となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

田端スタジオアンダンティーノ

2024年08月10日 | カテゴリー: 山木康世  

今日の懸案は、近くの駐車場問題だ。
6月いっぱいで隣接する便利な駐車場が閉鎖してしまった。何かと田端といえばこの駐車場セットで脳に刻まれていた。それが突然の閉鎖、跡地にマンションでも建つんだろうなと勝手な憶測がなされた。さよなら今までありがとうと6月のときに別れをした。
そして7月の此処でのLIVEでは駐車場は閉鎖状態だった。近所の駐車場を探したが難儀した。
そして猛暑の今回、駐車場探しに坂道を車は上って、先月使用した駐車場の空き状態を確かめるべくゆっくり進めた。「空」が幸いにも目に飛び込んできて喝采をした。
しかしであるよ、目を転じて左を見るとなんと便利な駐車場が綺麗にリニューアルされて有るではないかアンダンティーノ!
喜びの声で猛暑を忘れた。リニューアルオープン記念という1時間200円セール中とあった。ありがたや節である。
夏の札幌の朝は早い。一組のカップルが寄り添って帰宅中。酔いも手伝った男が囁いた。「ここでキスしようか」女が驚いた。「何バカなこと言ってるのさ、酔ってるの」電線で朝飯物色中のカー公がバカァーと鳴いたんだとさ。
今日の「雨に濡れて」は穴があったら入りたく初めから迷走状態、ついぞ脱出できず、お客様には迷惑千万、金返せ。
今後二度と執り行いませんと天地神明にお誓い申し上げます。
表に出ると鳴いてるはずの蝉の声は聞こえず、トンボが一匹生ぬるい夜風に遊んでおったとさ。もう秋かいQ!?

桐生デイサービスこらしょで「風に吹かれてMinstrel」

2024年08月05日 | カテゴリー: 山木康世  

「風に吹かれてMinstrel」という歌がある。
「ふきのとう」解散後、ソロになってすぐに作った歌である。
Minstrelとは吟遊詩人。中世のヨーロッパで諸国を巡り歩いて歌を作った、今で言うシンガーソング&ライター。この旅の資金源となる王様のもとへ戻って歌を披露する職業人。面白い人たちがいたものである。王様は本当は自分が旅をしたいのだが、そうもいかない身体、そこで代役を詩人に思いを託し頼む訳であるのか。ギターのご先祖様のような楽器をペンペンとかき鳴らして詩人は諸国を見て歩き歌を作って戻って来る。
日本でも琵琶法師のようなシンガーソング&ライターはいたのであるね。ただし法師は作詞はしないで過去の歴史物などを紐解きベンベンと唸っていたものか。東西で似ている職業歌人がいたのではある。
そうなれば吾も昭和、平成のMinstrelでありたいと願ってこの歌を作った。「風に吹かれて」はご存じアメリカのフォークの大明神の代表曲。初めて聞いたときはへんてこりんな歌声だな、上手いのか下手なのか。でも淡々と語る歌に引き込まれた。他にはいない世界に静かに心震え燃え惹かれていった。
大明神はノーベル文学賞にまで上り詰めた。しかしデビュー曲で代表作でもあるこの歌をおなじ歌いっぷりをしてこなかった。コンサートで耳をそばだてるのだが、片鱗すら理解するのは難しい大明神。良いのだよ、神様は人間ではないのだからと帰り道納得。
こらしょで「風に吹かれてMinstrel」の新しい試みをした。この歌のキモはサビである。ここのメロディは外せない。前半部分をアドリブで作曲した。二度と聞けないLIVEの醍醐味、何があるか解らない。ハモニカをくわえた脳みそはフル回転。最初で最期の即興メロディはこらしょの部屋の隅々に消えて行った。自分で歌っているのに不可解なメロディが脳内を駆け巡る。
Keyを間違えてウクレレを弾き始めただけの話だったのですが、ピンチをチャンスに変えた見事な50年音楽人生の結実。
こらしょ10年を猛暑の中お祝いできて幸福だった。こらしょの皆さんとそこで通常ケアを受けている皆さんがボードに作ってくれた花のようなお祝いの文字、ありがとうございました。お客様からは花もいただきました。ここには音楽療法士が出入りしているそうだ。
音楽は身体を正常に戻してくれて人に優しい心を育んでくれる。楽器のある人生は潤いのある毎日ということになる。
病は気から=ヤマキとなるとよっこらしょ。またお会いしましょう。

「こらしょ」10周年おめでとうございます


暑い中ありがとうございました


「コラショ」オーナーの藤屋さん(右から2人目)は山木倶楽部会員様です。右は音響担当の高橋さん、左はお嬢さんの明穂さん

土浦ユージンホールを一陣の風が吹きすさぶ

2024年08月04日 | カテゴリー: 山木康世  

土浦といえば「土浦航空隊」。霞ヶ浦といえば「予科練」時を遡ること80数年、我が国は戦時体制、風雲急を告げる慌ただしく物騒な時代であった。資源の乏しい国は、経済経済が高じて、つまり金が金が国の目的となって、結果戦争、もっと国土を広げようと海外へ調達に出かけそのまま住み込んでしまう。こんなことが今では誰が考えても許されないが、当時は世界が帝国覇権主義、植民地主義が堂々闊歩、ひとり歩きしていて、先ず英国、独国、仏国、蘭国などが覇権を世界に広げて、日本も仲間入り、怖い話である。そして原爆という人類が考え出した技術の粋によって終演を迎えた。しかし話はそこで終わらない。技術の粋は馬鹿げているが、頭脳明晰なる一人の天才科学者の脳内のデザインで破滅、破局の縁まで行ってしまう。なんとも愚かな構図である。世界が終わってしまっては何の意味もないのに人間はその一歩を80数年前に踏み入れてしまったのだ。そして米国と露国によって加速され三途の川の瀬戸際まで僕らは連れて行かれそうになっている。
新札が発行された。前のお札に比べて妙に軽い感じのポップなデザインのお札である。今の時代を反映している。しかし写っている人は、経済人、学校創立者、感染学者。その昔は聖徳太子が一番だった。それから福沢諭吉、そして渋沢栄一。国の考えの変遷を読み取る事ができる。やはり僕にはロマンの欠如を感じて寂しい気もする。
僕の前の社長は人生電卓であると言いきって心のなかで僕は少々反発していた。それだけじゃないだろう。もっともっと必要なのは豊かな心というものがあるだろうと。今の時代は電卓どころではなく、目に見えないネットでの金の動き。登るのも早いが落ちるのもあっという間の時代。昔は金が高じて戦争までやらかす人間なのである。クワバラクワバラ。
ユージンホールには400人のフラメンコダンス生徒が出入りしていて栄華を極めていたという。
土浦には戦時下の建物がそのまま保存されていて一般公開を有料でしている。
平家物語、徒然草が猛暑の中だだっ広い飛行場跡地の農地で風に吹かれていた。
みなさん遠路はるばる誠にありがとうございました。
今日は群馬県デイケアサービス「こらしょ」へドッコイショヨッコラヨッコイショ。

「若き血潮の予科練の…」80年前、ニッポン男児が目指した予科練は霞ヶ浦にありました。いまBOSSがニッポンの心を歌います

墨田区両国亭は非日常的日常劇場

2024年08月01日 | カテゴリー: 山木康世  

楽屋に入るなりキッチンの壁に張り紙が。
「楽屋にネズミがいます・・・・・・・」
これは近頃衝撃的な警告だ。その昔には、北国ではゴキブリよりも日常的にネズミがあちこちを徘徊していた。ネズミ駆除のために親たちは苦労していたようだ。夜中に天井を横切る足音には胸がざわついた。我が家には顔の見えない他者が住んでいる。人が寝静まった頃、食べ物のある台所付近に夜な夜な集まってくる。生き延びるのに必死だ。
翌日ネズミ捕りに掛かったまるまる太ったネズ公。親は無情にもドブに網ごと沈めて御臨終。今考えればなんとも無惨な光景を子どもたちは見ていたのだ。そして小さな生き物であるが、死というものを間近に見ていた。
今どきは猫もいなくなってネズミもいなくなったような世の中である。猫にしてみればネズミの捕り方を知らないうちに、オイラも役所の人間に捕まってしまったよ。
そんな物騒ではあるが必死に生きているネズ公の情報を垣間見た両国亭の日。しっかりゴミは持ち帰りましょう。
この日3月以来の田中くんがやってきた。卒論に山木康世を取り上げて嘘のような3月の日だった。取材も受けてあれから4ヶ月も過ぎていた。卒論も書き上げて就職も決まったと晴れ晴れの顔で両国亭に来て報告してくれた。やったね田中くん。
長いこと生きていれば面白いことにぶち当たるもんだ。予期せぬドラマは尽きることなく飽きない。
両国亭は一寸した劇場である。歌舞伎の配色の幕も用意されていてお囃子とともに2時間は始まる。時折表通りを走る車の音や救急車の音も特別ではなく日常なのである。
梅ヶ谷親方も静かに見守っている客席との距離感も弾き語りには丁度いい。高座も弾き語りのようなもの。下げや落ちのある日常は生活にハリややる気を起こさせる。猛暑の中長く生きていれば退屈や独りよがりになりがちである。
如何だっただろう、お客様に活力や朗らかさが届いただろうか。お陰様で当方は気の良い7月最後の日となりました。又お会いしましょう。猛暑に負けない体力気力で後半戦を乗り切りましょう。

弾き語り高座2時間1本勝負


「わたしの辞書に夏バテという言葉はない」


さて、あと片付け


田中氏の卒論で山木康世はいかに分析されているか

さいたま市アトリエMに行ってきた

2024年07月28日 | カテゴリー: 山木康世  

埼玉県は言わずとしれた猛暑県。なんでも東京の膨大多量な排気ガスが上空へ、そして風に乗って運ばれ下降。そこが埼玉県という話で、何も自然現象の話だけではなく人為的な高音上昇沸騰という申し訳の立たない話である。江戸時代には、今では考えられない東京湾の涼風が夏風に運ばれて内輪で快適に過ごすことが出来たという話である。しかし今の時代、それだけでは済まされず地球的な規模での列島熱帯化ということも言えそうだ。そのまんま日本列島香港化ということが現実なのかもしれない。小樽の手宮洞窟の古代の岩石に痕跡が残っているという。地球磁場が逆転した痕跡が残っているという話。大昔には小樽は香港のような自然だったという遺産。だとしたら人間の小賢しい手には終えない話であるね。
アトリエMはお気に入りの東京から22キロという距離にある。羽田空港などよりよほど近い感じで1時間もかからないで着いてしまう。5回目の訪問だろうか、今年に入って2回目である。御夫婦揃ってお出迎えされなんとも恐縮である。旦那さんは旗を吊るしてくださり、CD購入までされて下さった。築3年というから程よい時期に差し掛かって、脂も乗り切っている会場である。クラシックの気品格調高いきれいな会場はいつ伺っても清々しく、初心を思い起こさせてくれる。音楽の持っている青年の心は年を変に取らさせない。いつまでも若々しい心は世海を老けさせない。新鮮であることはなかなか難しいが、手軽な方法として良質な音楽を生活に取り入れることである。この良質は難しいが、空気や水と同じように大事である。
自ら発信者でもある僕はお客さんの心に寄り添おうといつも思っている。しかしそれを出来る出来ないのも会場次第である。会場はものは言わないが発信する人の身体がビビッと反応する。温度、湿度、防音、快適さは目には見えにくい。
外に出ると車がひっきりなしに行き来する道路である。そんなことを感じさせない異空間が広がりいっとき夢心地。
今回もおもてなしの心を受けて、まことに良い夕刻前のひとときでした。
埼玉県2日続きの楽日、心が何かを取り戻した。こんな日の連続で毎日を過ごしていったら、きっと年を忘れた偏屈親父で過ごして行くのでしょう。
みなさんお暑い中誠にありがとうございました。

セットリストは前日とほぼ入れ替えです


お客様の拍手にオリンピックに負けない熱の熱さを感じました

埼玉県三芳町TYフェアリーリングには天使が住んでいるか

2024年07月28日 | カテゴリー: 山木康世  

独自のポスターをお店が制作されてお迎えして下さった。フォーク界のレジェンド。ありがたい話である。そんな評価を下さって頭の下がる思い。あまり周りに左右されず好きに生きてきていつの間にか50年経っていた、というのが正直な話である。好きなことをやっていたら時間はあっという間に過ぎて気がつきゃホームでごろ寝である。時間は相対的なもので、一定はしていない。その人の心次第で長くも短くも感じる。
楽屋は息子さんの音楽部屋で、毎日趣味の時間を音楽に費やしていることが手に取るように分かる部屋であった。もしかしたら仕事なのかもしれない。メーカーと共同開発したスマホ、タブレットを挟んで譜面台とする発送は目からウロコであった。今の今まで挟むということに考えがいかなかった。これでいいのだな。何も置くという考えに縛られることはないのだ。さっそく考えてみようと思った。紙ではできないのだ。めくるという作業には不可能なのである。何かに置かなくてはならないのだ。しかしデジタル画面では機械がめくってくれるので挟んで固定できれば済む問題なのだ。
息子さんのお母さんは前回入院なさっていて残念がっていたが今回は無事手術も成功、お聴きに足を運んで下さった。
86年生きてきて初めての感動でした。LIVE開演当初からドラマ性を感じ、あっという間の2時間、本当に初めてのことでした。という感想を直に聞いて、あーわかってくださるお人がいてくださり幸福の極みでした、という正直な感想だった。CDと手鏡を購入くださりありがとうございました。ますますご健康で僕の世界を生活の中に取り入れてくださることを切に祈ります。
会場となる建物デザインは重要である。ほとんどが面白みのないビルが普通なのだが、ここは違っている。夢のあるデザインなのである。窓枠、屋根、壁などをどう作るか。個性の出るところであり、手間暇、経済面でも違ってくる。しかしそこに人が住んで、お迎えもする。一軒家ならではの主人の顔を見せることも出来る家という生きてる人間の容れ物なのだ。
高層マンションには出来得ない顔を持った建物の意外な重要性に気づかない人が多い気がする。特に大都市では利便性、合理性が過ぎる感が否めない。限られた時間を如何に過ごすかは住む人の問題である。良い顔の住まいに願わくば住みたいものだ。もう遅いか。

照明もオーナーに整えていただきました


オーナーの川上さん(右)とライブ初参加のお母さま(左)


ホワイトボードに大きな蝉が止まっていました

新宿永谷ホール御礼

2024年07月23日 | カテゴリー: 山木康世  

前日の花火大会中止を促した雷様たちは夜中に姿を消して、この日の晴れの猛暑、10年に1度の暑さと言うが、大したことのない暑さ。例年だと6月頃に季節の変わり目として八王子方面から猛烈な風と雨の訪問者。それで何年も季節の到来を知ったもんだ。巷に溢れる気象予報士はワイドショーをすみかとして御活躍中。一番の予報士はweatherニュースアプリが今のところ最強予報士だ。
新宿は東京で一番の街だ。江戸時代の昔には宿場町として栄えて、飯盛り女たちが大勢旅人の労を労っていたという。渋谷の街はいつからどうしてああもごちゃ混ぜのビルに囲まれてしまったのか。上へ下への前から後ろから、迷い人には地獄である。道玄坂には雨が降っているか。
西武電車の始点なのか終点なのかぺぺは相も変わらずスリムな姿でコンニチハ。
その西武電車のすぐ横に永谷ホールはある。格好の小ホールの体をなしていて非常に使いやすく演奏、歌唱に集中できて良い会場である。学校の体育館を思い起こす。それも高校や中学ではない、小さな山の町の小学校の体育館である。
本日はつつがなく猛暑の中、瓦版花鰹127号の発送の運びとなっている、25日発行日に間に合うよう、全力であなたの元へ赤いポストへ投函。
猛暑にめげず夏を乗りきろう。今年のホールライブを成功させるぞ。
またお会いしましょう。

新宿の喧騒と猛暑を忘れる小ホール


次回の新宿歌舞伎町ライブは8月22日です

大田区蒲田における音楽人生劇場「神楽」

2024年07月21日 | カテゴリー: 山木康世  

「神楽」かぐらではなくこうらく。同じような名前の落語家の笑顔が浮かんでくる。植田画伯のアトリエが開放されていて、今は亡き画伯の、往時の仕事ぶりがうかがえる。若き日にパリで学んだようで、当時の周囲の知人らしき人との絵画も見ることができる。環状7号線、通称環七沿いにお住まいはあって、当時の風景も写真で見られる。画伯は書きかけのスケッチノートも残していて、ページを繰ることもできる。消ゴムで消そうと思えば消せる数点のスケッチ。何をか思わん心の素描。時代と共に人の心や価値観も変わり勝ちであるが、絵や音楽は変わらず時代の一風情や風景を残すことができる。時代のスクショとでも読んでも良い。2回目の訪問である。
かぐらではなくこうらくと詠んだアトリエから画伯の心の一点を読み解いてみる。画伯の絵の神様たちの楽しむアトリエ。こう読み解くと楽しく賑やかなアトリエが見えてくる。時空を越えて何か一筋に一生を、半生をかけることができるほど人間はバカで退屈な動物なのであるな。それを可能にする絵や音楽は魔法、中毒性のものなのだ。
帰り道東の夜空がピカッと光り、今後の天気を占う、足立の花火の開始を告げるかのような雷鳴の合図。花火は中止となって河川敷に何時間も前から集まった人たちの希望を裏切った。まさかの天の轟き。深夜には豪雨となり近所の川の危険水域を越えて避難勧告騒ぎ。大事には至らなかったが10年に一度の猛暑の舞台裏を覗き見た感じである。梅雨明けの号砲ラッパの雄叫び。
そう言えば夕刻の劇場で「花火」を歌った。飽きない歌であり、50年以上も前の札幌は平岸の東の6畳間の朝を思い出す。50年以上も前から我が脳みそに居座り続けている。
それでも太陽は東から出て西に沈む。

絵画に囲まれたステージは心も解き放たれる


飾られる絵画は時々入れ替えられている模様


ライブ前にはじっくり絵画鑑賞を


兵馬俑もライブに参加


お疲れさまでした! ライブ終了

市川市サクラコートホールは畳の間

2024年07月15日 | カテゴリー: 山木康世  

翌日高速道を市川市までひとっとび。52分と出ていたが早すぎると思ったら、やはり迷ったことや土曜と言うことでそうは問屋が卸さなかった。
いつもの中野からの下道は江戸川を越えたら千葉県入りのすぐの街という頭の構図はシンプルで分かりやすかったのだが、神奈川からの一見高速道ですぐという感じは崩された。それでも2時間後には到着。11キロ、往復22キロの余計はいらなかった。
昨日の石造りの伝統建物とは打って変わって畳の間はやはり日本人の拠り所である。
今日はマイク関連は入念にチェック、二度と昨日のようなことはない。
以前父の関係で市川の街に来たことがあり、ついでに横浜の親戚を訪ねた。確か海ほたるを渡っての、たった一回きりのドライブだった。

落ち着いた1軒家の空間でゆったりしたライブ

横浜旧英国領事館御礼

2024年07月15日 | カテゴリー: 山木康世  

1937年建設というから思っていたほど旧くはない。
この年に日中戦争が勃発し、1942年に日本はイギリスとアメリカに宣戦布告、建物は日本の監視下に置かれた。今では考えられない国際情勢、日本もずいぶんと元気であるが、このような戦争による繁栄はいただけない。
富国強兵、産めよ増やせよ。狭い島国の資源の調達、そして領土までぶんどってしまう。それが許された帝国主義、植民地主義などは結局、兵器の発達による奢りが海を渡らせて一時的に領土にしてしまう。そんなこと許されるはずがない。が当時は許された。
この建物におけるLiveは何度になるのだろう。いつ訪問しても落ち着きのある風情にしばし今を忘れてしまう。僕にはこのころの洋風建築は伝統を感じて、当時の人々が窓のカーテンの向こうから庭の手入れの手を休めてハローと語りかけてくる感じがする。ニョキニョキと天に向かって見上げるほどの建物には建築会社の技術の粋と威圧だけで何も感じない。そこに住む人間のココロ不在のような感じもする。どうしてそれほど高層にしのぎを削るのかよく分からない。
横浜の道路事情は良さそうで悪い。案内がよそ者には不親切である。もっとも最新のナビを入れておけば問題はないのかもしれない。何度も迷うヨコハマの高速道路。
そんなわけで迷ってたどり着いた旧英国領事館、やっと着いた安ど感をこの建物は与えてくれて、重たい楽屋のドアを左右に明けてお客様の前でコンニチワ。
ひとつ心残りは、ギターのマイクが番っていなかったことである。申し訳なかったです。
今日はふきのとう解散時舞台監督だった藤丸氏の訪問があって心躍っていた日でもあった。

古い洋館に響くアコースティックサウンドが心地よい


「雨は止むかな」。リハーサルで


藤丸さん(左)、城生さん、ありがとうございました

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