴れになること間違いなし。8800歩、6.9キロを歩いた。
(山木康世)

アジサイの花

2010年07月09日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

いろんな種類のアジサイがある。
先日は山の斜面に張り付くように白い変わった形のアジサイを見た。

 アジサイの花に 雨が降っています 六月の冷たい 雨が降っています

アジサイの花の色の違いは土の持っている酸性度の違いで赤くなったり青くなったりと物の本で読んだことがある。
それでは白い花はどのような説明があるのだろう。

 君がいなくなって 一年が経ちました あの日も雨の降る 涼しい夏でした

北海道ではあまり気にも留めなかったアジサイの花。
本州では梅雨の季節、見事なアジサイに足を止めることしばし、アジサイを「紫陽花」と書く。花の色が青から赤紫へ変化するところから「七変化」とも言うらしいので、なんだか花の実態がよく分からない。

 今年も半年が 過ぎようとしています 毎年募ります 月日の速さを

夏至も過ぎたのだからもう昼の長さは長いと言ってられない。
秋分の日に夜の長さが昼の長さに追いつき追い越すのであと二ヶ月たっぷり昼を楽しもう。

 どこへ行く僕らは どこから来た旅人 答えは六月の 風に舞っていますか

ボブ・ディランはまるで俳句のような心で答えは風に吹かれているとギター一本で歴史を変えて学生だった僕の心をとらえた。
ディランの頭の中はジッとしていない。コンサートで歌う唄は、まるでアジサイの花のように七変化、聴く人を惑わし、騙す。

 アジサイの花に 雨が降っています 君を思い出す 雨が降っています

太陽の周りを半分以上も回ってきた来たんだよ。
コップに水を差して紫陽花の花を一輪、いなくなった君のことや父母のことを雨の音を聞きながら思い出している。

 もうじき雨も止む アジサイに釣られて 南の空から 夏がやって来ます

明日は久しぶりの赤坂ライブ、どんなライブになるか、ギター一本で太陽の周りを18回回ってきた。

(山木康世)

相合哀愛(アイアイアイアイ)

2010年07月08日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

どんな気分かいって 聞かれたらそうだなぁ 50代最後という言葉の響きには
多少さびしさと未練も正直残るが 大きな次のステージを目指すという感じだ
相合哀愛 四苦疾駆する 相合愛哀 アイアイアムア シックスティ

何も感傷になんて浸っていられない 若さには若さなりの良いところもあった
未熟で世間知らずで恥知らずな 苦笑いの先走りの末成(うらな)り瓢箪
相合哀愛 四苦疾駆する 相合愛哀 アイアイアムア シックスティ

道が前に続く限り前進あるのみ 若いときと同じ思想思考変わっちゃいない
いつか君がここにきたときに分かるだろう 青い空の高さと青い海の深さを
相合哀愛 四苦疾駆する 相合愛哀 アイアイアムア シックスティ

粉雪の降りしきる町を一人歩いた 明かりの消えた深夜の街角レストラン
これからどこへ行こうか誰と会おうか まだ何にも決められない行き先さえも決められない
相合哀愛 四苦疾駆する 相合愛哀 アイアイアムア シックスティ

ハローマイジャスティ ハローマイオネスティ ハローマイデザイアー ハローハローマイガッツ
政治家には何も期待してないけど 君には大いに期待する住みよい世の中を
相合哀愛 四苦疾駆する 相合愛哀 アイアイアムア シックスティ

愛に限りがないなら無償の愛を 夢に偽りがないなら永遠の夢を
人間として生きてきたこれからも生きてゆく 偉い人より寛大な優しい人になろう
相合哀愛 四苦疾駆する 相合愛哀 アイアイアムア シックスティ

父と母がもしも生きていたなら どんなに喜んだろう60歳の息子を
親子の絆は人が考えるほど 長いものではなかったしかし強いものだった
相合哀愛 四苦疾駆する 相合愛哀 アイアイアムア シックスティ

こんなそんなで36年自己流のやり方で 歩き続けてきただけ好きな道を
雨の日風の日大雪の日 やれ明日は晴れだ春だ希望だ君だ
相合哀愛 四苦疾駆する 相合愛哀 アイアイアムア シックスティ

(山木康世)

たなばたさま

2010年07月07日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

ささのはさらさら のきばにゆれる お星さまきらきら きんぎん砂子

昭和16年3月に発表された「たなばたさま」である。この年の冬にハワイ真珠湾奇襲攻撃、太平洋戦争が始まる。まさに風雲急を告げるわが国。
世の大人たちはせめて子供たちには子供らしい歌を歌って過ごして欲しいと国を挙げて歌作りに励んだ様子が目に浮かんでくる。長い中国での戦いの泥沼化でアメリカと一線を交える羽目になるかも知れぬと予感していたのではあるまいか。
アメリカから石油の輸入を止められて、やむなく戦いをして生き残りをはからなければならなかったわが国、かどうかは意見の分かれるところだろう。そのアメリカも数年後ベトナム戦争の泥沼化、長期化、終わりなき戦いへと入るのである。

北海道の七夕は8月である。浴衣を着る機会の少ない北海道の夏は本当にあっという間に終わってしまう。夏休みは待ち遠しくて、始まってしまうと指折り数えているうちに終わってしまう。いつもこのさびしい気分と同居の夏休み。
遠くの原っぱから盆踊りの音楽が聞こえてくる。昼間に準備をしている原っぱにさしかかって夜になるのを待ち望んだもんだ。年に一度の浴衣を着て、小さなロウソクに火を入れた提灯を片手に母と連れ立って原っぱに出かける。
原っぱでは近所の人たちが盆踊りの輪を作り踊っている。
♪あー北海名物 数々あれどよーハイハイ♪僕は踊るのが苦手なので遠巻きに見ている。大抵9時ころには終了、ゾロゾロと近所の人と帰り道を急ぐ。提灯の明かりがなければ足元もおぼつかないほど暗かったあのころの夜道。夜が更けるほどに鳥肌が立つほど寒さが増す。早く部屋に戻り、ストーブで暖まろう。今夜はスイカが食えるという。ワーイうれしぃーな。

浴衣の青の格子模様は遠い夏の日の心模様。日本はおろか、世界の広さも何も知らなかった幼いころ。札幌の平岸でもまだまだ藪があちこちにあった。家の回りも藪だらけで昆虫や小鳥がいっぱいいた。花火大会、学校での映画上映、親戚の家に遊びに行き海水浴をする。夏休みのスケジュールが目白押しだ。冬の支度の薪割りも待っている。
横になったらすぐに寝込んで、朝まで一度も起きることなくぐっすりと眠ることができた当たり前の幸せを改めて思い起こさせるたなばたさまよ。
(山木康世)

まぁ ここはひとつ

2010年07月06日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

うまく行かないからと言って 
人を責めたり妬んだりしないように
周りがえらいのか運が悪いのか
自分の努力が足りないのか
くよくよ考えても始まらない
まぁここはひとつ 張り切って行こう

たまには世界の中心を
自分に置いて考えてみたりしよう
泥んこのぬかるみに足を取られて
うまく歩けないときもある
そのうち雨も上がって天気に
まぁここはひとつ 我慢と行こう

言いたい奴には言わせておけ
案外奴だって一人悩んでる
金襴緞子の帯締めながら
花嫁御料はなぜ泣くのだろう
こんな風景頭に描いて
まぁここはひとつ 休んで行こう

何もそんなに青筋立てなくても
受けを狙って無理するよりも
たばこを一本控えてみろよ
酒を一杯控えてみろよ
まずは体調無理は禁物
まぁここはひとつ 歌って行こう

遠くふるさとを離れた君 
人ごみの都会をさまよう君
口を閉ざし急ぎ足の君
眉間に立てジワ寄せて君
長い人生疲れちゃだめだ
まぁここはひとつ のんびり行こう

(山木康世)

岡山青色深刻音始末記

2010年07月05日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

君のキビキビした厳しさで、人生の機微を不幸からきびすを返すが態度でキビ団子を食って大荒波を乗り切ってくれ。ーー桃太郎の遺言

桃太郎のキビ団子は黍団子なのか吉備団子なのか。黍だと黍の実から作った団子である。吉備だと岡山の吉備の名産である蒸した餅米の粉と砂糖などを練って作った団子になる。
まぁそんなことはどうでも良くて、ただ吉備という地名に車でさしかかった時、脳裏にひらめいたキビ団子→桃太郎→ブルーブルース。早速車内で改作に取りかかった。
「弁慶と義経」は岡山にていっとき華麗に「桃太郎と吉備団子」に変身した。
整いましたので紙上にてご開帳。

桃太郎と吉備団子 
 
夏の空に太陽 じいさん山に芝刈り ばあさんは近所の小川に洗濯に出かけた
川の上流から大きな桃が ドンブラコ ドンブラコと流れて来るではないか 
ばあさんは素早く桃を拾い上げた

洗濯もそっちのけ大きな 桃をかかえて 誰にも見つからないように急ぎ足で帰った 
じいさんの帰りをワクワク待った やがて帰宅したじいさん狂喜乱舞した
包丁で大きなピンクの桃を切り割いた

驚いたことに中から男の子がコンニチワ じいさんとばあさん腰を抜かして驚きだよね
子供のいない二人は 天の恵みと 男の子を桃太郎と名付けて大事に
やがて桃太郎は立派な大人へと成長した

鬼ヶ島のニュースを聞きつけた桃太郎 これから僕が鬼たちを退治に出かけてきます
途中で犬と猿とキジを家来に 島に渡ってお見事鬼を退治した
桃太郎は褒美にお土産に吉備団子を

桃太郎さん桃太郎さん お腰に付けたキビ団子 一つ私にくださいな

かくして3日間に渡る山陽ツアーは大成功の元、無事完了した。大勢関わってくださった皆様に感謝を述べる次第です。
次なる指令は10日参議院選挙前日、東京は赤坂グラフィティでの鬼退治である。
(山木康世)

松永基督教教会音始末記

2010年07月04日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

広島駅隣接のホテルで目を覚ますと強い雨が音を立てて降っていた。昼前だというのに、夕方のような暗さだ。ロビーで小降りになるのを待つ。
広島県福山市は松永町のキリスト教教会によるライブを初めて行なう。教会の建物の構造上、非常にホールの音の響きはすばらしいものがあるはずなので大いに期待する。
この教会は一年ほど前、知人の旦那さんの設計により完成した。背筋がピンとして姿勢を正してくれる建物内でライブを行うというのも、年に何度かは良いモンだ。
広島駅から、時間もあるので在来線普通列車で松永駅へ向かった。車内の冷房の効きすぎには閉口したが、起きがけの際の驟雨は幸運にも止んで、小雨の降る中、遠く山並み中腹にまで漂う雲のような霧のような眺めを見ながら電車は松永駅へ。自然に心がハミングしている。初めて向かう松永への期待ということもあるが、昨夜の余韻も大いに手伝っている。
東京の電車車両は、巡り巡ってこんなところを走っているのかもしれない。かなりくたびれた感じの電車は轟音と共に山陽道を走り抜ける。老いてますます盛ん。
自然体で36年やってきた。立場は多少違うが物事の考え方、進め方にそれほど違いのある人と一緒にやってきたのではない。共感、共有、共生やはり社会は共にあるとつくづく思う。と共にたまには神の存在を意識して、自然や天体や目に見えぬエネルギーに畏怖の念を抱くというのも悪くはない。
みなさんの協力の下で行われたライブは大成功、大盛況。牧師様、お客様、PA、スタッフの方々に改めて御礼申し上げます。またお会いしましょう。
(山木康世)

広島置時計音始末記

2010年07月03日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

何とも不思議な空間の「置時計」。
何が不思議ってかい。
現代と昔が整然と同居している今昔物語。

レースのカーテン越しの小窓から見える外には巨大な建造物が天に向かってニョキニョキと手のひらを突き出したように照明灯をかざして建っている。ここの場所自体が開発中という感じで新しいのである。これが噂の「マツダズームズームスタジアム」かとタクシーでお店に向かう途中感心していた。野球場の大きさにはどこも巨大さで大きな声が出てしまう。まぁため息も少し混じっているが。
それでその真ん前に「置時計」があったのさ。ドアを開けると壁一面にフォークギターが20本くらいはあったであろうか、吊されていた。よく見るとみんな日本のフォークギター黎明期の頃のギター連である。あぁ懐かしき1970年前後の日本フォークギター。日本の各メーカーは本家のマーチン、ギブソンに追いつけ、追い越せとヤマハを筆頭に頭をもたげ始めていた頃のギター連である。「YAMAKI」「SUZUKI」「モーリス」などなど。俺の学生時代にタイムスリップだ。見た目は本家そのもののギターもある。オーナーに許しを得て一本、一本手にしてみた。オーナー留佳氏は26歳と言うから、まだこのギター連がしのぎを削っていた頃は宇宙をエーテル状態で彷徨えし魂の頃の話である。オーナーはギターをどこで、どのような値段で手に入れたかをこと細かく説明してくれる。

分かる分かる、この情熱なんだよな、俺も君に負けんばかりの情熱家でいたよ。ギター、ギターで明け暮れた頃を思い出させてくれたギターとオーナー。きれいに吊されたギターに古い傷は多少あっても、埃や油汚れも一切なく手入れが行き届き、張ってある弦もエリクサーのピッカピッカである。そのうち君もダイエットなどという言葉を平気で使うようになるだろう。そんな時もここに吊されてあるギターのことや、ライブのことを思い出してほしい。俺だって50キロに満たなくて、太りたかった頃があったんだよ。

若さというのはまぶしいのである。光を発しているのである。町にしろ、建物にしろ、人間も同じだ。そのうち時間の魔法で徐々にくすんできて精神をも鈍らせるときがくるのだろう。「温故知新」を地でいってるようなオーナー「RUKA」。
あの頃あんなに情熱を燃やしたかのように見えたレコード会社、事務所たち。生き残りなのかもしれないが何も吉田拓郎を筆頭とした70年音楽は十把一絡げで始末するような音楽ではなかったはずだ。日本全国にいた、ここにいるようなオーナーたちが洪水のように押し寄せてきた洋楽の津波に嬌声を上げて、我も我もと自作した、いわば声の代弁なのであった。その内の一握りが売れて商売になっただけの話で、みんな売れようとして作ったものばかりではなかったはずだ。今、団塊の世代、孫がいるような昔の若人のアマチュアの声、若さの声だったのだ。

どっこい男山木は身体は幾分くすぶってきたが、精神は鈍ってはいない。十月の天晴れコンサートに向けて沸々と夜ごと内なるエネルギーが湧いてきている。広島に向かう新幹線の中で広げた日経新聞の片隅に偶然見つけたコンサート案内。全国から聞こえてくる券売状況、完売御礼も間近のようだ。みなさーん、お忙しい中ありがとー。また一歩、歩を進めることのできる生き甲斐を感じることができました。
これから在来線で福山は松永へ歩を進め飛車を取りに向かう。
(山木康世)

夏の夜には君を偲んで

2010年07月02日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

父と一回だけ寿司屋に行ったことがある。
お盆といっても夜になるとヒンヤリする北海道の夏の夜。そんなお盆に帰省した。
早来の町で精霊流しが行われるという。父と二人連れだって町の中を流れる川へ行った。大勢の人たちが手に手に自作の小舟を持って川に流すのを待っている。やがてアナウンスが入り川縁からローソクの灯された小舟が放たれる。みんなみんなの縁者たちの魂がまた一年サヨウナラと天上に帰って行く。
静かな流れに沿ってゆったりと、ゆっくりと岸部を離れてゆく小舟たち。

夏の夜には君を偲んで

夏の夜に君を偲んで みんな遠くからやって来て 
迎え火の代わりに 裏庭で花火上げて迎えた
葡萄畑に蛍が飛んだ 夏の夜空に星が流れた

君が突然いなくなって 一年過ぎた早いよね 
君の思い出話 スイカ食べながら 夜遅くまで
葡萄畑に蛍が飛んだ 夏の夜空に星が流れた

町を流れる 川に行って 小舟浮かべて見送った 
来年までさようなら ローソクの明かりきれいだったよ 
葡萄畑に蛍が飛んだ 夏の夜空に星が流れた

今から帰って父の用意する遅い夕飯を食べるには申し訳ないほど遅かったので、帰り道、一件の寿司屋に立ち寄った。生まれて初めてである。父とこうして寿司屋に入るとは、昔は考えも及ばなかった。学生時代は何かと近寄りがたく、あまり親しい感じのしない父であった。
寿司屋に入ってビールを頼む。壁のメニューを見ながら「何にする?上寿司で良いかい?」「何でも良いさ…」今夜の送り火の話をつまみに小一時間店にいた。会話らしい会話を覚えていない。一つだけ鮮明に覚えている父の言葉「俺が寿司で一番好きななのはマグロの赤身。これが一番好きだ。」父はマグロだけで満足するような人だった。おそらく寿司屋などには自ら入らなかった時代の人だったろう。今でこそ回転寿司などごまんとある時代であるが、その昔は高嶺の花で何かがないと入ることはなかった寿司屋。そして寿司といえばマグロの赤身だったような覚えもある。我が家だけかもしれないが。
いっぱい機嫌で後は寝るだけ、タクシーで実家に戻った。母が生きていた頃は母が待っていたので実家に戻ってもほんのり暖かかった。そんな暖かさもなくなって30年にもなる。母がいなくなり父一人の実家に帰ると、男特有の孤独な感じが部屋に満ちていてあまり好きではなかった。
父は冷蔵庫から瓶ビールを持ってきて「飲むか?」「ウン」
俺も座ったままでいるのも申し訳ないので、急いで立ち上がり台所からコップを二つ持ってくる。
父はもうそんなに飲めるほど若くない。すぐに真っ赤な顔で顔を伏せて居眠り始める。「もう遅いから寝るべ」父はそれでも起きていたく、久しぶりに帰ってきた息子より先に寝ようとしない。が今度は机に突っ伏してしまった。万事休す「さぁ寝よう、俺も寝るよ」
俺は二階に上がり母が使っていたベッドに横になった。物音が立たなくなり、すっかり暗くなった実家。時折深夜を走る車の音がする。さぁ明日はダリアの手伝いでもするか。

ちなみに上記の詩は「宇宙の子供へLoveSong」の原詩である。
これから3日間広島、福山、岡山といざ見参。
(山木康世)

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