となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

Terry’s Casual 山木康世シグネーチャーモデルお披露目

2010年11月08日 | カテゴリー: スタッフ・ダイアリー, ミュージック・コラム

Terry’s Casual 山木康世シグネーチャーモデルのお披露目ライブとなった松本、三島ライブも無事に終了いたしました。

写真は三島の「アフタービート」でのワンショットです。

テリーズテリー物語

2010年11月05日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

2010年7月某日
テリーズテリーが佳境に入っている。外観デザインはすでに確認済みだったが、細かいデザインに関して、昨夜綿密な打ち合わせを行った。山木倶楽部マークの大きさと入れる位置の確認。バックの板に書き入れるダリア「ヴァイオレット・キミ」を2輪、右下に入れることで合意した。かなり好い感じの山木モデルが完成しようとしている。世界に一つしかないデザイン、音のギターが今まさに産声を上げようとしている。無上の喜びである。製作者の中本氏は「すぐに好い音が出るとも何とも言えない。」山木「大丈夫ですよ、僕が当日音を出してみます。」悪いはずがない。中本氏のキャリアと性格と僕のキャリアと性格で、良い音が出ないはずがない。
音は確かにギター本体から出るのであるが、弾き手の如何によって変幻自在する。デザインと外観と昨夜の打ち合わせを見る限り、入魂の音が今にもサウンドホールから鳴り響いてくるような錯覚を覚えた。

60歳還暦記念モデルは終生のギターとなろう。このギターとともに、新たなスタートが切れる幸せ感でいっぱいである。お初のご披露は10月23日東京日経ホールになる予定である。ギブソンB-25は隠居の身というところだろうか。この18年本当に支えてくれ大いに感謝している。今まではB-25とともにあったと言っても言い過ぎではない。90年原宿竹下通りを歩いていて偶然入った楽器屋で見つけたギブソン。1964年のころのモデルだと思う。64年と言えば僕が中学生のころにアメリカで制作されたギターの一本が巡り巡って、日本全国を一緒に旅したわけである。前の持ち主が一人とは限らない。しかし90年から20年はアジアの国、日本の山木康世という音楽人にもらわれたのである。
テリーズテリー山木モデルは、今まさに60歳からの旅を始めようとしている。後ろ板には父が丹精込めて60歳退職から作り始めた山木ダリアの傑作「ヴァイオレット・キミ」が控えて一緒に旅をする。母が亡くなった年の父の新作を、僕がこれから引き継ぎ歌ってゆく。歌い弾くステージの興味も尽きないが、これからどんな歌をこのギターは僕にインスピレーションしてくれるだろうか。心のこもった歌を生きてる限り作って行こうと思っている。
我が子の誕生を今か今かと病院の待合室で待っている感じである。
フォークギターが全世界に何万本あるか知らないが、それぞれに誕生の瞬間があり、誰に弾かれて何年で終わったか、はたまた未だ現役でバリバリ。それぞれにドラマがあるはずだ。10月23日は一本のギターのドラマの初まりである。

2010年10月23日
ついに念願のギターが楽屋に運ばれてきた。見事な美しさ、手に取るのも惜しいほどの輝きを見せている。関係医師3人に付き添われ大事に運ばれてきた。ややグレイがかった頑丈、かつ柔らかいケースを開く。オギャー!丁寧に、大事に首の骨でも折れてはかなわん。しかしこの子供はしっかり首も据わって、どうぞと誘いの手をさしのべてくれた。
チャリーン、チャッチャ、ジャーン、キューン、ピーン…
人前で弾くことに慣れているのに、なぜかこういう場面ではいつも何を弾いたらいいのか躊躇してしまう美原育ちが顔をのぞかせる。
良い、良い、良いですよ、早速ステージで音を出してみましょう!!
かくして花の還暦ステージで見事、大役を果たして船出の一歩となった。
大勢の人がこのギターに魅了されたようで、後日反響が多くあった。うれしい限りである。我が人生における本当の意味での船出をこのギターが飾ってくれた。これからの航海に後悔はなし、有るのは有終の美あるのみ。
年輪を重ねることの大事さと同時に、着古した衣服の整理も大事とつらつら感じ入り今日この頃である。

2010年11月4日
還暦ステージから2週間ほど経ったこの日、完全に我がギターとなった。実はあの日、ステージで披露した後、もう一度最後の点検ということで引き取られて行った我が子。
中野通りに一台の黒塗りのバンが止まっている。中から見慣れた釧路出身のYさんが待望のグレイのケースを小脇に抱えて降りてきた。最高の秋晴れの下、桜の木は紅葉の準備中。そんなさなか5分ほどの経緯で我が手に戻ってきた山木モデル。
事務所で飽きずに眺めては弾いて、写真を撮って、弦を張り替えて、あー高校生のころのときめきと何も変わっていない。モノのあふれかえる時代、本当に両手を挙げてバンザーイと言えるモノは少ない。
さぁ土曜日からの人生行路、強力な我がソルジャーがコンディションを整えている。後は我が身のコンディションとお天気のコンディション。

松本、三島と来られる皆様、もしもギターにも大いに興味がございましたらじっくりと拝見ください。ざっくりと拝聴ください。質問等ございましたら、遠慮なさらずになんなりとお尋ねください。
あなた様の今後の時間を小生と同じモデルを所有なさって人生の楽しみを共有してみませんか?

何はともあれテリー中本氏の真骨頂、みなさん、どうぞご期待ください!!
(山木康世)

還暦天晴音始末記

2010年10月25日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

日曜日、都に降る雨は いとしめやかに降りました
土曜日の余韻を押しとどめるように降りました

一日は一日で同じ時間が巡るだけ
始まってしまえば2時間は2時間でしかない
南から北から磁石のSとNが引き合うように
六百名のエネルギーが中央に集まった
36年のキャリアと六十歳の初心が入り交じった
得も言われぬ不思議な時間の2時間は
まさにサタデイナイトフィーバー
あの夏の日、あの冬の日、あの時、あの場所、あの年齢のそれぞれの思い出の一コマが、シャッターを押した写真の映像のように脳の片隅を横切っている。
僕も思っていた。そうだよな、この歌を歌ったときの一コマはあーだった、こーだった。六十歳の決別。
「弁慶と義経」で六十歳の始まり。

還暦という言葉が現実味を帯びて我が身に降りかかったとき、自分はどのように世間に振る舞うのが自然体なのだろうと真剣に考えた。どのように過ごしたら自分流の還暦なのだろうと。
36年かかってたどり着いた自分の評価が下された。全国の理解者によって下された。
まさに天晴であった。
天気から時間からすべての宇宙の法則は一糸乱れぬ整然さで10月23日過ぎていった。
みんなの笑いと涙のエネルギーは飾り気がまったくなく、僕の心を真っ直ぐに突き刺した。
決して営業などと言う安っぽい還暦祝いではなかった。人間と人間同士の素直なお祝いの一日だった。いろんなうれしさを過ごしてきたが、格別な特上のうれしさがこの日に待っていたとは知らなかった。生きていることが無上の喜びとなった。
どんなお礼の言葉を尽くしても尽くしきれない。
一つだけ言えることがある。これからも良い歌を、特に良い言葉の歌を作り出すことが一番のお礼ではないだろうか。

そんなことを考えながら、中野通を横切った土曜日コンサートの朝。
歩道橋の下から突然、クリクリ目玉の小学生男子が見上げながら
「スミマセン、今日は何日ですか?」
「10月23日だよ」
「ありがとうございました」
あの少年は誰だったのだろう。学校が休みなことをうっかり忘れて登校してきたのだろうか。
「おじさんは今日コンサートなんだよ」って声を出さないでバイバイした。

日曜日の雨は涙雨だったのだろうか。
雲の上をフワフワと一日彷徨っていたような「この国に生まれて60年」の土曜日、どんな細胞が死んで生まれ変わったのだろう。

すぐに72号会報発行、新潟、前橋とライブが待っている。休んでいる暇はない。いつもと同じように、さぁ4階の階段をトントンと小気味よく下りて、月曜の朝を歩いて行こう。

「スミマセン、今日は何日ですか?」

(山木康世)

天上に咲く花何の花

2010年10月22日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

天上に咲く花何の花
大小無数の花有れど
悠久不変の調べのみ
我大地で仰ぎ見る

今宵流れる流星は
何万マイルの巡航か
暗黒世界をあてもなく
溶けて流れる運命か

雲上に便りあり
風中に便りあり
海上に便りあり
友遠方より来る

本卦還りの還暦か
再出立の還暦か
身体何の変化なし
精神多少変化あり

たかが歌されど歌
たかがギターされどギター
口を突いて出る言葉
水に流れる訳じゃなし

我の思いの何%
彼の思いの何%
暗闇ムササビ コウモリに似て
ホールで交差火花を散らす

只願うはひとつ
平安なひとときを
明日への希望エネルギー
天上に咲く花何の花

大勢の皆様
六十歳のお祝いのお言葉 
誠に有り難く頂戴致しました
新たな心境の変化を自ら期待しつつ
生涯最高の演奏会を
自身のはなむけと致します
果たしてどのように歌達は花開くでしょうか

お待ち申し上げております

山木康世 まさに六十歳の午後

仙台繻子人形音始末記

2010年10月14日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

なんと知る人ぞ知るエイモス・ギャレットとジェフ・マルダーが三日前に来店、演奏をしていったという。東京からの大渋滞で8時間かけて開演時間寸前に到着、音合わせはお店のスタッフ連が確認しておいて、彼らは着くやいなやライブを始めたそうである。その日の僕の山形行きの東北道はまずまずの流れで5時間半で着いていた。高速道は一つ事故が起きて時間がわずかずれただけで、結果が大幅に変わることが多々ある。そんなとき幸運と不運の分かれ目を感じたりする。
エイモス・ギャレットとジェフ・マルダーは、11日は釧路湿原のペンションでのライブだという。あの肩の張らないジャンルにとらわれない彼らの姿に魅了されてよく聴いた30代のころを思い出す。その頃のジェフの奥さんはマリア・マルダーであった。彼らは68歳になっているという。

50代最後のライブを仙台「サテンドール」で開くことができて幸運であった。どこぞの訳の分からないスタッフや、オーナーが一夜の音楽界を開くのではない。そこには脈々と流れる経営者の音楽魂が川の如くたゆまなく流れてなくてはならない。
多くは語らなくて良い、愛想だってそこそこでいい。何も音楽人が愛想良く、お客さんの良いなりになるなんて話も聞いたことがない。世間並みの態度で良いわけだ。それよりもたちの悪いのは、いかにもいい人面して、臆面もなく今夜の主役の名前を間違えて、チケットまで販売、その上顔を合わせても何も釈明もないという御仁。そんなお方とは二度と会を開くことはないだろう。50代最後の人間を捕まえて「それはないでしょう」というところである。

アメリカのカントリーハウスにフラリと立ち寄った感じの、年季の入ったサテンドールはカントリーフォーク、まさにそのものの姿である。飾らず、素朴で訥々(とつとつ)と語りかけてくる秋の夜長の夕べにもってこいの宴(うたげ)会場である。宴会場(えんかいじょう)ではない。

僕はこの夜UFOの大編隊を目撃するのであるが、その件はまたの機会に書こう。3回ほど定期的にシグナルでも送るかのように点滅してくる光に、何とも言えぬ神秘さと高貴さを感じてしまった。
50代最後のみちのくの旅人を癒し、かつもうじき迎える60歳からの指針を暗示、祝してくれているようなシグナルだった。ガッチリ受け取った也。あのようにはっきりと頭上で停止して信号を送ってくれると、夜空の星の瞬きとは違った現実をいたく感じて、神の存在を改めて意識してしまった。

僕らは誰かに見られて暮らしている。悪事は遠からず裁かれる運命にある。「好事門を出でず」という言葉がある。良い行いや評判は、とかく世間につたわりにくく、逆に悪事は千里を行くが如くたちまちお茶の間に広く伝わる。汝、惑わされる事なかれ。

この夜、集まってくださった皆々様の将来に幸運が訪れることを願ってやみません。
(山木康世)

郡山民謡歌曲酒場6575

2010年10月11日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

山形河川敷での芋煮会を終えて、一路山形道、東北道を南下、郡山を目指した。日曜日の1000円と言うことも手伝って、高速道は東名高速並みの混雑ぶりである。こんな東北道にお目にかかったことはない。遠くに気高き蔵王が望める。
初めての芋煮会参加、想像していたよりも遙かに規模が大きく、料理の多彩さに目を見張った。芋煮の鍋を囲んで質素な会は長年抱いていた妄想に過ぎなかった。海の幸、山の幸をふんだんにごちそうになり最後は、その場でついて納豆で絡めた餅で締めとした。今夜のライブが待っているので、お先に失礼したという次第だ。川にかかった長い大橋を渡り、河川敷を見下ろすと立ち上る煙は見えど、さっきまでの賑やかさは聞こえてこなくなり、少し後ろ髪を引かれる思いだった。

フォーク酒場6575はギター、ドラムス、ベース、アンプなどがきれいに店の隅に片付けられていて、普段からの行き届いた運営の整頓さが伺えて何よりだった。各地いろんな会場に出入りするので、最初にお店に足を踏み入れた時の勘は、普通の人よりも数倍敏感であろう。これでやる気がずいぶんと変わってくる。今日は○だ。
50代最後のライブ、残すところ2本である。

ホテルで午後8時近くまで待機していた。70年代往年のアイドル達の今をテレビで見た。ふきのとうも74年デビューであるがために、当時のブラウン管を賑わせていたアイドル達の今は非常に興味があった。しかし見ていて、ある種悲哀を感じてしまった。みんな50代に入っている。が歌う歌は三十数年前のヒット曲。おもしろおかしいが、全然こちらに届いてこない。レコード会社も事務所もやりっぱなし、稼いだらポイと使い捨て。それに耐えて、お茶の間へ顔を出す根性に脱帽した。偉いモンだ。デジタル画面ゆえ、シワの一つ一つ、シミの一つ一つが鮮明である。病気を抱え、克服したアイドルも大勢いる。
どうして彼ら、彼女たちは年齢の重み、深みを感じさせてくれないのだろう。顔や頭はかなりくたびれているが、着る服だけは当時と同じだ。このギャップが悲哀さを感じさせるのか。どうも歌舞伎町の末路が見え隠れしていただけなかった。歌には魂が有るはずである。有るべきである。カラオケで歌って、やんやの喝采を浴びるだけの華やかな、見栄えの良い歌だけが歌ではない。もっともっと心の奥底から響いてくる歌が有るはずだ。それを歌えるようになるには年輪が必要だ。年輪のない中身の空っぽな木は、生きているように見えるが、枯れ木である。

開演時間が迫ってきた。ホテルの電気を消して会場へ向かった。
彼らの映像、音像の余韻が頭を巡っている。良い感じで彼らは僕を後押ししてくれた。背中をポンとたたいてくれた。
「僕らは心の歌を歌いたいが、誰も作ってくれない。しかし僕らにはヒット曲がある。それだけで十分なのです。作って歌える人に是非、心の歌を歌ってお客さんを魅了してください」
生涯で3本の指に入るライブだった。残すところ仙台サテンドール、今夜は誰が何が背中をポンと押してくれるか楽しみである。ちなみに今日も晴れである。
 6575の由来は1965年から75年までのフォーク全盛を象徴しているとオーナーは語ってくれた。何気ないところに経営者の精神を見せている。ちなみにお名前は粋成(いきなり)さんとおっしゃった。本名ではないだろう。まさに粋成りである。
 
(山木康世)

山形綿通音始末記

2010年10月10日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

山形はおじいちゃんの故郷。写真でしか知らないおじいちゃん。おじいちゃんも僕が生まれたことを知らない。山形は高畠町で明治元年11月22日に生まれて35歳で北海道は札幌に渡った。ちなみに父は大正2年7月22日生まれだった。ここにもラッキーナンバー「22」が見え隠れする。連れ添いのおばあちゃんは赤湯で生まれた人だった。おばあちゃんは明治10年10月10日生まれ。もちろん今は生きていないが、僕が大学生のころ95歳で大往生した。故に僕の中に流れる血の4分の一は山形ということになる。

あいにくの小雨模様の中、東北道は土曜日と言うこともあり東名高速道のような混雑ぶり。5時間半をかけて山形に到着。「コットンストリート」は高速を降りて真っ直ぐ南下、1,5キロほどで警察署を右に入りすぐ左手に見えてきた。大きなビヤホールのような感じのお店でやる気ムンムンである。あの未消化、福岡ライブの借りを返すべくはギブソン、マーチン、ドブロのそろい踏みで臨んだ。直前に地元の山がっちゃんは急遽ステージを制作、50代歳最後の晴れ舞台を少しでも映えるように、栄えるように、生えるようにと用意してくれた心遣いに涙が出てくる。

楽屋に20年ぶりに一組のご夫婦が訪ねてきた。なつかしの再会である。思いもしなかった訪問者に心が躍った。実におかしいほど踊ってしまった。みんな若かったな、しっかり覚えているよ。全国を回った君はすっかり成人になった2児の父親になっていた。あのころ銀行の窓口でキャピキャピして光っていた連れのご婦人は20キロほども痩せられて良い大人になっていた。こうしてつながっていることが真実にうれしい。あっという間に時間が過ぎて開演である。話は尽きない。

「羊飼いの恋」が開演の合図を告げる中、階段をトントンと下りて行く。大分の「ブリックブロック」を思い出す。彼の店を一回りも二回りも大きくしたような良い空間を下りて行く。札幌のビヤホールにも似ている。
ギター一本の弾き語りをするには非常に手頃な大きさである。大き過ぎでもなく、小さ過ぎでもなく。場所や環境によって心は変わってくる。当然そこで繰り広げられる音楽も変わってくる。
今夜は50代最後の演奏会にふさわしい夜となった。大勢のお客さんを前に、自然体で締めくくる。いろいろのパターンの「100%自産自消」今夜の出で立ちは、背中に見事なギブソンの刺繍のカントリーシャツ、我が朋友佐々木幸男の還暦祝いに作成したという真っ赤なTシャツを中に着込んでのご機嫌な登場であった。

ここ山形の地にも山口、北海道、東京から馳せ参じてくれた我が心優しき理解のある応援し隊が後片付けを手伝ってくれている。誰が言い出すわけでもなく、自然の空気の場を読んでみなが行動している。父の教えの一つであった。人に言われてやるのは簡単であるが、悔しい場面もある。しかし自ずから率先して出た行いに悔いはない、責任は自らにある。子供でもあるまいに、立派な大人の一つの規範でもあるような気がする。それを父は無言で教えてくれた。少々やっかいであるが、空気を、場を読むことの大切さというところか。
少し拡大して同じように国にまで広げると更に、大人の国の規範も見えてくる。日本は果たして大人の国であろうか?
まぁそんなことはさておいて山形の夜はシンシンと更けていった。外は相変わらずの雨模様、明日の芋煮会は大丈夫だろうか。

明けて10日、おばあちゃんのお誕生日、ホテルのカーテンを開けると、何と曇り空の中、稜線近くに青空が見え始めているではないか。紋別のガリンコ号の朝を思い出す。何とか持ちそうだな。この晴れは全国各地に展開する我が祈祷隊各位のおかげでもあるが、晴れ男、面目躍如、昨夜の晴れ舞台準備、心遣いへの恩返しである。お天気の神様は存在する。

太古の昔からみんな空を見上げて生きてきた。朝起きたらみんな空を見上げてきた。晴れか曇りか雨か雪かで大きく変わってしまう地球に生きる生物のか弱さ、心細さ。まるでおカイコさんの繭のようだ。蒙古軍が九州に攻めてきたとき台風に遭って引き返していった。それを神風と称した時の人たち。そして神風は特攻として名を変えて登場した。しかし蒙古軍の時と同じようにはならなかった。悔しいが神様は正義に味方したのであろう。あの頃の国の正義か否かは、互いに五十歩百歩であったこととして承知の上である。

山形はおじいちゃんの故郷

山々の裾野に広がるハウス 
キラキラ光ってるサクランボ畑
山形はおじいちゃんが 生まれ育った故郷
明治元年11月の 山形はどんな秋だった

35歳で海を渡って 北の北海道へ移り住んだ
山形はおじいちゃんが 生まれ育った故郷
遠く札幌の地で山々を見て 故郷を思っただろうか

写真でしか知らない駒吉おじいちゃん おじいちゃんも僕を知らない
山形はおじいちゃんが 生まれ育った故郷
昔々の話を聞かせて 山形はどんな町だった

山々の裾野に広がるハウス 
キラキラ光ってるサクランボ畑

(山木康世)

小倉民謡歌曲村音始末記

2010年10月04日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

夜な夜な障子の陰で油舐め舐めのオーナーは変わらずに元気だった。しかし今年の猛暑に幾分参ったようで、オーノーと言ったとか言わないとか。

「フォークビレッジ」という言葉の響きだけでワクワクソワソワしてしまう。高校生のころ、つまりフォークギターに憧れていたころ、どれほどこの言葉に魅了されたことか。
愛読書でA5版ほどの一冊の音楽本があった。「アメリカンフォークソング」とか何とかいっていたと思う。故に僕の素性は、根本はここにある。ページをめくると歌いたい、覚えたい、弾きたい歌がごっそりと詰まっていた。ちりばめられた海の向こうのフォーシンガー達を飽きずに眺めたモンだ。みんなマーチンやギブソンを持って、そろいのシャツを着て歌っている。札幌の街のヤマハに行ったってガラスケースの中にしっかりと鍵をかけられ、触れることもできない。まぁ買うという意志を見せれば話は別なのだろうけど、そんな大金どこに転がっているというのだ。高嶺の花、高嶺の花、高峯美枝子だ。

P.P.M、ボブ・ディラン、ブラザーズ・フォー、キングストン・トリオ、ニュークリスティ・ミンストレルズ、ジョーン・バエズ、ピート・シーガー、サイモンとガーファンクル、ジョニー・ミッチェル、その後に現れるジェームス・テイラー、ニール・ヤング、あぁー涙腺ものだ。みんな60の壁を越えて人生の佳境に入っている。今はどんな歌を歌っているのだろう、どんな歌を作っているのだろう。もうあの世へお隠れになった御仁もおられる。500マイルも離れてである。
この世のこの夜の演奏は超ピカイチだった。手前味噌で申し訳ないが、何かが取り憑いていたと言うしかないほど脳と手が平和的共存関係にいた。すばらしい音響が場内に鳴り響き弾き手は興奮、感動の坩堝(るつぼ)と化した。もちろんお客さんも同じだったろうと思うほど、拍手の圧倒的強力さに演者は毎度毎度歌が終わって鳥肌を立てていた。(ややこしい話をすると、鳥肌が立つ、とよく使われるが、これは恐ろしいときに使う方が当たっているようで、感動ものの時には使わない方が正解のようだ。)当代切っての名演奏会だった。普段、こんなこと滅多に言う人ではない。おそらく晩秋に旅するミンストレルが弁慶と義経と桃太郎とキジとサルとイヌ、そして無法松、松本清張に取り憑かれた情景というしかないだろう。

楽器の音色はただ有るのではなく、そこに潜む音楽との密接な握手、ハグ状態にあってこそ生きるのである。楽器の幸せはそこに有るのだ。友よ見失うことなかれ。心の琴線を研ぎ澄まし、耳をそばだてるのだ。決して目の前の金銭に惑わされるな。さすれば自ずから聞こえてくるだろう。何を歌えばいいのか、何を言えばいいのか、何を演奏すればいいのか。
小倉のこの村はいつも心を戻してくれる。舵を切って戻してくれる。歳をとって意味もなく街を徘徊する老人になってはいけない。意味もなく心の螺旋階段を彷徨ってはいけない。

塩とコショーのほどよく効いた3センチ角ほどの、適度に炙った豚バラは実にうまいものがある。できれば串に刺して3枚ほど連結で、間にはタマネギを3枚ほど挟み込んでいただきましょう。口中で唾液と絡み合った妙味はシンプル、かつマイルドである。フォークソングの神髄と似ていなくもない。気をつけなくてはならないのは、食べ過ぎのエネルギー過剰摂取である。特に寝る前には十分気をつけよう。ペットボトル一本が2500グラム有ったとする。10キロ太ったとすれば、4本身体にぶら下げて街を歩いていることになる。相当な膝への、腰への負担である。大事に使おう、父と母からもらい受け継いだ骨と皮と肉と筋と腱と血と、そして最後に精神を。

小倉の街に日が昇り、バスクリン色したどぶ川に朝がやってくる。

(山木康世)

熊本廣徳寺音始末記

2010年10月03日 | カテゴリー: ミュージック・コラム


人間、優しくなければ始まらない。その優しさの根本は何か、どこから来るか? 答えは他者への気配り、特に弱い立場の人、動物への気遣い、心配りにあると考える。
音楽は皮膚の色、宗教の違い、国境を越えて差別なく伝搬するすばらしさにある。良い音楽がこの世に誕生したとき世界は幸運な時代と言えるだろう。それほど音楽は心の奥底に住み着いて、聴いた人の人生を揺さぶるほどの力がある。と信じている。

熊本の天気はどうか?羽田で占った。現地の知り合いに聞くと、どんよりして今にも雨が落ちてきそうとのこと。これはいくら晴れ男でもだめかと一時は思った。離陸すると富士山が遠くに見えて、東京の街、横浜、静岡などが見事な秋の空気の中で息づいている。しかし機が南下して四国、九州に近づくにつれ雲は厚さを増し、完全に視界を遮った。こりゃだめか、と思ったのもつかの間、阿蘇の上空に来ると、雲の切れ間に熊本の街が見え始めた。その上青空もチラホラ、日差しまで差し込み始めた。晴れ男健在なり。

廣徳寺は水前寺の近くにあった。住職さんご夫婦と対面、うれしいことにふきのとう、特に小生の30年来の大ファンというであはあーりませんか。音楽を続けていて幸せに感じる瞬間でもある。学生時代からファンでいてくれて、この日の宴の会となったのである。その上ご夫婦そろってファン、と言ってくださることの幸運よ。2匹の大型ワンちゃんも尻尾を振って歓迎してくれる。思いっきり頭をムシャムシャしてあげた。恐れ多くも阿弥陀様を後ろに、音合わせを始めた。ワンちゃんも一緒に歌い始める。西日がスポットライトのように照らす。まだ日没には2時間はあると踏んだ。熊本支部、自称弟子のTは傘を持って遮ってくれた。ドブロが熱くなった。こんなドブロ見たことない。目玉焼きでも焼こうかと思った。焼けるか!このとき思った。このお堂に安置されている阿弥陀様は、おそらく計算されて安置されている。今自分が受けている西日が差し込み、さらに深い深い輝きを増し、祈り願う弱き人へ魂の水先をしてくださる。まさに天然のスポットライト。先ほどまでの天気の不安などどこ行ったか、という感じである。

オープニングは「笙」という日本古来の伝統楽器とともに住職さんのお話、お勤めである。そして初めての体験、仏教賛歌という教会における賛美歌のような歌を13人の男女混声合唱団が歌う。夜空には星まで聴きに来ている。もちろん境内にはびっしり、立ち見まで出る盛況ぶりである。このようなお寺のあり方をみて、背筋がゾクゾクしてきた。もちろん鐘と太鼓と木魚のお話もすばらしい。しかしもっともっと自然な形で音楽とお寺の阿弥陀様が渾然一体化する、一体化できるということを実証された実に良い夜である。

そして8時前「羊飼いの恋」とともに登場である。灯りの灯された境内には焼き鳥屋台の煙がスモークのように漂い、向かいには道路越しに大勢の御仏のあの世の住処が立ち並んでいる。そして夜空には星達、こんなシチュエーションは願ってもなかなか出会えない。忘れていたお堂でじっと我々の平安を祈り、守ってくださる阿弥陀様の元、~秋の宵に浄土の宴~が執り行われた。1週間前には安宅の関での野外音楽界、今まさに九州、熊本での野外音楽界。草むらからは虫たちも合唱に加わる。ワンちゃんたちは吠えもせずじっと聴いているようだ。浄土の宴が終了したら吠えだした。こんなところにも何か言葉では言えない人と動物のつながり、縁を感じてしまう。

11年前に住職ご夫妻と一緒に撮った写真を見せてくれた。小生49歳、住職44歳ともにまだ40代である。その縁が実に11年後に結実しこの宴となったのである。

このお庭で「タイムトラベル」を歌えた幸運に感謝いたします。
この星空の下で「桃太郎と吉備団子」を歌えた僥倖に感謝いたします。
気持ちの良い平穏な宴に参加してくださった心優しい皆々様へ、誠の感謝をいたします。

明けて3日の朝の熊本に雨が降り始め、雷鳴が聞こえる。
これから車で小倉へ向かう。

「タイムトラベル」

今宵は奇麗な 星の夜 あなたを誘って タイムトラベル
僕達がこの世に 生まれたとき父や母はどんなに 喜んだことでしょう

夜空から星が 降るように 何もなかった部屋が にぎやかに
僕達がこの世に 生まれたとき どこかで誰かが 泣いていたのでしょう

陽が昇り落ちて 星の夜 またひとつ小さな 歴史が生まれ
僕達がこの世に 生まれたとき 窓の外にどんな花が 咲いていたのでしょう
               窓の外にどんな花が 咲いていたのでしょう

(山木康世)

安宅関勧進帳祭音始末記

2010年09月30日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

シトシト雨がベランダのテントを叩いている。一雨ごとに風は冷たく吹いて…である。
小松は安宅の熱い夜から6日が経った。

思い起こせば、すべては去年6月金沢のライブが終わって、後片付けをしていた時から始まった。
一人のお客さんから「小浜に行く途中に安宅というところがあるので、そこに寄ってみたら良いですよ。弁慶の勧進帳の公園がありますから」。翌日、立ち寄ってみた。なるほど「勧進帳」という言葉はよく聞くが、こんな話があったっとは知らなかった。五条大橋での出会いの編、続編と行こうか。よし、ここまで来たら最後の平泉の編まで書こう。3部作終了という大作に仕上げよう。そしていつの日かここで弁慶と義経の無念を納め鎮めよう。こんな感じの構想がここで、この安宅の浜で決まったという次第だ。

暗闇の地べたに焚かれた500本のろうそくは幽玄、深奥の世界へ誘った。
ここ2,3日の雨模様はすっかりどこかへ行ってしまい頭上には星が降り、満月に限りなく近い月が煌々と照りながら日本海海上より徐々に松の木陰の間から昇ってくる。
夜空に法螺貝が鳴り響き、横笛の怪しげなメロディがギターに絡みつく。
おまけに夜を支配する無数の虫が鳴きせがむ。「無情の世に今宵おたけびを、非常の世に今宵お情けを」

「やまもとさん」で始まった2時間の心の綾を書くまいと思っていた。書くにはあまりにも紙面が足りなすぎる。短時間で始末できるほど簡単、かつ単純ではなかった心の綾。
言い尽くせないほどの生涯初めての体験が終了してしまった。あっけないほど時間は経過した。実に当たり前のように経過した。

祭りの後の後片付け、弁慶立像の足下で一匹の蟋蟀が盛んに鳴きやがる。別れを惜しむかのように泣きやがる。近寄って目を懲らして探せど姿は見えず。あれは弁慶の生まれ変わり、魂に違いなし。「なぜなぜ鳴くの、ずっとここで鳴いていたね。今夜はありがとう、じゃ、またな早くお帰り」と声をかけてその場を立ち去ろうとしたら嘘のように鳴き止んだ。鳴いていたのか泣いていたのか。
僕はあの夜、弁慶に1000年の時を隔てて会ったと確信している。「やまもとさん」などという戯言の苦虫はジッとかみつぶし、蟋蟀の慟哭をこの胸はしっかりと死ぬまで忘れはしない。

後ほど、我が会報72号にて詳細、感想を述べる次第である。
(山木康世)

« 前に戻る次のページ »