となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

ライブが町にやってきた2

2010年06月21日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

「みなさーん。おはようーございます。しぶジジ隊です。お元気ですか?今朝も我々の往年の歌でお目覚めいかがですか?それでは1曲目、100%SOSかもね、をお送りします、あっやばい、大きな口を開けたら入れ歯が落ちてしまいました」中心的存在のじじいはかがんで拾い上げて、口に戻そうとした拍子に前へつんのめりをして一回転した。「キャーァ」黄色ではな黄土色の嬌声が場内に響き上がった。しかし大事には至らず、幕の袖で控えている医師は胸をなで下ろした。

「やっぱりやってくれたね、合掌合掌」両手を挟んでお祈りしている老人が大勢いる。特に女性が多い。中には「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」と一緒になって歌っている人もいる。

やがて1部が終わって休憩である。みなはロビーへ。薬を飲んだり、膏薬を貼り替えたり、もちろんトイレに駆け込む人も大勢いる。すっかりくつろいで長いすで眠っている人もいる。どういう訳か半分は帰ってしまった。中身が良い悪いの問題ではなく、集中力の欠如、もう1時間も聞けば満足のお年頃なのである。これから畑仕事をちょっとして昼飯を食って昼寝をして、午後からはまた違うアイドルのコンサートに出かける人もいる。もちろん楽しみな病院ロビー井戸端会議に出かける人もいる。

会館では半分に減ったお客さんを前に「それでは最後の歌、真夜中を突っ走れ、聞いてください」どこまでもアイドルはアイドルだ。ステージで振り付けもよろしく、足並みのそろわぬダンスを演じて終演となった。幕の下りたステージ上では出演者が皆ゼイゼイ言わせて座り込んでいる。やがて車いすが現れて楽屋へと移動。アンコールなどと言う時間外勤務を促す客もおらず、すでに飽きて途中で居眠り、帰る客、会館は興奮のるつぼにはならず、まさに押し寄せた波が引けるように一気に冷めてゾロゾロと口々に呪文を唱える帰りのお客をはき出した。表に出るとまた今日一日が熱くなりそうな予感の太陽がギラギラと中天にかかろうとしていた。

じいちゃん、ばぁちゃんたちはあんなに早く起きて、コンサートも見終えたというのに、ブログがこんなに遅くなって申し訳ないっす。

ライブとかけて楽天の好きなピッチャーの試合と説く
その心は「幕(マーくん)が上がって始まり、降りて終わりとなる」寝ずっちでした。
END

(山木康世)

ライブが町にやってきた1

2010年06月20日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

時は西暦2040年、北関東山間の町。時代はデジタルの進化で生でコンサートや演劇を見ることが滅多になくなった。もっぱら立体画像によるパソコンコンサートで済ませる時代になっていた。ライブを観るのは本当に久しぶりである。市民会館も蜘蛛の巣状態で眠っていて、みんな今日の日を待ちわびていた。みんなと言っても昭和を青春で過ごした、じいちゃん、ばぁちゃんのみんなである。

時間は7時。なにやらロビーは男女の年寄りでいっぱいである。みんな同じような格好をしている。上下のジャージ姿に男はキャップ、女はスカーフを巻いている。時間はというと7時を回ったばかりである。夜ではなく朝の7時である。額にはうっすらと汗をかいている。これから好きなミュージシャンのコンサートが行われる、市民会館に聴きに来ているのだ。皆の若い頃のアイドルグループが復活をしたのだ。実に50年ぶりと言うから恐るべし長寿国。平均年齢80歳。誰がってかい、お客さんじゃないよ、グループの4人の年齢だ。
ワーイッ、ライブが町にやってきた!

お客さんは朝の4時頃からすでに起きているらしい。新聞が届く前に起きていて郵便受けの前で待っているとも聞く。新聞を読み終えると公園のグランドに集まってラジオ体操をするのが日課。ラジオ体操のメロディーも昔流行った第一体操とかじゃない、その昔のアイドルのヒット曲だ。なんともオリジナルな踊りのような体操が今、密かなブームと聞く。
そしていったん我が家に帰って軽い朝食をとってから市民会館へかけつけたのだ。
「今日はどんな歌をやるのかね?デビュー曲はもちろん、ヒット曲を聴きたいモンだ」
「他の地区での演奏では何でも最近のオリジナルをやったそうで不評を買ったそうじゃ。この年になってオリジナルなんてこっちにとっては関心がない。なんでも仏像の歌や、神様の住まいとか永遠の故人とか黄泉の国へご案内なんて歌もあるそうじゃ」
「いやだね、そんな年寄りじみた暗い歌じゃなく、もっと明るい老後の歌を聴きたいモンだね。不老不死の歌とか夢見る老人とか聴きたいね」
みなはゾロゾロ会館の中へ入って行った。やがて開演のベルが鳴る。
(山木康世)

お節介と親切4

2010年06月19日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

さて目出度くお疲れモードで目的地に着いたとする。ちょっと息抜きに国道沿いのパチンコ屋にでも入って3日。パチンコ屋の店員は聞いてくる。何か8日9日10日。やがて席に着くやいなや、天井からBossスピーカーによる大音響で注意事項がアナウンスされる。それでなくとも店内は騒音、轟音のるつぼだ。音楽さえも聞こえてくる。誰も聞いていない。どうせかけるなら軍艦マーチにしてくれ。古いな。場内で違反行為が、不正行為が行われ発覚した際は速やかにご退店願います。ご退店いたしかねるお客様は速やかに警察に通報いたします。それでは規則を守って時間の許す限りどうぞお楽しみください。当店はいくらふんだくっても一切の責任は負いかねます。とは言わないが、何度も店からの規則がきつく年端のいかないお姉さんの甲高い声でアナウンスされる。聞こえて意味が分かればいいのだが、聞き取り意味を理解するにはかなり店に通わなければならない。負けが込んでいる時は、うっるさーい、うるさいと叫びたくなるのが人情というものだ。そこのご理解よろしくお願い申し上げます。

そしてホテルで一休み、お目当てのコンサートを見に行くことにする。ここでも開演前に年端のいかない女性のアナウンスが入る。禁煙でございます。カメラ、携帯による撮影は一切お断りいたします。テープレコーダーによる録音等も一切お断りいたします。アーティストに迷惑のかかるような行為を一切禁止いたします。もしもこれらが守られないような場合には、ご退席、時には公演の中止と言うことも考えられます。みなさまどうぞマナーを守って最後までお楽しみください。それでは開演までしばらくお待ちください。ここでは「しばらく」は使わない方が適している。お客はそれでなくとも待ちわびているので、「まもなく」と行きましょう。もう言うことはないかい?

そして終演、ホテルに戻る前に居酒屋で一杯。ここではあまり言うことがない。何せ酒が入れば良いのだから。ほろ酔い気分でホテルに戻る。ノートPCを開き今日の日記を付けるとするか。「ワード」のお節介に舌打ちして、またか、この勝手なマイクロソフト開発者を罵って何をやっても思い通りに戻らない操作に頭に来て、あーやーめた、寝るべとなる。古いバージョンのソフトの方が遙かに使いやすいというものがたくさんある。開発者がバージョンアップのために仕事を作って、いらぬお節介な操作を考えつくわけだ。そんなの使用者が個人で考えればいいものを。所詮文章を書くくらいが関の山だっちゅーのに。見栄えの良い書類を作るほんのわずかな人を対象に、がんばるモンだ。Windows→Vista→7へのアップも考え物だ。手取り足取りなど考えてくださらなくて結構です。それよりも安くアップしろよと言いたくなる。バージョンアップという昔はなかったおもしろくない言葉。みなさまほどほどによろしくお願いいたします。

それでは、これにて「お節介と親切」は一件落着。
(山木康世)

お節介と親切3

2010年06月18日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

目的駅に着いたとする、さてホームで電車を待つ。ここでもまたアナウンスの多さに閉口する。何度も何度も次の電車の案内、女性のコンピューター声に始まり、駅員の過剰な案内。最後は黄色い線までお下がりください。まるで国民全員を子供扱い。それも言うことを聞いているのか、聞いていないか分からないような子供への扱いだ。何度も何度も確認、警告、案内。これは新幹線でも同じだ。
横道に逸れるが、新幹線は乗る電車が目の前にいるのに乗ることが出来ない。出発時刻10分くらい前にならないとドアが開かない。故に始発駅なのに並んだりする。社用で出かけるサラリーマンばかりではない。旅行を楽しみに初めての新幹線利用者もいるのだ。彼らは早くから来ているのに、過剰な車内清掃とかでなかなか乗り込めない。寒い風が吹くなかでも平気で待たせるのだ。それほど汚れていない床や頭を載せる白い布を交換しなくてもと思ってしまう。早く乗り込んで、駅弁買って、新聞買って、お菓子を買って、お茶を買ってと出発前の喜びにもっと応えるべきだ。そして窓の外に見える大井川や富士山の案内なども良いと思うけど、静かに寝たい人にはお節介か。

さてそんなうるさい電車を乗り継いで空港へ。ここでも終始アナウンスに閉口する。どこどこ行きの飛行機は何番ゲートで案内しております。何時までに受付を終えてください。何時までにお入りください。云々…
しばし静かな空の旅を終えて目的地に着いたとする。荷物引き取り、ここでも女性職員が声を荒げて、荷物をくれぐれも間違えないでお引き取りくださいと半ば怒声にも聞こえなくない。言われなくたって、大事な自分な荷物だ。間違えてもすぐに気がつき元に戻す。そんなことみんな当たり前でできる人ばっかりが移動しているというのに、何かおかしい人への親切心に見せかけたお節介という厄介者。分からない人への親切はありがたい。過剰ではなく、本人に考えさせる部分もあっていいのだ。

提言する。静かな日を国挙げて設けて試験してみる。公共乗り物アナウンスを一切停止してみる。果たして混乱がどの程度起きるであろうか。掲示板は実に見やすいデジタル表示で公共の場で行き先が分からないということがなくなった。それでなくとも騒音にあふれている大都会である。静かになること間違いなし。もしも目の不自由な人がいて困った状況に遭遇していたら、そのときこそ本来の親切心で彼らを導いてやればいいのだ。人と人が自然に近づく。そんな優しい社会を本当は目指しているのではないのだろうか。それとも人への介入は本来煩わしいものと考える人が世の中をデザイン、設計してあのような無味乾燥な公共アナウンス洪水状態を作り上げているのであろうか。

フランスの地下鉄は実に静かだった。次の駅名案内などなくてもみんな普通に静かに乗っていた。3人のジャズメンが車両の一隅で演奏していた。中には良い演奏があると拍手をするご婦人もいた。しかしほとんど無人の自動改札口で飛び越えてキセルする若者も多く見かけた。
To be continued
(山木康世)

お節介と親切2

2010年06月17日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

バスで通勤、やがて車内に流れるアナウンス。女性の声のテープが流れる。そのアナウンスが終わらぬうちに運転手の声が流れる。これはお節介、本人は気がついていないがうるっさいのだ。仕事熱心なのか、はたまたあまり忙しくない暇をもてあましてのことか。全国のバスがワンマンカーになって車掌さんがいなくなったのは合理化の津波の到来からであろう。

昔は車掌さんが必ず乗降口に立っていてアナウンス、切符の販売をしていたものだ。女性が多かったがたまに男性の車掌さんがいたりする。名物車掌さんもいて、車内が和んだモンだ。車掌さんは忙しい、次の駅名を告げなければならない。切符を買っていない人に切符を売る。あの小型の黒の革バックを首からぶら下げて、パンチでパチンと印を入れる。道も今ほど良くなく砂利道が多かった。揺れる車内をつり革を操って声をかけて歩く姿が鮮明に残っている。実にエネルギーあふれる情景である。客だってジッとしていられない。揺れる道路につり革に、どこかに手をしっかりついて転ばぬように保持することに懸命だ。もっと揺れないバスに乗れないものかしら。道路も穴ぼこだらけ、雪が解ければぬかるみ、乾けば埃で目も開けられない。

ずっとそんな時代が続いていた。そのうちカセットテープなる代物が安価で誰でも利用できるようになって、人減らしが始まった。しかし案内はできても、車内の人への配慮やサービスに行き届くはずもない。そして誰も聞いているようで、アナウンスを聞かなくなった。おまけに若者はヘッドホンで耳を塞いでいる。

道路は整備され、確かに乗り心地は格段に良くなった。しかし人間はと言えば合理化、合理化でお金には換えられない、人が寄り集まって一時共有する空気感が消滅した。果たしてこれは会社として、国としてプラスなのかマイナスなのか。

ちなみにバスの乗り降りは前ドアか後ドアか。先払いシステムだと前ドアからで東京ではこれが一般的。後払いは後ドア乗りとなる。これは札幌では一般的。どちらが良いか?前ドア後払いシステムは、後ドアが開いた時、良からぬ客がそのまま失敬して降りてしまう可能性がある。故に前払い後ドア降りが事故が少ないと見た方が良い。
To be continued
(山木康世)

お節介と親切1

2010年06月16日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

昔読んだことのある本の中にお節介とは、「たとえば粘土をこねて焼き物の器をを作ろうと一人で楽しんでいる人の横に行って、あーでもない。こーでもないと差し出がましいアドバイスをして、終いには自分で手を出してこね始めるようなものだ」のような内容のことが書いてあった。言い得て妙であると合点がいったことがる。本人は親切心で口を出したつもりが、相手からすれば要らぬ発言となるのだろう。お節介と親切は似て非なるものである。

近頃このお節介が巷に氾濫している。特に公共サービスは、親切な世の中の時代からお節介な時代へ移行しているような向きもある。個人レベルではまるで無関心がはびこって、エゴイズムが蔓延、増殖しているようにも見える。
しかし国の借金が国民一人あたり600万円ほどもあると聞いたりするが、ピンとこない。この国は本当に次のギリシアのように破綻の危機を迎えている国なのだろうか。その破綻を来そうとする国が、子供手当と称して毎年20数万円も全員に出したり出来るのだろうか。国のデジタル化などを国民の気持ちも聞かずに一気に出来るものなのだろうか。

公共アナウンスはいかにも親切心にあふれているように見えるが、実は大多数にとってはお節介になっているかもしれない。
昨日の最後の言葉「丸い卵も切りようで四角 ものも良いようで角が立つ」含蓄のある言葉である。これに継ぎ足そう。「ものも言いすぎで腹が立つ」
To be continued

(山木康世)

Windowsにおけるショートカットキーヒント

2010年06月15日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

■ネットを見ていて、前に戻る作業はしばし行われる。エクスプローラーの左上に左右の矢印がある。左向きの矢印が戻るであるが、ここにいちいちカーソルを持っていってクリックしなくても、Backspaceで前の画面に戻ることが出来る。テキストなどでは前の文字を消すときに使うキーである。画面を一気に下にスクロールするときは、真ん中下にある大きなキーSpaceで、上に上がりたいときはShift+Spaceで行ける。これはFn(ファンクション)+PgUp、PgDnでも同様なことが出来る。
ちなみにDeleteキーは後ろの文字を消すときに使えるが、Macではこのキーがない。使っていく内に両者の開発考え方の違いが分かってくる。一つにこのキーの存在と、右クリックの存在である。Macのシンプル性はこのキーが象徴している。打鍵していて次の操作を考えるときに選択キーが少ない方が快適である。楽をしようと多くのキーを用意してくれるのは一見便利なように思えるが、使いこなしていく内に煩わしく思えてくる。これは慣れもあるが、良いか悪いかの評価は基本的な思考の違いで変わってくる。僕はMacの考え方の方に軍配を上げる。
■多くのアプリやファイルを開いているとき、母親にお使いの用事を頼まれた訳ではないが、デスクトップに用事があって行きたいときがある。そんなときには、Windowsボタン+Mで開いているすべてが折りたたまれて下のタスクに収容される。そしてデスクトップが現れ出でる。
次のショートカットは覚えておくと大変に重宝する。
■コピーはCtrl+c
■ペーストはCtrl+v
■切り取りはCtrl+x
コピー、ペーストに関して初めてパソコンを使い始めたとき、この言葉の違和感に慣れるまで時間を要したことを思い出す。今までの生活に出てくるコピーとは、複写「した」で「する」ではなかった。それがパソコン用語ではいつも未来形なのである。過去形はペースト。この言葉に慣れるまで本当に時間がかかった。

僕が初めて買って覚え始めたのはMacだった。Windowsはそのころいちいちコマンドで命令をしなくては作業にならなかった。このコマンドをいかに覚えていて、使いこなせるかが出来る奴といけない奴の違いであった。。その点Macはアイコンをクリック、ダブルクリックで仕事を始めることが出来た。そのうちWindows95になってMacと同じようにアイコンの世界に突入した。
MacとWindowsは区別がつかないくらい似通った環境になってきた。
ショートカットキーを覚えると、アイコンまでカーソル移動をしなくとも、素早く動作が出来るようになる。基本中の基本を数個覚えるだけで格段に作業が早くなる。
しかしメモリやハードディスクが巨大になりCpuが高速になったとしてもWindowsを日本人が使うときに、最初に戸惑う事例を言っておく。
英語と日本語切り替えを頻繁にしなくてはならないということだ。勝手に英語入力に戻っていることに何度腹立たしく思ったことか。これは初心者には本当にややこしい問題だ。一度日本語に切り替えたら、アプリケーションや他の画面になったとき英語に移行しないでほしい。Macはすでにとっくの昔に解決してる問題だ。Macの場合は強制的にしなければ切り替わらないのだ。

それでは諸君、多くのキーを眺めながら、何でこんなにたくさんのややこしいキーがあるの、と口角を下げて舌打ちしないで励んで慣れて下され。思っているほど問題解決は困難ではない。所詮同じ人間が考えた代物である。要は慣れである。それよりもやっかいなのは自分の殻に閉じこもったまま這い出てこようとしない先入KANという奴である。
我が国の総理大臣もイラKANから季節柄、夏みKANのようなイメージでさわやかな清涼KANで行ってもらいたいものである。
今日は燃えるゴミの日か、燃やせるゴミの日か、考えかた次第で言葉遣いも変わってくる。

丸い卵も切りようで四角 ものも言いようで角が立つ
(山木康世)

プロレスが好きだった3

2010年06月14日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

■ジャイアント馬場は千歳空港ロビーで数人の連れと歩いていた。2メートル9センチはやはりでかい。すべてが大きい。パーツのそれぞれが普通の大人の1,5倍はあるであろう。足は確か16文、一文は約3センチなので48センチ?まぁシューズを入れての長さだと思うので、45センチはあったのだろう。馬場が飛んで両足でドロップキックになると32文となる。馬場はいつもほほえみを浮かべていたようだ。あの薄ら笑いが好きだった。
■アントニオ猪木は羽田空港ロビーで一人でいた。猪木は馬場とは対照的に正統派のスポーツ選手のようにあまり冗談を言うような感じではなかった。馬場がいなくなって、俄然キャラが変わってきて、素人の希望者にビンタを張るというのも独特のサービスになった。このビンタを受けたくて行列が出来るのであるから、いろんな人間がいるもんだ。猪木がメキシコのタバスコ日本代理店をやっているというのを知ってから、彼へのプロレス一途というイメージが変わったものだ。
■ラッシャー木村も好きだった。北海道出身というのも親しみがわいた。彼は力道山ばりの黒のタイツを履いたスタイルだった。マイクパフォーマンスがいつしか彼の十八番にもなった。独特の木訥とした話し方で、みなさんコンバンハとか、みなさんコンニチハで始まり、場内は今までの緊張が一時ゆるんで和み独特のムードが出来たもんだ。何度も切れて治った額の何本もの傷跡も思い出す。彼は決して本気で怒ったような顔をしたことがない。
■西武新宿線新井薬師駅から少し新宿方面にいったところに、中井という町がある。中井駅の近くに「かんちゃんの店」と称したキラー・カーンの店があった。一度行ったことがある。今はどうなっているのやら。女性がいるお店で、キラー・カーンも接待していた。日本人離れした大型レスラーだった。ずっとモンゴル人かと思っていたが、調べたら新潟出身の元相撲取りだという。技も大技でチョコマカチョコマカ試合をするようなタイプではなかった。脛まであるブーツが足を長く大きく見せていた。ヒールだったのか、ときにはヒーローにもなっていたような気がする。
■ふきのとう時代、寒い夏の釧路で、プロレス軍団と一緒になった。打ち上げの居酒屋で同席した。なんといつもは敵味方の連中が一緒になって和気藹々と酒を飲んでいた。こちらを認めたかどうか分からないが、新日本の選手だった記憶がある。確か5,6人いたと思うが店内が見事に狭苦しくなっていた。大きな手でビールジョッキを、まるでコップ酒のように空けていた。脂ののった釧路のホッケの開きは最高だ。大皿が隠れるほど大きなホッケは、それだけで腹がふくらむ。レスラーと一緒のビールとホッケを食った夏の思い出。決して挨拶をして、話をしたということはない。遠巻きに眺めていた。スポーツ選手は絵になるとつくづく思う。
■そんなこんなで昔臭く少々野暮ったく愛嬌のあるレスラーのプロレスが好きだったというわけだ。今はテレビ欄を見て、朝から夜のプロレス番組を待ちわびると言うことがまったくなくなった。
(山木康世)

プロレスが好きだった 2

2010年06月13日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

我が家にテレビがきたのが中学の2年の時だった。父は大枚をはたいてカラー18インチを買ってくれた。NECの4本の足つき大型豪華テレビだ。もちろん床の間にデンと座ってもらった。日本は東京オリンピックで持ちきりだった。父もそれまでは子供たちの学業がおろそかになるとして買ってくれなかった。それが家は建てるは、カラーテレビは買うはで家族へ大判振る舞い。父にとっては一生一大、清水の舞台から飛び降りたのだろう。父の年齢を計算すると、今から46年前、父が生きていれば97歳、ということは51歳の大勝負ということだったのか。やったね父さん!
7時からの新日本プロレスアワーだったと思う。日本人同士の戦いだったが、誰と誰が戦っていたのかは記憶にない。レフリーは地味な感じの阿部レフリー。これはしっかり記憶している。

おそらく時間内に勝つであろう一人が相手のパンツに手をかけて逆さまに、垂直状態に持ち上げてそのまま落とした。これは危険な技である。頭から落ちたら首の骨を骨折しかねない、と素人の目には映るが彼らは計算、打ち合わせ済みの技なのだろう。ドスンと落ちて、そのままフォールに行った。阿部はカウントを始めようと床に低く体制を構えた。そしてカウントをしようと右手を床にたたきつけようとした。そのとき阿部は相手のパンツの脇から、なにやら黒々としたものがはみ出ているのを見つけた。阿部はとっさにそれを映しているであろうテレビカメラのレンズを見つけた。阿倍の動作は機敏であった。始めようとしたカウントを中断。右手でパンツをグイと引っ張って隠した。見てはならない。全国津々浦々にこんなものを見せてはいけない。素早かった。瞬時に隠れた茂みを、何事もなかったかのようにカウント始めた。
やれやれ、きっちり時間通り勝負は終わった。私の業務もこれにて終了。阿部は勝者の片腕を大きく持ち上げて、これからはあまり大技をしないようにとささやいたとかしなかったとか。
(山木康世)

プロレスが好きだった 1

2010年06月12日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

力道山時代ではなく、その後の豊登、吉村、吉の里、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、ブラッシー、デストロイヤー、などなど続々と数え上げたらきりがない。30代まで続いた。やがて漫画から抜け出してきたようなヒーローや仮面レスラーがロープやポール最上段に上がったりしてきた頃から熱は冷めていった。
テレビがほしくて、見たくて本家に金曜日の隔週「三菱プロレスアワー」が一番の僕にとっての黄金期だ。
この頃の構図は、ヒーローがヒールをたたきのめすのではなく、悪役の相手は外国人だった。アメリカ人が基本で、こいつをたたきのめすことで茶の間は大興奮、大人は溜飲を下げていたものだ。その背景には先の大戦で原子爆弾などという卑怯手段を使って我が国を滅亡させたアメリカ人に矛先は向けられていたのだ。国だって日米安保条約などを結んではいるが、内心今に見ておれと静かなる内に秘めたる敵愾心でいっぱいだったのだろう。父も体を揺さぶっておもしろそうに見ていた。
この時代のプロレスには音楽など無縁の世界だったようで、番組のオープニングとエンディングに局のテーマが流れるだけで、入場時に個々人のテーマ曲が流れるなど想定外のことだった。
試合を真面目にやっているように見せて番組を盛り上げるのはレスラーばかりではない。レフリーだって試合をおもしろく見せるためには立派な陰の立役者だった。あるときは本当に敵の味方をするように振る舞う。わざと見て見ぬふりをして観客を沸かせる。見ている方は分かっているのだが怒り心頭に発する。沖 識名、ユセフ・トルコが二大名レフリー。その後新日本プロレスという団体が出来て、そこに所属していた阿部某も知名度があった。
その阿部レフリーの思い出を一つ明日記すことにしよう。お楽しみに!
(山木康世)

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