墨田区両国亭に横綱梅ケ谷関を訪ねる
2024年05月23日 | カテゴリー: 山木康世
落語は「らくご」ではなく、「おとしばなし」と言われていた。大正14年にラジオ放送が始まって、落語も放送された。その時からの呼び名が「らくご」と書いてあった。それほど古い話ではない。僕の生まれる25年ほど前の話である。
最後に落ち、さげがあって、それが面白おかしく滑稽である。その落ちを聞きに高座に上がった落語家さんの噺を聞きに出かけて耳を傾ける。
考えてみたら歌も同じように「下げ」のある歌は長く名曲として皆の心に刻まれて親しまれるのであろうな。落ちの種類が笑いなのか涙なのか、はたまた喜びなのか、いずれにしろココロが幸福になる歌は名品なのである。
近頃シンガーソングライターと呼ばれることに抵抗を感じる。誰でも彼でも,猫も杓子もギター持って自前の歌を歌う人は、総じてシンガーソングライターである。タイトルが英語であったり訳の分からない言葉に落ちはなかなか見当たらず腑に落ちない歌が多い。
高座イコールステージだとしたら、ここのところをきちんと肝に銘じて下げれば間違いは少なくなるだろう。
ここの両国亭を訪ねて久しい。コロナ騒動以降なので4,5回だろうか。初めて高座を見たときのときめきを覚えている。その前にブロンズの梅ケ谷関のお出迎えがあった。なるほど両国か。これからお客さんとの取り組みを始めるのである。
初めは独特な色合いの幕にも気が付かなかった。高座に上がっただけで待ち受ける本番に心が躍った。前回からは去年の50周年以来の大旗を飾らせてもらってヤマキワールドに拍車をかける。今回は出囃子もうまく、幕開けも完璧だった。ただしアンコールでは、その場に板付で演らせていただいた。
20曲、2時間ほどの下げ歌,如何だったでしょう?落ち歌は腑に落ちてココロからの拍手をいただけたでしょうか。
梅ケ谷関の像を見て、人間、足腰は大事であるな。微動だにしない梅ケ谷関は今も暗がりの中ひとり中腰で客席の隅で四股を踏んでいる。
今年の誕生日南青山マンダラの翌日、10月23日に四股を踏みに参ります。5か月後は長いか短いか、今から落ちの有る毎日を過ごした結果のみぞ知る長さでしょう。
御多忙中、みなさま誠にありがとうございました。
今日も鬱陶しい梅雨の季節を目前に見事な五月晴れのお江戸でした。
小倉フォークビレッジ春の大感謝祭
2024年05月21日 | カテゴリー: 山木康世
人の力は偉大である。そこに人がいるだけでパワーが生まれる。
皆が食べたものが血となり肉となり骨となり、魂を作り出しっている。僕の発した音魂は中空を漂いそれぞれの耳から目から脳みそに入り込み肉体の何処かに存在する魂の領域でココロへ変化する。それが拍手、手拍子、笑い、涙を誘う感動と呼ばれる両者の絆となって永遠に刻まれる。
演者と聴衆にとどまらず、時空を超えて紙や写真では言い尽くせないナニモノかが存在して、そのひと時を魔法にかける。トランス状態とでも呼べばいいのだろうか。それはクスリや治療では治らない体を健康へと誘う。肉体だけで病気にはならないし医者も存在しない。根底には肉体の底に眠る精神、魂の持ち方で大きく左右するのであろう。気の持ち方はクスリ以上に大事な自分維持のためのタダで年取らず初々しくいられる神様からの贈り物と信じている。現代医学対処療法の限界である。自分にとって良い音楽を浴びているだけで若返る。年齢、時間だけでは老け込まない。それよりも目に見えぬ霊魂の存在を大いに信じて楽しまなくては生まれてここまでこれた時間がもったいない。
僕の生み出す音楽が、そんな風に空中を漂って元気の素となってくれれば幸いだ。僕自身の健康の源でもある。
わだかまり、いさかい、妬み、争いなどマイナスの思考には一切近寄らないでおこう。黙って時の過ぎるのを待つのも良いだろう。戦争や紛争などもってのほかだ。何を偉そうに国民や他の国民を犠牲にしての自国の繁栄があるもんか。彼の大英帝国の繁栄を見てごらん。誰が拍手喝采なんかするもんか。
コロナも一応終わったような感じの中、ビニール水槽からコンバンワではなく生身の空気の中で偉大なるフォークビレッジは大盛況の中終わりました。みんなみんなそこに集った人間たちのパワーのなせる時間でした。二度と再現できないlivelibrary、年齢相応の古きを訪ね新しきを知る良い夕刻でした。
翌日の福岡からの帰京は好天でつつがなくツアーが終了したことを大感謝いたします。
ママさんも今夜は衝立の陰で思う存分、寝酒ならぬ寝油を舐めていることでしょう。
皆さま誠にありがとうございました。またお会いしましょう!さらば北九州。
大分BRICKBLOCK脳みそ騒動
2024年05月19日 | カテゴリー: 山木康世
前日の深夜、久しぶりに宿で弦を張り替えた。気持ちは毎日張り替えて好きなGibsonを弾きたいのだが、意外と簡単に張り替えられない。まぁそれほど神経質に調弦を気にしなくても良いのかもしれないが、基本中の基本なのでキッチリ調弦したい。
入念にリハーサル後調弦したつもりでいたが、なぜか1曲目から微妙な響きである。どこか狂っている。それも冒頭なので重要である。「風薫る5月」が「風曇る5月」では塩梅が悪い。九州に来てからずっと青空の爽やかさ、歌の通りで毎日清々しく生きてきた。それがナント、好きな大分BRICKBLOCK、神様に申し訳ない。
やはりピッチが固定しない。まぁ良いか、この歌が終わったら再調整しよう。
♪風薫る5月 信濃路を後に♪
電車は発車した。と、突然ギターの中ではじけるような甲高いキン!という音がした。おそらく皆には気がついていないだろう。5弦の根音が1音ほど下がった。いきなり下がってしまった。脳内をかけめぐる対処法。このまま弾き続けては台無しの「風薫る5月」そこで5弦のポジションを上げて対処しようと脳みそが命令。脳みそがフル回転している。つまり開放を2フレット上げて弾くという至難の業をやれという命令。あと何回訪れてくるのか。少し弱めに弾いて少しでも難を逃れよう。原因が分かったので瞬間芸は4分ほど続いて、まぁまぁ終了した。生まれて初めての修練である。歌い出し早目の事なら仕切り直しもあったろう。歌い始め半ばのことだったので、これはやらないと脳みそが命令した。微妙なピッチの違いなら歌いながら5弦を調整できたかもしれない。しかしこの突然のダウンにはマイッタ!おそれ入谷の鬼子母神様である。
水と油で構成されているという脳みぞのシナプスは点滅接続中断と大忙しだったろう。ご苦労おつかれさーん。
みなさんも気をつけてください。弦を止めるピンの始末がどのようになっているか、十二分のご確認を。引っ張って確認しても、どこかに引っかかっている場合がなくもない。つもりはつもりである。
歩いていても有るはずの道路や階段が突然なかったりする。その結果、蹴躓いて転倒となる。わずかな段差を脳みそはないと判断してバランスを崩したりする。歳を行っての思わぬ転倒は骨折などの思わず事故へとつながる。過ぎたるは及ばざるが如し。ではないが気をつけたいものである。
2足歩行を獲得した人類は、他の動物と比類なき発達、進化、発展を遂げてきた。
今回のBRICKBLOCKは生涯思い出の日となったのである。
こんな微妙なあーでもないこーでもないと自らの脳みそと人知れず夕刻の決闘をしていたのである。脳みそを鍛えよう。水と油が分離してしまわないように脳みそを使おう。
人類は自らの手で人類を滅ぼしかねない愚行をやらかそうとしている。大馬鹿ものの脳みそは即刻思考停止、水と油の分離を大いに望む、で今回のちょっとした脳みそ騒動の報告をして一日の終わりとする。
みなさまお忙しい中、長時間気力体力胆力耐力誠にありがとうございました。またお会いしましょう。どうぞお元気。小倉へちょっくら歩を進めます。
※お読みの多くの人には解読困難、不可解な文章であったでしょうが、勘弁を。
福岡大名MKホール長い時間かけて作り出した豚骨スープの味
2024年05月18日 | カテゴリー: 山木康世
福岡の街は何かとお世話になった街である。
元才谷音楽事務所社長、スタッフの面々が全員福岡出身だった。キャンペーンやコンサートで福岡を訪ねると、本当に大歓迎を受けたことを思い出す。特に活気のある夜の街は、希望のある未来を感じたもので、デビューという輝かしい若き日々の良い思い出である。今でもその時代の元気さを受け継いでいる感じがして頼もしい福岡である。
旧くて新しい街、福岡、僕にとって大切な街の一つである。
おそらく大名が多く暮らしていたので、この町名がついたのだろう。人口は札幌よりも少ないのだが、街の持っている元気さは上のような気がする。県民性も加わって九州人の大らかさと素直さが良い感じで街づくりに反映されているような気がする。メディアも個性を大事にして独自の文化創りに励んでいるような。
何度もふきのとうは福岡でコンサートを行った。打ち上げの仕上げによく屋台のラーメン屋さんに行った。豚骨スープの味もそこで教わった。札幌ラーメンとは趣が異なり豚骨の濃い味わいが独特で印象的だった。
一人になって初めてホールコンサート。その時照明を担当した方が会場に来てくださった。アンコールは感激で涙ものだった。何度もステージをこなしてきたのに、一人で成し終えた安堵と感動で涙が出てきたものだ。もう30数年経過しているのだが、両者のココロは昨日そのものだ。
長いことやっていると歌だけの単純な出来や思い出だけではなく、得も言われぬ色合いのステージが出来上がる。時間の経過というものの成せる技である。
50年音楽人生の成果を出せて幸運だった。みなさんに感謝いたします。お忙しい中ありがとうございました。
福岡キャバンビートにぞっこん
2024年05月16日 | カテゴリー: 山木康世
コロナ騒動の前の頃なのでもうかれこれ4年くらい振りだろうか。店内に貼られたビートルズ関連のポスターが一途な音楽の店を物語る。おそらくマスターの趣味であろう。このようにはっきりした主張のあるお店はココロが集中できて非常に宜しい。
50年もやってきたのでもう引き返すこともできない。なんとか気持ちを一つに音楽に邁進するのみだ。歩いてきた道の後ろには道ができる。その人の道ができる。前に向かって藪をかき分けかき分け、また道が続いてゆく。
何と言っても音響が素晴らしい。演者の気持ちに寄り添って何気ないエフェクトや音のキメの細やかさを十二分に知っている。大胆にして繊細でなければお客様を前に2時間も音楽はできない。人と人が寄り添って音楽や声を介してなんとか一つになろうと聞き耳を立てて、自分の過去と懸命に話をしている。そこには日常にない独自の世界を醸し出す。それをお助けするのが音響やさんなのである。スイッチひとつで微妙な世界を脳内に作り出し、聞き手の独自の感情を作り出す。
デジタルの世界は音楽を一変させた。モヤモヤや曖昧さを、まるで目の前の霧が見事に晴れ渡るようにスッキリさせた。
梅雨の前の5月の爽やかな陽気は本当に心地が良い。適度な湿度と温度が相まって僕に心地よさを連れてきてくれる。ニュースを聞いたって面白くない。スマホの囁きもお気に入りも太刀打ちできない季節のダイナミックス。
やがて蒸し暑い夏本番が目の前だ。南国九州つかの間の初夏、川でカモものんびり頭を突っ込んで食事中。お尻と足が見えてるよ。
みなさまお忙しい中ありがとうございました。もう一日福岡滞在です。大名MKホールで今夜も幸福なひとときを過ごす予定ではあります。よろしかったらご一緒に。
メルマガ1001号に寄せて
2024年05月14日 | カテゴリー: 山木康世
めでたく1000号を突破した。昔のように長文を頻繁に書かなくなったとはいえ、若い頃には考えられなかった術である。30代の頃,新譜ジャーナルへの月イチの寄稿文にあくせくしたのが嘘のようだ。締め切り1週間前から胃が痛むほど悩んだものだ。
今は言葉を文字にする端末が格段に飛躍して、淀みなく文章にできるようになった。インターネットの普及によりいつどこでも繋がっていれば即気持ちを伝えることができる。そして双方で言葉のやり取りをできる。
若い人は圧倒的にネットに慣れていて、スマホを自由に使いこなしている。まるでそこに友だちがいるように心を通じ合わせている。
僕らはまだ機械というものを通してやり取りしている感を否めない。そうではなく空気のように電波を通して通じ合っている。
そこで配信(心)の件であるが、今までは一方通行のように有料で音楽や僕を見て聞いて楽しんで感じてもらったが、どうだろう、お客様同士の交流を持ち込んでみるという試みは。つまり例えば「心に冷たい雨が降る」を聞きながら、あーでもないこーでもないとその時の感情をやりとりするのである。複数であっても面白いかと思う。これは決して会場の方には流れない。メルアドの公開、交流を楽しみながら音楽を聞いてもらう。思い出を語るもよし、雑感を述べるもよし、夢を語るもよし。そうすれば今まで聞くだけの姿勢がグンとポジティブになって元気になること間違いなし。
環境や心情が整えば今すぐにでも早速試してみたいと思って筆を執った記念すべき出発の1001号に寄せて。
今に生きる楽しみ喜びを大いに感じよう。あなた次第の心次第できっと配信は配心になる。
戦争に行かなかった父 その2
2024年05月12日 | カテゴリー: 山木康世
悪性リンパ腫瘍に患ったときの元気のなさを思い出す。自分でも信じられない病気だったろう。57才から94才まで独居37年、それまで33才から57才までの24年が家族と共に生活。実に短い24年だったなぁ。母といる夫婦生活より一人で3年も長く生きた訳か。
父の父は77歳、母は95歳、父の自慢の姉は96歳まで生きた。長兄を除く、それぞれ父の3兄弟も90歳近くまで生きていた。父の兄二人は100歳近くまで生きた。
父はいたって元気だったので、それは僕にも継がれて遺伝されていることは確かなようだ。しかし幾つまで元気でいられると確かなことは誰も言えない。94才であの世に行ってしまったので、あとのことは残された家族や知人親戚が思い出すくらいだ。
従兄弟に聞いた話だが戦争にいかなかった理由のひとつに「自分の子供を残したくて行かない、行きたくない」これは本当の理由だろう。世間的には鉄砲の撃てない乱視が理由だったらしいが本当だろうか。しかしこれは素晴らしい心である。お国のためとはいえ国家を滅ばすような人間になるよりは絶対に正しい生き方である。戦後の形見の狭かったであろう父親を思うと不憫だ。なにかと同窓会や職場で逃げたくなるような場面が多々あっただろう。
モノを言わないダリアの花の栽培に命を捧げた理由のひとつにこの青春の苦い自分の立場があったかもしれない。当時の世界は力による屈服が男の仕事。果ては領土を分取りに駆り出される。奴隷制度ほどでもないにしても心の束縛は近いものがあっただろう。
最後に父の残した俳句を載せます。
花ダリア 山木紅果
太陽に 吐く息白く 霜の朝
鼻歌も 抜ける青空 袋かけ
チューリップ 品種それぞれ 自己主張
辛夷(こぶし)咲き 雑木林を 明るくす
見晴るかす 丘は輪作 麦の秋
コロポックル 棲み家侵して 蕗を刈る
懸命に 咲く花ダリア 吾が人生
~おわり~
東京我が町における中野シアターかざあなで風穴を開ける
2024年05月12日 | カテゴリー: 山木康世
天晴な五月晴れの下、ウクレレによる「お池のほとり」まぁこれは予想ができて久しぶりのカエルのゲロゲロもご納得。しかし若い時ほど勢いのない老齢のカエル。
続く「運命河」は果たしてどうなることやら。どうなったどころかギターより良いじゃん、と今日のかざあなLiveを占った。ウクレレはギターより弦が2本少ない4本である。その分声を出していてシンプルに届くような感じで歌いこめる。音の厚みはギターより少ないが、その分ストレートに届くようである。もちろん弾き手にはそれなりの技量と時間が必要とされる。本場ウクレレには1000以上のコードがあるという。
今日は愛器Gibsonb25、1本で臨んだ。本来もう1本テリーズテリーのガット仕様があるのだが、今日はLive中にオープンDとレギュラーで楽しんだ。
「星空のページェント」転調はやはり苦手である。頭が混乱の極みに。しかしこの脳の活発さは、歳と共に無理してまでもやるべきである。レギュラーで演じると黙っていてもまぁ無難にこなせる。しかしオープンDにおけるEmキーソングスは不思議な魅力を持って僕に語りかけてきて4分ほどを演じ切る。脳ミソはフル回転である。このコードでしか聞こえてこない音の微かなささやきに耳をそばだてながら次の展開をしなければならない。
今、このコードフォームにおける往年の楽曲を洗いなおしている。作者自らによる時間の経た歌たちに、今の息吹を吹き込んでいるという感じだ。
「ビードロの夏」「案山子と人と烏」「奴凧」など新鮮な気分で終えることができた。一言で言うと「工夫」なのであろうな。「工夫」によって滞っていた脳のよどみを自ら元気にさせる。渋滞解消時の気分だな。
てなわけで「かざあな」において我が脳ミソに風穴を開けることができた、5月の半ばの我が町のLiveLibraryはおもてなし気分で裏のない良いLiveができましたとさ。
みなさんありがとう、今週は九州へ旅を続けてくる。アディオスアミーゴ!
戦争に行かなかった父 その1
2024年05月10日 | カテゴリー: 山木康世
父は果たして本当の父親だったのか。僕がこの世に来る前の話なので誰もわかる話じゃない。役所だって大勢の人の記録をとっているだけで知ったこっちゃない。結婚の儀を挙げた札幌中央区の三吉神社の当時の宮司に聞いたって分かるはずもないし、当然生きていないじゃないか。
DNA鑑定も良いだろうが、もうこの世にいない父親のDNAなど、お別れの無言で焼かれちまった骨以外なにも残されていなくて宇宙にすら存在していない。まぁ手がかりとして分かるような話をすれば、少し顔立ちが似ている。自分で性格が似ていなくもない。これは想像するしかない。そうか骨の鑑定でのDNA抽出は現代の科学では可能なのか。
いろんな思い出の情景・場面で、生前の父親が確かにこんな感じで家族に接していたな、とか、こんなことを口にしていたとか、嫌だったなぁとかを思い出す。
父はカメラ愛好家でライカの高価なものを持っていた。オリジナルダリアの新作を撮るためだったようで、家族の写真とかで撮られた記憶がない。新年などに家族が集まったときに撮る機会があって、いつも時間がかかりすぎて家族は呆れるのが常だった。
仕事の手伝いをするとき父は詳しくあーすれこーすれを言わない。昔の人間は手取り足取りではなく、自ら見て触れて覚えろというわけか。要するに察すれと言うこと。これが苦手だった。
僕の好きな思い出のひとつに、小学生の頃、父と外出するときバス停までよく手を繋いで歩いた。そのときよく握った手をモゾモゾと動かしていたことを妙に思い出す。無意識だったのか意識的だったのか。末っ子で人一倍かわいかったのかなぁ。
父は晴れて国家公務員を60歳で退職、札幌の実家から50キロほど離れた早来に土地を購入、家を建てて念願の若い頃からのダリアの花作りを誰にも時間にも邪魔されず始めたのである。
父は70歳で免許取得、自動車学校開設以来だと自慢していたな。あの世で今時の高齢者の事故をどのように見ているか。何年乗車していたのか、80半ばに返納、その間にずいぶんと楽しんだのだろうな。札幌にはなかなか出てこなくて、近くの田舎の駅に停めて電車で来ていたもんだ。千歳までよく送ってくれた。時間になるとソワソワしていたのを思い出す。ハンドルには遊びが必要だといって必要以上に遊んでいて、助手席でドキドキしていたが、あまり口に出して言うに言えない空港までの懐かしい時間があったなぁ。別れた後無事家に帰ったか心配もした。本当に好奇心の強い人で何事にも関心を持った興味の尽きない人生を楽しんでいた感じのする人だった。
「風薫る五月」ミュージックレター有料版で配信開始です
2024年05月10日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
ミュージックレター有料版 第4弾「風薫る五月」配信開始です。
ふきのとう時代、長野のコンサートから特急に乗って東京に帰るときの爽やかな車窓風景を眺めて作った歌です。
今回の山木流アレンジでお送りしています。
各契約サイトでお聞きいただけます。
ダウンロード販売も実施しています。ぜひ、お聞きくださいませ。
「春の雨」「春は雨と桜を連れて」「おれんぢぺこ」も 絶賛販売中です。よろしくお願いします。