BAKARASHI
2010年12月20日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
■まるで組合の旗振り交渉の図。それが3万人、5万人だというから恐るべし。何ともナチスの大集会のような構図だ。何がってかい?そうさ、近頃の巷で流行っているコンサートだというから聞いて驚き、桃の木、山椒の木だ。
■サッカーの試合でもサポーターは大きな旗を振りかざし声援を送る。確かに分からないわけではないが、応援団は最上段に陣取って、大風にも耐えて試合中はためいていたものだ、野球の試合では。
■嵐とAKBがオリコンチャートシングル10位を独占。これは異常事態。これにエグザイル辺りがくれば非常事態、戒厳令である。音楽の瑞々しさや、もの悲しさの一欠片も無くなってしまった感に見える昨今の音楽事情。
■嵐は171億円をはじいたそうだ。何ともうらやましい、恨めしい数字である。いつからか集団による音楽が体勢を占めてしまった。まぁ人のやることなのでそれぞれである。しかしそれに群がる若人(おそらくそうであろう、中にはそうでないお方もおられるか)のお祭り気分と、我が日本の景気低迷、パワーダウンを思うとき何かしら白けた風が吹くのである。
■ARASHIとAKBを分解、合成してみた。BAKARASHI、以上ギブアップ状態の師走、日本の念仏踊りコンサートを評してみた。
山木康世
「湯冷めして風邪引くんじゃないよ」
2010年12月17日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
そうだった、そうだった。
真冬の銭湯からの夜道、頭上には宝石箱をひっくり返したような星屑がひしめき合って光っていた。光っていたと言うより、夜空は白かった。というわけで天の川なんてわかるはずもない。どこが川でどこが河原でどこが草むらかなんて境がない。
体からは温もりの余韻が蒸気となってほとばしっている。髪の毛と言えばまるで鶏のトサカか剣山を乗っけたような感じでカチンカチンにとんがっている、風呂屋を出て、ものの数秒でこの始末、手にしたタオルを振り回す。どうですか、忍者の如く夜道を忍び足で、手には白い刀が握られているではないか。いつの間に、さっきまで体をゴシゴシ洗っていた、あの白いタオルが変身している。キャッキャッ言いながらチャンバラごっこで帰ってくる。
果たして気温は何度だったのだろう?寒いことは知ってはいたが、冷凍庫の中にスッポリとかのたとえを知らなかった。冷蔵庫なんて夢の夢のまた夢。
それにしても昔の母親たちは冬の間はいいとして、夏の時期をよく冷蔵庫なしで過ごしたもんだ。こまめにこまめに市場に買いに行ってたんだろうな。家族分、キッチリと剰らないようにやりくりしていたんだろうな、えらーい!洗濯機だってないから、朝から家族分の汚れ物を半日かけてお洗濯、洗ってゆすいで絞って干して、えらーい!
母の手も体に似合わず大きな頑丈な手をしていたのを思い出す。
まさに家族を守り養い育てた愛情いっぱいのグローブだ。何でも受け止め、お茶の子さいさい、目の前で魔法の如く問題解決。かぁちゃーん会いたいよ、と言ってみたくなった。
明かりのともった窓が見えてくる。玄関を開けたら常夏の世界が待っている、と言いたいところだが、アカギレやシモヤケがすぐにできるほどの暖かさしかなかった昔の室温。母はタオルで待ってましたとばかりにゴシゴシ、トサカを人間の髪の毛に戻してしまう。伝家の宝刀もすっかりしなびて石塚商店御用達と相成る。
「湯冷めして風邪引くんじゃないよ」冬の星座の向こうから母の声が聞こえてくる。
山木康世
かっち、聴いてるか
2010年11月14日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
「みなさん、見てください、あの雄姿を、地元の方は見飽きてるかもしれませんが、遠く内地よりお越しの皆さん、コンサートは一時中断、写真に納めてください」
旧体育館の会場からガラス窓の外を見たら、見事な羊蹄の雪をかぶった山頂が西に傾き始めた太陽の光を浴びて真っ白く輝いていた。見事としか言いようがない。名人の絵の数万倍心を打たれた。陽の当たる角度の具合が丁度良いのか実に立体的である。山頂より下方に伸びた、幾筋の山ヒダが陰になり、日向になり一幅の絵画である。切り取って持ち帰りたくなるほど、あの瞬間の山と光の表現力は芸術であった。陽は時間を追ってすぐに西に落ちて行き、見る間に山の表情を変えて行く。窓辺に駆け寄ってニコン、カシオ、フジを両手に山に向けてシャッターを押し続けている。
かっちは毎日飽きるほど見ていたであろう羊蹄山。あの日、重機とトラックに挟まれて粉々になったかっちの人生。棺の顔は作られた人形さんのようであったと聞いた。身体は包帯でグルグル巻き。何も悪いことしてこなかったかっちがなぜにあのような死を選ばなくてはいけなかったのか。可哀想にとしか言いようがない。かっちが生きていたら、また違った故郷巡礼になったのに、悔しい。おまえはいつものように薄ら笑いを浮かべて、妙に人なつっこく、決して俺には反抗的な言葉を吐かなかった。「山木さん、また喜茂別でコンサートやりましょうよ」これがおまえの最後の言葉か、まだまだ若かったのに、まだまだいろんな夢を見て暖かい冬を迎えられたのに。
かっち、聴いてるか、歌いに来てるぞ。羊蹄山だってこんなに歓迎してくれたぞ。
そしてコンサート会場は「弁慶と義経」が終わり、照明が効くほどの薄暗さになり「嶺上開花」最後の熱演、みなさんとお別れだ。3番のさびの繰り返しに来て、突然場内の電源が落ちて、暗くなり、アンプはダウン。一瞬のうちに生の歌声とギターになった。この音量の違いに異次元に迷い込んだような錯覚を覚えた。しかし異次元ではなく、こちらの生の方が我らの生きている次元であった。場内から力強い合唱が輪になって、こだまのように聞こえてきた。最後の最後に電源は復活、見事な演出。もしかしたら、かっち、おまえの仕業だな。
故郷巡礼、本当の意味で自分のバックボーンを育んでくれた羊蹄山山麓の11月に乾杯である。
2時間ほどで札幌に舞い戻ってきた。あの頃の札幌は、遠い山の向こうの知らない町、僕は父さんの肩におんぶされて降り注ぐ頭上の満点の星々を見上げていた。まさか六十歳になるころにここでコンサートをするなんてだーれも知らなかった。いつもいつも未知の妙薬で味付けされた毎日の連続で僕の心は休む暇がない。かっちが「お先に失礼します」と言って、先に休んでしまったことが未だ信じられない。
(山木康世)
リハーサル
2010年11月12日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
いよいよ本日となりました札幌記念コンサート。
前夜は熱いリハーサルが行われました。
明日は晴れそうです。皆様のお越しをお待ちしております。
Terry’s Casual 山木康世シグネーチャーモデルお披露目
2010年11月08日 | カテゴリー: スタッフ・ダイアリー, ミュージック・コラム
Terry’s Casual 山木康世シグネーチャーモデルのお披露目ライブとなった松本、三島ライブも無事に終了いたしました。
写真は三島の「アフタービート」でのワンショットです。
テリーズテリー物語
2010年11月05日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
2010年7月某日
テリーズテリーが佳境に入っている。外観デザインはすでに確認済みだったが、細かいデザインに関して、昨夜綿密な打ち合わせを行った。山木倶楽部マークの大きさと入れる位置の確認。バックの板に書き入れるダリア「ヴァイオレット・キミ」を2輪、右下に入れることで合意した。かなり好い感じの山木モデルが完成しようとしている。世界に一つしかないデザイン、音のギターが今まさに産声を上げようとしている。無上の喜びである。製作者の中本氏は「すぐに好い音が出るとも何とも言えない。」山木「大丈夫ですよ、僕が当日音を出してみます。」悪いはずがない。中本氏のキャリアと性格と僕のキャリアと性格で、良い音が出ないはずがない。
音は確かにギター本体から出るのであるが、弾き手の如何によって変幻自在する。デザインと外観と昨夜の打ち合わせを見る限り、入魂の音が今にもサウンドホールから鳴り響いてくるような錯覚を覚えた。
60歳還暦記念モデルは終生のギターとなろう。このギターとともに、新たなスタートが切れる幸せ感でいっぱいである。お初のご披露は10月23日東京日経ホールになる予定である。ギブソンB-25は隠居の身というところだろうか。この18年本当に支えてくれ大いに感謝している。今まではB-25とともにあったと言っても言い過ぎではない。90年原宿竹下通りを歩いていて偶然入った楽器屋で見つけたギブソン。1964年のころのモデルだと思う。64年と言えば僕が中学生のころにアメリカで制作されたギターの一本が巡り巡って、日本全国を一緒に旅したわけである。前の持ち主が一人とは限らない。しかし90年から20年はアジアの国、日本の山木康世という音楽人にもらわれたのである。
テリーズテリー山木モデルは、今まさに60歳からの旅を始めようとしている。後ろ板には父が丹精込めて60歳退職から作り始めた山木ダリアの傑作「ヴァイオレット・キミ」が控えて一緒に旅をする。母が亡くなった年の父の新作を、僕がこれから引き継ぎ歌ってゆく。歌い弾くステージの興味も尽きないが、これからどんな歌をこのギターは僕にインスピレーションしてくれるだろうか。心のこもった歌を生きてる限り作って行こうと思っている。
我が子の誕生を今か今かと病院の待合室で待っている感じである。
フォークギターが全世界に何万本あるか知らないが、それぞれに誕生の瞬間があり、誰に弾かれて何年で終わったか、はたまた未だ現役でバリバリ。それぞれにドラマがあるはずだ。10月23日は一本のギターのドラマの初まりである。
2010年10月23日
ついに念願のギターが楽屋に運ばれてきた。見事な美しさ、手に取るのも惜しいほどの輝きを見せている。関係医師3人に付き添われ大事に運ばれてきた。ややグレイがかった頑丈、かつ柔らかいケースを開く。オギャー!丁寧に、大事に首の骨でも折れてはかなわん。しかしこの子供はしっかり首も据わって、どうぞと誘いの手をさしのべてくれた。
チャリーン、チャッチャ、ジャーン、キューン、ピーン…
人前で弾くことに慣れているのに、なぜかこういう場面ではいつも何を弾いたらいいのか躊躇してしまう美原育ちが顔をのぞかせる。
良い、良い、良いですよ、早速ステージで音を出してみましょう!!
かくして花の還暦ステージで見事、大役を果たして船出の一歩となった。
大勢の人がこのギターに魅了されたようで、後日反響が多くあった。うれしい限りである。我が人生における本当の意味での船出をこのギターが飾ってくれた。これからの航海に後悔はなし、有るのは有終の美あるのみ。
年輪を重ねることの大事さと同時に、着古した衣服の整理も大事とつらつら感じ入り今日この頃である。
2010年11月4日
還暦ステージから2週間ほど経ったこの日、完全に我がギターとなった。実はあの日、ステージで披露した後、もう一度最後の点検ということで引き取られて行った我が子。
中野通りに一台の黒塗りのバンが止まっている。中から見慣れた釧路出身のYさんが待望のグレイのケースを小脇に抱えて降りてきた。最高の秋晴れの下、桜の木は紅葉の準備中。そんなさなか5分ほどの経緯で我が手に戻ってきた山木モデル。
事務所で飽きずに眺めては弾いて、写真を撮って、弦を張り替えて、あー高校生のころのときめきと何も変わっていない。モノのあふれかえる時代、本当に両手を挙げてバンザーイと言えるモノは少ない。
さぁ土曜日からの人生行路、強力な我がソルジャーがコンディションを整えている。後は我が身のコンディションとお天気のコンディション。
松本、三島と来られる皆様、もしもギターにも大いに興味がございましたらじっくりと拝見ください。ざっくりと拝聴ください。質問等ございましたら、遠慮なさらずになんなりとお尋ねください。
あなた様の今後の時間を小生と同じモデルを所有なさって人生の楽しみを共有してみませんか?
何はともあれテリー中本氏の真骨頂、みなさん、どうぞご期待ください!!
(山木康世)
還暦天晴音始末記
2010年10月25日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
日曜日、都に降る雨は いとしめやかに降りました
土曜日の余韻を押しとどめるように降りました
一日は一日で同じ時間が巡るだけ
始まってしまえば2時間は2時間でしかない
南から北から磁石のSとNが引き合うように
六百名のエネルギーが中央に集まった
36年のキャリアと六十歳の初心が入り交じった
得も言われぬ不思議な時間の2時間は
まさにサタデイナイトフィーバー
あの夏の日、あの冬の日、あの時、あの場所、あの年齢のそれぞれの思い出の一コマが、シャッターを押した写真の映像のように脳の片隅を横切っている。
僕も思っていた。そうだよな、この歌を歌ったときの一コマはあーだった、こーだった。六十歳の決別。
「弁慶と義経」で六十歳の始まり。
還暦という言葉が現実味を帯びて我が身に降りかかったとき、自分はどのように世間に振る舞うのが自然体なのだろうと真剣に考えた。どのように過ごしたら自分流の還暦なのだろうと。
36年かかってたどり着いた自分の評価が下された。全国の理解者によって下された。
まさに天晴であった。
天気から時間からすべての宇宙の法則は一糸乱れぬ整然さで10月23日過ぎていった。
みんなの笑いと涙のエネルギーは飾り気がまったくなく、僕の心を真っ直ぐに突き刺した。
決して営業などと言う安っぽい還暦祝いではなかった。人間と人間同士の素直なお祝いの一日だった。いろんなうれしさを過ごしてきたが、格別な特上のうれしさがこの日に待っていたとは知らなかった。生きていることが無上の喜びとなった。
どんなお礼の言葉を尽くしても尽くしきれない。
一つだけ言えることがある。これからも良い歌を、特に良い言葉の歌を作り出すことが一番のお礼ではないだろうか。
そんなことを考えながら、中野通を横切った土曜日コンサートの朝。
歩道橋の下から突然、クリクリ目玉の小学生男子が見上げながら
「スミマセン、今日は何日ですか?」
「10月23日だよ」
「ありがとうございました」
あの少年は誰だったのだろう。学校が休みなことをうっかり忘れて登校してきたのだろうか。
「おじさんは今日コンサートなんだよ」って声を出さないでバイバイした。
日曜日の雨は涙雨だったのだろうか。
雲の上をフワフワと一日彷徨っていたような「この国に生まれて60年」の土曜日、どんな細胞が死んで生まれ変わったのだろう。
すぐに72号会報発行、新潟、前橋とライブが待っている。休んでいる暇はない。いつもと同じように、さぁ4階の階段をトントンと小気味よく下りて、月曜の朝を歩いて行こう。
「スミマセン、今日は何日ですか?」
(山木康世)
天上に咲く花何の花
2010年10月22日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
天上に咲く花何の花
大小無数の花有れど
悠久不変の調べのみ
我大地で仰ぎ見る
今宵流れる流星は
何万マイルの巡航か
暗黒世界をあてもなく
溶けて流れる運命か
雲上に便りあり
風中に便りあり
海上に便りあり
友遠方より来る
本卦還りの還暦か
再出立の還暦か
身体何の変化なし
精神多少変化あり
たかが歌されど歌
たかがギターされどギター
口を突いて出る言葉
水に流れる訳じゃなし
我の思いの何%
彼の思いの何%
暗闇ムササビ コウモリに似て
ホールで交差火花を散らす
只願うはひとつ
平安なひとときを
明日への希望エネルギー
天上に咲く花何の花
大勢の皆様
六十歳のお祝いのお言葉
誠に有り難く頂戴致しました
新たな心境の変化を自ら期待しつつ
生涯最高の演奏会を
自身のはなむけと致します
果たしてどのように歌達は花開くでしょうか
お待ち申し上げております
山木康世 まさに六十歳の午後
仙台繻子人形音始末記
2010年10月14日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
なんと知る人ぞ知るエイモス・ギャレットとジェフ・マルダーが三日前に来店、演奏をしていったという。東京からの大渋滞で8時間かけて開演時間寸前に到着、音合わせはお店のスタッフ連が確認しておいて、彼らは着くやいなやライブを始めたそうである。その日の僕の山形行きの東北道はまずまずの流れで5時間半で着いていた。高速道は一つ事故が起きて時間がわずかずれただけで、結果が大幅に変わることが多々ある。そんなとき幸運と不運の分かれ目を感じたりする。
エイモス・ギャレットとジェフ・マルダーは、11日は釧路湿原のペンションでのライブだという。あの肩の張らないジャンルにとらわれない彼らの姿に魅了されてよく聴いた30代のころを思い出す。その頃のジェフの奥さんはマリア・マルダーであった。彼らは68歳になっているという。
50代最後のライブを仙台「サテンドール」で開くことができて幸運であった。どこぞの訳の分からないスタッフや、オーナーが一夜の音楽界を開くのではない。そこには脈々と流れる経営者の音楽魂が川の如くたゆまなく流れてなくてはならない。
多くは語らなくて良い、愛想だってそこそこでいい。何も音楽人が愛想良く、お客さんの良いなりになるなんて話も聞いたことがない。世間並みの態度で良いわけだ。それよりもたちの悪いのは、いかにもいい人面して、臆面もなく今夜の主役の名前を間違えて、チケットまで販売、その上顔を合わせても何も釈明もないという御仁。そんなお方とは二度と会を開くことはないだろう。50代最後の人間を捕まえて「それはないでしょう」というところである。
アメリカのカントリーハウスにフラリと立ち寄った感じの、年季の入ったサテンドールはカントリーフォーク、まさにそのものの姿である。飾らず、素朴で訥々(とつとつ)と語りかけてくる秋の夜長の夕べにもってこいの宴(うたげ)会場である。宴会場(えんかいじょう)ではない。
僕はこの夜UFOの大編隊を目撃するのであるが、その件はまたの機会に書こう。3回ほど定期的にシグナルでも送るかのように点滅してくる光に、何とも言えぬ神秘さと高貴さを感じてしまった。
50代最後のみちのくの旅人を癒し、かつもうじき迎える60歳からの指針を暗示、祝してくれているようなシグナルだった。ガッチリ受け取った也。あのようにはっきりと頭上で停止して信号を送ってくれると、夜空の星の瞬きとは違った現実をいたく感じて、神の存在を改めて意識してしまった。
僕らは誰かに見られて暮らしている。悪事は遠からず裁かれる運命にある。「好事門を出でず」という言葉がある。良い行いや評判は、とかく世間につたわりにくく、逆に悪事は千里を行くが如くたちまちお茶の間に広く伝わる。汝、惑わされる事なかれ。
この夜、集まってくださった皆々様の将来に幸運が訪れることを願ってやみません。
(山木康世)
郡山民謡歌曲酒場6575
2010年10月11日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
山形河川敷での芋煮会を終えて、一路山形道、東北道を南下、郡山を目指した。日曜日の1000円と言うことも手伝って、高速道は東名高速並みの混雑ぶりである。こんな東北道にお目にかかったことはない。遠くに気高き蔵王が望める。
初めての芋煮会参加、想像していたよりも遙かに規模が大きく、料理の多彩さに目を見張った。芋煮の鍋を囲んで質素な会は長年抱いていた妄想に過ぎなかった。海の幸、山の幸をふんだんにごちそうになり最後は、その場でついて納豆で絡めた餅で締めとした。今夜のライブが待っているので、お先に失礼したという次第だ。川にかかった長い大橋を渡り、河川敷を見下ろすと立ち上る煙は見えど、さっきまでの賑やかさは聞こえてこなくなり、少し後ろ髪を引かれる思いだった。
フォーク酒場6575はギター、ドラムス、ベース、アンプなどがきれいに店の隅に片付けられていて、普段からの行き届いた運営の整頓さが伺えて何よりだった。各地いろんな会場に出入りするので、最初にお店に足を踏み入れた時の勘は、普通の人よりも数倍敏感であろう。これでやる気がずいぶんと変わってくる。今日は○だ。
50代最後のライブ、残すところ2本である。
ホテルで午後8時近くまで待機していた。70年代往年のアイドル達の今をテレビで見た。ふきのとうも74年デビューであるがために、当時のブラウン管を賑わせていたアイドル達の今は非常に興味があった。しかし見ていて、ある種悲哀を感じてしまった。みんな50代に入っている。が歌う歌は三十数年前のヒット曲。おもしろおかしいが、全然こちらに届いてこない。レコード会社も事務所もやりっぱなし、稼いだらポイと使い捨て。それに耐えて、お茶の間へ顔を出す根性に脱帽した。偉いモンだ。デジタル画面ゆえ、シワの一つ一つ、シミの一つ一つが鮮明である。病気を抱え、克服したアイドルも大勢いる。
どうして彼ら、彼女たちは年齢の重み、深みを感じさせてくれないのだろう。顔や頭はかなりくたびれているが、着る服だけは当時と同じだ。このギャップが悲哀さを感じさせるのか。どうも歌舞伎町の末路が見え隠れしていただけなかった。歌には魂が有るはずである。有るべきである。カラオケで歌って、やんやの喝采を浴びるだけの華やかな、見栄えの良い歌だけが歌ではない。もっともっと心の奥底から響いてくる歌が有るはずだ。それを歌えるようになるには年輪が必要だ。年輪のない中身の空っぽな木は、生きているように見えるが、枯れ木である。
開演時間が迫ってきた。ホテルの電気を消して会場へ向かった。
彼らの映像、音像の余韻が頭を巡っている。良い感じで彼らは僕を後押ししてくれた。背中をポンとたたいてくれた。
「僕らは心の歌を歌いたいが、誰も作ってくれない。しかし僕らにはヒット曲がある。それだけで十分なのです。作って歌える人に是非、心の歌を歌ってお客さんを魅了してください」
生涯で3本の指に入るライブだった。残すところ仙台サテンドール、今夜は誰が何が背中をポンと押してくれるか楽しみである。ちなみに今日も晴れである。
6575の由来は1965年から75年までのフォーク全盛を象徴しているとオーナーは語ってくれた。何気ないところに経営者の精神を見せている。ちなみにお名前は粋成(いきなり)さんとおっしゃった。本名ではないだろう。まさに粋成りである。
(山木康世)