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浦添市/LIVE cafe JULY(ライブカフェジュライ)でコンニチワサヨウナラ

2024年10月09日 | カテゴリー: 山木康世

50年沖縄の締めは中部都市浦添。
12〜14世紀の頃には沖縄の中心的存在の浦添はその後王朝が首里に移るまで大いに繁栄したという。第2時世界大戦の米軍の上陸で大勢の市民が亡くなったという激戦地。今では考えられない風光明媚な豊かな風景の広がる歴史的街浦添。
今日の会場は御夫婦で経営されている白が基調のライブハウスで、ギター弾き語りにはうってつけのJULYである。ご主人の生まれた月が7月でJULYである。沖縄の海風が穏やかに吹き込んできて一人が好きな人には落ち着ける良いお店である。
少し似合わないかもしれないが、スタートは「晩秋情景」弾き語り叙情歌。ますます沸騰化する地球、日本は昔の四季豊かな国ではなくなって四季が危ぶまれる熱帯国の様相が強くなっている中、昔の古き良き時代の日本における基調な歌のような感じを受けた。そして「柿の実色した水曜日」このタイトルはふきのとう秋の代表かもしれない。
昨日は読谷で今年お初のスイカを外で食べた。北部の今帰仁スイカであった。実に美味しくて読谷のそよ吹く風が心地よかった。口中に広がるとろけるような小ぶりのバナナも特筆ものである。そのときに沖縄ではあまり柿は馴染みがないかなと思った。今まで見かけた記憶がないかな。
最後の歌はもちろん「風来坊」である。この歌が醸し出した沖縄の当時を妄想すると、懐かしさの中に涙がこぼれてくる。哀愁のふきのとう。
今日の吾の歌心は一人のYAMAKINGSONGS紐解き、沖縄最後の日にふさわしい自然体で、ここに何時間でもいたいような気分だった。音響も実に自然で吾に相応しい時間を過ごすことができて幸福な夕刻だった。
また来てください。オレの高校時代はふきのとう一色でしたという大柄な男性が帰り掛けに声をかけてくださった。今度は友達と連れ立ってきますと静かに笑顔で帰っていった。
今回のお天気はまたも心配だけで終わって晴れ男健在ぶりを証明できたオータムマン底力であった。
沖縄滞在中お世話になりました皆々様、まことにありがとうございました。来年になりますが良い歌を引っ提げてアホウドリは風に吹かれてやってきたいと思っております。お元気でサヨウナラ。

お客様の中には懐かしい顔もちらほらと


本編ラストは「向こう岸」


楽屋めしはチキナー(沖縄の高菜)のおにぎり


シャコ貝の刺身で打ち上げ

うるま市ライブスポットEeは良い夜だった

2024年10月07日 | カテゴリー: 山木康世

うるま市は2005年石川市、具志川市、勝連町、与那城町の4つが合併してできた、沖縄中部東海岸に位置する街である。
沖縄に伺って30年ほど経ってできた新しい街でうるまの由来を知りたかったのだが、ご来場の地元の方々もご存じなかった。何か深い意味があってのうるまなのだろう。全国てきに平仮名の地名が増える中、やはり由来を知りたかった。
Eeには13年前の2011年初めて来ている。壁にかかった「何もいらないおまえがいれば そばにいてくれ 話がしたい」色紙サインを見て、恥ずかしいやら懐かしいやらのおまえと生きるの言葉である。
東北地方で大きな災害が起こった年である。60歳還暦の年だったのだなぁと感慨深いものを感じて、大勢のお客さんの前での2時間であった。やはり50年は短いようで長い歳月だった。白い冬、風来坊で名前を知られ顔を知られてたくさんの人達と会って別れての歳月である。正面の壁に貼られた半世紀,半生期、弁天様は母なるほほ笑みのもと今夜も良いひとときを過ごせて幸福だった。願わくば皆々様の更なるご健康とご健勝を祈るばかりだ。
親子2代にわたって結婚式で歌ったという「メロディ」小学生の甥っ子さんが耳で覚えて歌った「雪の町」叔父さんは驚いたという。ホテルベルパライソでの山木倶楽部ツアーの思い出、糸満での盛り上がりのライブ後に「感動した!ヤマモトさ~ん!」と叫ばれてずっこけた事件、そんな懐かしい思い出深い札幌からは遠い遠い異国のような沖縄の地は自分の中で特異な存在となっている。そこに住む人達の熱い思いをいつも感じていた。
デジタル時代ではあるが、目や耳や口はアナログでいたい。心のつながりはもっともっとアナログが必要だ。デジタルはあくまでも手段である。あまり過激に走ると人間味が薄れてしまう。僕が作ってきた歌たちは、そんな喜怒哀楽を思い起こす歌たちであってほしい。
また来ますと約束してEeの夜は更けていった。
みなさんまことにありがとうございました。

リハーサルも万全です


ぎっしり満席、ありがとうぎざいました


スタッフの皆様、お世話になりました

那覇市桜坂劇場は長い一日の始まりだった。

2024年10月06日 | カテゴリー: 山木康世

夜中に目を覚ました。桜坂での思いを書こうとサーフェスをバックの中から取り出した。充電をしなければ、さてと想い中に手を突っ込んで探した。えっ?ない、ない、ない。では銀のコロコロバックはと思い丑三つ時の探索が始まった。たしかこの中に入れた記憶もある。ない、ない、ない。
それから6時間ほど前の終演後の荷物整理の大捜査線が始まった。サーフェスを棚の上に置いた記憶が最期の手がかり。その後どちらかのバックに仕舞い込んだような、そうでないような。30分も途方に暮れて、最悪のことも考えた。バックアップしてある大事な歌のデータはなんとかなりそうだ。あの棚の上に、幸運なことにまだそのままにあったらであるが、映画館でもあるので、公演後他の通りかかったお客さんの目に入ってそのまま失敬などと拾われていないか、などなどいろんな妄想が頭をグルグル、酔もいっぺんに冷めてしまった。こりゃ朝まで眠れんぞ。でも疲れで4時間寝て目を覚ました。朝日の中やはりサーフェスはどこにもない。
9時半から桜坂は開いている。早くに連絡を取って安否を知りたい。長い2時間だった。電話をいれると係の人が調べて連絡をくれるという。まずまず連絡がついたという事実だけでも一安心。朝の光は希望の光である。窓の下の忙しくなり始めた国際通りを眺めながら、どうぞ神様幸運を。
そして桜坂に出かけた。あの最後の記憶の棚へ一目散走っていった。あったあった。地味な色合いの棚に溶け込んでしまいそうなサーフェスは昨日のままあった。幸運なことの成り行きに感謝、日頃の行いに感謝。みんなに感謝だった。よくぞ見ず知らずの目につかないでここにいたねぇ。よしよしと頭を撫でてやった。
そこで思った教訓を。
目立たないことは日頃探すのに戸惑うこともしばしだが、こんな時、逆に目立たないことが功を奏する。その前に日本人の道徳の一つに他人の荷物などは絶対に関与しない、もしくは拾ったら警察に届ける。困っている人の立場になって物事を考える。これが常識だった。しかし今はいろんな国の人達が訪れてそうも行かなくなった時代になった。忘れた、落とした人の責任で目に入ったものは持っていきますよ。こんな非常識なことがまかり通る時代になってしまった。
やれやれ事なきを得て、ダイアリーを書くのを忘れてしまっていた。
長い半日が朝で終わってしまったような気分で忘れてしまっていた。
非常に良好な桜坂劇場だった。永の知人たちの訪れもあってやる気や集中力も存分だった。その後の泡盛、赤魚も最高の夜だった。しかしその後に訪れる丑三つ時の大捜査線の伏線になっているとは誰も神様もご存知あるめぇの桜坂劇場興奮の結末の一日であった。
みなさまありがとうございました。

那覇の中心部にある「桜坂劇場」

沖縄市ミュージックタウン音市場ホワイエYAMAKINGSONGS

2024年10月05日 | カテゴリー: 山木康世

約1年10ヶ月ぶりの沖縄である。大雨雷警報発令中の中、初日は沖縄市。
昭和49年コザ市と美里村が合併して誕生した街。昭和49年と言えば「白い冬」デビュー、50年前の話である。生涯初めて足を踏み入れた沖縄。鮮明に昨日のことのように覚えている。
1972年沖縄は佐藤内閣の元、祈願の日本復帰の年である。佐藤栄作は74歳に亡くなっている。1964年から1972年8年間、自民党総裁を努めて、良くも悪くも今の日本の日米関係を推進、大きな飛躍の原動力となった。その頃僕は札幌で中学高校大学と多感な歳月を過ごしていた。14歳で東京オリンピック、新幹線、東名高速道路と日本は欧米並みの国力を取り戻した観のある年である。ギターを覚えてグループサウンズに日本の洋楽もどきの音楽に夢中になり大学で「ふきのとう」を結成した頃である。まさに自分の50年と符合していて面白い。地元では冬季オリンピックが行われた1972年である。
その頃沖縄は揺れに揺れ動きアメリカから独立を果たし晴れて日本国、世情は今とは考えられないニッポンだった。
沖縄市の誕生がまさに「白い冬」と同じ年だったとは意外な発見である。そして今回50年目の節目に沖縄市。これも意外な天晴れである。
雨の中、熱心なお客様に支えられてのYAMAKINGSONGS20曲の2時間は珠玉の充実の2時間。伊達には生きてはこなかった。流行歌で終わらせたくなかった自分の音楽生活。独自のシンガーソング&ライターにやっとたどり着いた。今回の公演は記念の年の公演と相成って幸福である。至福の観でいっぱいの沖縄市ミュージックタウン音市場ホワイエ。
まだ3回行われる沖縄での公演で更なる確かなものとする。みなさんありがとうございました。

集中してBOSSの歌と演奏に聴き入る沖縄のお客様


音市場のステージにも大旗が映えています


三線を弾く子供たちの絵がかわいいです

東京都国立スペースコウヨウ2024/09/26

2024年09月27日 | カテゴリー: 山木康世

確か前回、この街のマンションが完成間近で建て壊し。何でも住民が折角見えていた名峰富士の姿がマンションで隠れてしまって拝むことが出来ない。取り壊しを迫って、結局ほぼ完成のひと棟を壊すという話で世間の耳目を集めていた梅雨入り前の時季だった。マンションを見通せると落ちにはカメラをぶら下げた野次馬まで出ていた。
そして我はサーフェスを忘れて電車に乗車、気がl・ついても三鷹まで連れて行かれて戻るという失態を起こしていた。なんだかんだと1時間無駄にした。しかしこれがなければタダの人、50年の趣味道楽をすることは困難なのである。あー情けなき徒の50年よ。
そもそも渋滞状態化の中央道を避けて中央線で行ったことが事の始まり。土日祝日の日の渋滞は話にならない。よくぞこんな高速道を作ったものだ。まぁ侵入しなければ何事も起こらないだけの話だが。
今回は木曜日なので30数分で国立へ着いた。これぞ高速道路である。
すでに梅雨も終わって酷暑も過ぎて、少し風の冷たい秋の入口という国立。
SUZUKIオールドギターに弦を昨夜丑三つ時に張り替えて今日に臨んだ。素朴な良い音がしていた。早稲田通りに珍しく国産中古の店ができたと聞いたので早速伺った一昨年の話か。大将と話し込んで奥に鎮座していたSUZUKIを衝動買い。夕方受け取りに行った。今まで少し手荒く扱っていたようで各所に小さなこすり傷が出来た。しかしそれも丑三つ時にポリッシュで隠すことが出来た。1953年製と大将は言ってたが、その証はどこにも見当たらない。当時のジャズメン当たりが弾きこなしていたのだろうか。マンション一棟を建て替えするなどという粗悪な扱いは決してしないし出来ない。SUZUKIは曲を選ぶようである。
お忙しい中、ご理解のあるお客様で会場は熱かった。
暑さも少し収まって雷雲に変わって天には鱗雲がたなびく季節になった。秋分の雷乃収声かみなりこえおさむの真っ只中だ。

甲府桜座におけるギター弾き語りの世界

2024年09月24日 | カテゴリー: 山木康世

 ここで歌いたい。と甲府湯村温泉ライブ後に下見に訪れた夜を思い出す。
明治時代の建物らしい。山梨日日新聞に当日の意気込みを40字コメントでと、お願いされた。50年ざわざわをギター1本で弾き語る。  
ひとくちに50年と言っても、やはり大事な掛け替えのない時間である。
  山があっても山梨県。子供の頃に遠く離れた見たこともない山梨を勝手に思って皆で笑ったものである。武田信玄の出生地。風林火山を旗印にあの時代を駆け抜けた部将の心意気や如何に。
「ましら」はお猿さんのことである。夫婦のましらがOAを努めてくれて、15分ほどのステージの後に「白い冬」をコラボした。無理を言ってご一緒してもらった。50年の時を超えて桜座のジョイントは格別なものがあった。
皆の強力、ご理解の下日曜の昼下がり満足の一日だった。音響、照明の若手スタッフも吾の2時間を存分にサポート、憧れの桜座、アッという間に終了しました。まだまだエピソードや裏話をしたかった。また来よう。次回はもっと落ち着いた車座のような感じの桜座に思いを馳せる。
 名に恥じない一時だったと思います。また磨きをかけてここでやることを一つの目標に生きていきたいと思っております。
またお会いしましょう。更に充実のひとときを。ありがとうございました。長野3日間の最終日、良い9月23日のお彼岸でございました。

 ただいま、桜座のライブを配信しています。28日まで何度もご視聴いただけますので、ぜひお申し込みください。
online@yamaki-club.com まで。

ライブ配信アーカイブ、予約受け付け中です


ステージ下手から


地元で活躍する猴(ましら)と一緒に「白い冬」を歌いました


全国からたくさんのみなさま、ありがとうございました


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伊那スーミンの脇を時折通過する電車に思ったこと

2024年09月24日 | カテゴリー: 山木康世

何度も伺っている長野県であるが、今回始めて地政的街の位置関係を把握できた。
 長野、松本、塩尻、伊那、諏訪、飯田、などの街がどのように配置されているか。
僕はふきのとう時代から長野県がおふくろの味噌汁風な日本の故郷原風景に写って好きだった。早春の田園風景を味わい深く感じて、どこか美原の風景と重ね合せて受け取っていた。雪が溶ける前、降っては止んで上がっったと思ったらまた少し降って、凍りついたこれから出番を待っている田んぼを歩く感触が好きだった。
今回の50年ツアーは残暑の長野であったが、大雨の被害の能登地方のことを思えば幸いであった。山々に囲まれた長野県は山育ちの僕にとって、原風景なのである。「ふきのとう」を貫いている基本的音風景は山々にこだまする早春の息吹のような、青年の持っている未完の希望、夢、素朴な男女のロマンなどのごちゃまぜが浮かんでくる。いつまで経ってもあのときの初々しさを失くしたくない。50年経つが格好の原点回帰のできる音楽をたくさん作ってきたことに今更ながら誇りに思い大事にして行きたいと思った。
  忙しい現代をいっとき忙しいと思わせない「ふきのとう」の音楽は心底癒やしの音楽と自認した。
  人が人を思いやる気持が、ますます必要とされるデジタル時代に生きる人間の技として備えていても損はない。
 伊那スーミンの少し条件の悪い会場の2時間は僕に語りかけてきたよ。みなさんどうもありがとうございました。

サンドイッチやリンゴジュースもおいしいカフェでした


最近はずっとスタンディングです

音楽生活50周年記念日 塩尻風待茶房

2024年09月22日 | カテゴリー: 山木康世

今日はふきのとう「白い冬」デビューの日として刻まれている記念すべき格別の日。果たしてどんな一日が待っているのやら。
お店に入るとレイアウトが大変身、以前のステージの位置が反対向きにセットされている。確かにステージが大きくなって安定しているようにうかがえる。
この店に初めて足を踏み入れてから10年は経っている。店名の風待茶房はふきのとうのアルバムからの命名だ。壁にはご結婚10年おめでとうの色紙も見える。今のところ全国で一番の「ふきのとうを愛する」を自認するお店に思えて、なんとも嬉しい限りだ。
マスターは「柿の実色した水曜日」「運命河」を熱唱して吾を迎えてくれた。うれしいやら恥ずかしいやら、若き20代の頃の歌である。
ならばと「白い冬」で出発進行。2時間超えの記念日は始まり緩急新旧織り交ぜてつつがなく熱く終了した。最後は「水の底に映った月(徐福伝説)」
只今、吾の音楽人生のスタイルはギター弾き語りシンガーソング&ライターである。どちらかというと詩にシフトを置いている70代の日々である。家でもステージでも変わらぬ心持ちで臨んで、まるで禅問答のような感じで毎日を過ごしている。
非常に心の置き場が安定していてライブやステージが面白い。過去の歌のおさらいや、現在の歌の確認、発見など今昔物語を楽しんでいる。それもお客さんの前で共有している感もあって感謝、幸せモンである。おまけに今日は御祝のような感じで2曲も歌ってもらった。
「運命河」後奏で大胆にもやり直しをした茶房のオヤジはワンツースリーフォーとカウントした。待てよ、確か3拍子の歌のはずだったが、待てよあぁいいか、そんならセーノーで良いんじゃないのかと出番を待つ吾はおさらいをしていた。
混雑の3連休の中、大勢の皆さんと共にこの日を迎え過ごすことができたことに感謝感謝。

会場が一体となったライブでした


「風待茶房」オーナーの北野さんらと記念ショット

八千代ライブカフェ「凡(ボン)」におけるステキな土曜夕刻

2024年09月15日 | カテゴリー: 山木康世

今日は柏からの移動である。同じ千葉県内への移動であるので、少々高をくくっていた。おまけにマイカーのナビには新しい高速道路がデータされていなかった。
下道で1時間ほどで着くだろうと高をくくっていた。しかし実際の下道の渋滞さは尋常ではない。一つの信号を通過するのに3回も待たされる始末。これでは先が思いやられる。iPhoneのマップで行く。iPhoneには最新情報が載っている。流山高速、及び外環道がビスタナビには載っていなくて、道なき道を走る。やはり道路も生き物であるとつくづく思う。更新状況を教えてくれなくては意味がない。DVDによるカーナビを感じてしまう。2002年に乗り換えた車は、一変した世の中に付いてイケてなく、むしろ困惑さえ覚えさせる。親しんできた女性アナの音声を遮断、iPhoneの男性案内に身を任せた。
予定通り40キロを走り「凡」に到着。ママさんはわざわざ下まで降りてきて荷物の搬入を手伝ってくれた。意外と出来そうで出来ない歓待の実印。いそうでいない人に会って身体共に軽快となる。
ピアノの鎮座するステージは、毎日の空間に思いを巡らすと音楽のある毎日が頭を巡る。インテリアはヨーローッパ基調である。シックで穏やかなライブカフェは自然気持ちも穏やかで豊かになる。アメリカンフォークが基本であるが、年齢を重ねてヨーロッパの空気感が馴染むようになってきた。
今日もスタンディングによる2時間半のステージ。まだまだやり足りない時間であった。昨日の柏とは一味違う、ほぼ全曲総入れ替えの趣、メニューである。
「凡」は「平凡」であること。ことさら取り上げないこと、しかしフランス語「Bon」は「いい、ステキうまい」おそらくこの2つを加味して店名を決めたのではなかろうか。もしもこんな決め方をした人の店なら僕の性に合っている。さりげないステキさは平凡であるが非凡なのであるよ。
セシボンは「とってもステキだ」さりげない言葉だが、そんな歌もあった若き日の思い出。死語になってほしくないと思いつつデジタルの世の中に生きている。
八千代は非常に長い時間のこと。山木八千代も悪くない名前だな。また伺いましょう、皆さんありがとうございました。

ヨーロピアンなカフェでの昼下がりライブでした


店内を彩るのはガレやリヤドロ人形などホンモノの芸術作品

柏StudioWUUテリーズフェア

2024年09月15日 | カテゴリー: 山木康世

2時間スタンディングで配信は行われた。
先日の高槻の蔵におけるステージで復活した。ギターの作り出すリズムを体全体で作るのは座って作るよりも詩にマッチしているのだろう。妙に言葉が生き生きとしてくる。これは実感である。
ふきのとうの頃はスタンディングが基本であった。18年間立って歌っていた。やがてバンドが着いて弾くギターの役割が軽減された分、ギターへの追求はしばらく鳴りを潜めてしまった。
そしてソロになって座ってやることが当たり前のようになっていた。
今夜はテリーさんを偲んで、配信をテリーズテリーでまとめた。もちろんライブの配信であるのでステージそのものである。
あるギタリストはレコーディングにはYAMAHAを使っていた。1音1音はっきりした音が録音されると言うのだ。
倍音の多さで共鳴楽器ギターの良し悪しが決まってくる。しかしこれは生身の人の耳が感じ取ることが出来る良し悪しで、録音となると違ってくるような気がする。つまり人の耳ほど正確には再現し得ないのである。倍音が邪魔をするというようなことまで真起こってくる。音離れの良いYAMAHA系の音はマイク乗りが良いと言うことになる。
テリーさんはYAMAHAフォークギターの立役者だ。それから独立テリーズギターが製作され始めた。時は僕がふきのとうを止める2年ほど前ではなかろうか。工房に遊びに行って壁に掛かっていた1台の試作品に目が止まり、それが後にソロになってからの愛器となった。
もう1台は還暦の年に頂いたテリーズテリーである。裏版には亡き母への父親制作のダリア、バイオレットキミを精巧に再現して彩ってくれた。このギターの守護神でもある。還暦コンサートまでに間に合わせてくれると言ってたが時間になっても到着しなくてヤキモキした。最後のリハを終えて一段落というところで、客席の奥の方から声が聞こえてきた。「やぁ遅れまして申し訳ない」さっそくステージで弾いた思い出がある。GibsonB25のフルサイズでお願いしてあったのだが、果たして良かったのだろうか。しかし見事に弾き易さのために敢えて作ってくれた貴重で大事なテリーズテリーである。
2台は思い出と感謝を込めて30年ほどを総括的に2時間にまとめた。楽器は精神の延長戦上にある。何を思い時間を弾きこなすのか。若い頃には成し得なかった技術と精神が複合されて良い時間を過ごしている。
歌詞には更なる面白妙味を感じている。言葉のマジックは思い出のギターに包まれて、柏StudioWUUの空間を羽ばたいて、配信となって電波に乗って皆々様の元へ。
そしてテリーさんは黄泉の国への階段の半ばを過ぎた頃だろうか。聞こえましたか今日の晴れの音たちがステージを存分に飾ってくれましたよ。
テリーズテリーは永遠なれ!

ライブ配信で全世界の人が生ライブを楽しめます


「今日はスタンディングで頑張ろうかな」リハーサルで

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