僕らは夜明けを待っている
2010年05月11日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
民主党の参院選の戦いで、柔道のYが擁立された。そのほかどうなってるのと言いたくなるような、過去のスポーツ選手が他の党からもこぞって票集めに駆り出されるようだ。 普天間基地問題で大混乱の米国への返答を前に日本は何を考えているのだろうと思ってしまった。彼らに何ができるかはっきりした眼で見なければ、この国は終わってしまう。そしてスポーツ選手は金メダル、1位を幼い頃から親や先生にたたき込まれたはずだ。その人が弱い立場の人の気持ちになって物事を考えらるのだろうか。金メダルを必要としない人は大勢いるはずだ。それよりも住みよい社会作りが優先されるべきだ。
アメリカが核を持ち込んでいた事件は、日本側の暗黙の了解があったと結論づけられた。日本とアメリカの間で解釈の違いがあったが、日本側はアメリカとすり合わせをせずに閣内で話し合い、アメリカに気を遣い暗黙の了解をしていたのだろう。
「どうだろう、アメリカは来月核を積んだ船が寄港したいと申し出ているのだが」
「非核三原則に基づいて断りでもしたら、今後日本防衛でアメリカがどのよう態度を取るか分からない。ここは知らなかったということで国民に白を切るという手で乗り切ろう」
「私も賛成です。こと核に関しては大広げに議論しても結論がすぐに出るという単純な問題ではない。結論が出る頃、我々は全員お隠れになっているだろうが、時間が解決してくれるだろう」
「そうだな、嘘をつきたくはないが真実を言って混乱させて冷静に判断できない元、最悪な結論は是非避けなければならない。嘘も方便、方便」
「神の領域に触れるような核の存在を知ってしまった時から人類の悲劇は始まった。核の持つジレンマに我々は悩まされることになったのだ」
「人間は自己保身に基づいて、生き延びようとする。それぞれの立場でそれぞれ議論し始めると結論など出るはずはない」
第二次世界大戦で日本は核を頭上に落とされた。一応終結と見えたが始まりであった。核核戦争に勝者はない、ということに人類は気づいた。両者とも破滅するのである。破滅しないために、持ってはいるが使えない、使わない。そのためには両者が努力して仲良く強調して生きなければならないということを強いられた。米ソが冷戦状態に入ってから、どれだけの大金をつぎ込んだのだろう。核など開発しないで、それだけの大金を他に使っていたらどんな世界が待っていたのだろう。それとも人間は愚かな存在なのでまた未曾有の戦争をして、破滅寸前のところまで持って行ってるかもしれない。
20XX年とある日
馬鹿なことを決定した人間をどうすることもできなかった国民。国民の代表であるはずのトップと国民の立場が逆転した。トップのために国民は犠牲を強いられる。こんな馬鹿げたことのために僕らは生まれ、生きて行くのではない。死の灰が降りしきる核の冬の日、呆然と立ちつくして空を見上げていた。
コックンヘ
君の応援は僕を大いに元気づけているので、あまり考え込まないでほしい。ユーチューブの音源の件だけ僕の気持ちを考えてくれればそれで良い。紹介してくれるのは本当に有り難い話だ。そしてその先にあるかもしれない面倒な話、聞いた人それぞれの問題を書いただけだ。コックンはおそらくきちんと僕のCDを買い求めて紹介してくれていると思う。しかし中にはアルバムなど必要はなく、1曲だけ聴いてみよう、コピーで終わらせてしまおうという人がいたらCDが売れなくなると危惧しただけの話だ。福岡、熊本での熱い応援をしっかり覚えている。これからも独特のコックン節でくれぐれも応援よろしく頼む。
(山木康世)
飯田絵布後始末記
2010年05月10日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
夢を見た。
パソコンを保護するインナーバッグが見あたらない。昨日の店へ戻ってみた。長いトンネルを歩いたらおばあさんたちが大勢いて何かをしている。トンネルなんかあったかなぁ?昨日の若いスタッフや社長らが一人も見あたらない。
地面を見ると泥の中にインナーが落ちていた。どうしてこんなところに落ちているのか。しかしよくぞ店に戻ったものだと思いトンネルを戻ると、昨日降ったらしい雪がたくさん積もっている。トンネルの先が明るい。今日は夏タイヤでどうやって帰ろうか、帰れないのではと思いホテルに急いだ。
社長に挨拶をしてから返ろうと思いまた引き返す。今度は昨日のスタッフの他にも大勢の男女が集まっている、そしてお笑いのSもいる。Sはベラベラしゃべっている。
僕と社長はステージの方へ移動して、片時Sを忘れていた。すかさずステージへやってきた。Sは僕のギターを貸してくれという感じで手を伸ばすとチューニングを始めた。本当にギターを出来るのか思いながら、チューナーではなくカポを渡した。Sは実に大きく厚い手をしていた。ごつくて僕の二倍もあるような手であった。Sはここでも笑いを取ろうとしている。隣には店の女性スタッフが。俺の好みだったとか何とか言いながら、Sはチューニングをする振りをしている。ここで夢が終わった。
飯田「キャンバス」ではなんと16年ぶりの再会があった。キャンバスは場所が移ったという噂があったがそれはデマで、もとの場所にあった。階段を下りると薄暗い懐かしい店内が。かなり使い込んだ感じだ。当時僕は前乗りして突然、下見と称して店に現れたそうだ。びっくりしたそうだ。それはそうだろう、電話の一本でも入れればいいものを。これも父の癖の一つだった。そんな父の癖をしっかり44歳の僕が受け継ぎ行動していたとは、驚きだよね。
オーナーのミスターKは初対面の僕に大学生のような印象を受けたという。偽善を嫌って、とても非難して偽善者をクソ呼ばわりして夜遅くまで焼き肉を食ったそうだ。初対面の人にずいぶんだとは思うが、今もそれほど変わっていない。キャンバスはスタッフも増えてKはとても良い53歳になっていた。
もう一人再会があった。篠笛奏者のミスターUが遅くに笛を持って現れた。Kの誘いであった。Uはその後何年か年賀状をくれたりした。今は笛の第一人者になっていた。そして大昔のススダケで作った笛を取りだし、なんと吹き始めてくれた。即興で「義経」をイメージして吹いてくれた。会うべくしてあった感じで、天を仰いでしまった。
キャンバスを紹介してくれた大阪在住S子さんの旦那さんは鼓奏者である。60歳「弁慶と義経」には、笛と鼓とドラムとベースのコラボもおもしろいかもしれない。夢はふくらみ59歳5月11日2300キロツアーは大盛況、無事終了となった。天は我にあり。
お忙しい中、アリーナ席、二階席の皆様まっことありがとうございました。今日も着々と500g軽くなったようだ。
(山木康世)
京都都雅都雅後始末記
2010年05月10日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
晴天のもと、四国を後にする。サヨナラ四国、コンニチハ本州。大鳴門橋、淡路島、明石海峡大橋、本州明石へと急ぐ。淡路島はでかい、でかい。四国へ向かう時の渋滞混雑が嘘のようで、向かう時には見えなかった明石の街が外国の街のように目の前に広がってくる。明石の街の地下へ吸い込まれるようなトンネルの入り口が迫ってくる。
土曜、祝休日の1000円高速でどの程度の渋滞があるかと心配したが、ゴールデンウイークで遊び疲れたか、お金を使いすぎたか、人出は予想を外れ一度も渋滞に遭遇しなかった。去年の1000円高速開始時に浮かれて飛び出した全国のドライバーは、学習しているように見える。
ユーチューブというチューブがある。これは一体誰が何の目的で続けているのだろうか? さっぱり分からない。井戸端会議の延長線上にある人々の寄り合い所なのであろうか。寄り合い所には自分が作った音楽を聴いてもらうためにプレイヤーにかける。または自分が実演してそれを聴いてもらいたくて音楽を流す人もいる。音楽が鳴り響き人々は感想を述べたり、ほしいなどと言ったりする。そしてプロが精魂込めて作った音楽も同じような精神的レベルで垂れ流される。これは自分の好きな人の音楽への応援もあるだろう。中には秘蔵音源を自慢げに聴かせたい人もいるだろう。興味本位で自分の持ち物を発表したい人もいるだろう。立場が変わればやることも変わるのである。しかし立場の異なる人へ配慮は十分すぎても十分なことはない。こと相手はそれを生業としているプロなのであるから。
言葉でブログを書いても、普通の人はすぐに飽きてしまう。誰も見ていないかもしれないと想像すると意欲が湧かなくなってくる。しかし音楽を流すだけなら、何も言葉を考えるほど難しくないので手っ取り早いチューブへの参加の仕方と見える。しかしそこに起きる波紋をよーく考えないと混乱を引き起こす。音楽を生業にしている人にとっては痛し痒しなのである。応援してくれて大変ありがたいのであるが、反面それだけ聴いてハイ終わり、という人が多数いて音楽の購買につながらない、ということも忘れてはならない。近頃CDなどの音楽が売れないと言われている。その一因を買っているのが応援者であったら、それは応援者ではなく妨害者になってしまうのである。
であるからしてプロで生活している人への介入はほどほどにというのが結論である。実にネットで流すのは楽である。楽であるからその反動も大きい。
京都「都雅都雅」でのライブは生涯で最高点に近いライブだった。八幡浜とはまた違い、実験ライブでもあった。しかし実験結果に大満足である。今後の姿を占うようなライブであった。ますます歌うこと、ギターを弾くことに興味を抱いている。
アリーナ席、二階席のみなさん、まっことおおきに。幸せでござった。またの日までさらばじゃ!!
(山木康世)
高知播磨屋橋交差点後始末記
2010年05月08日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
またまた中国で盗作騒ぎ。
今度はスピッツの曲だという。前回の舌の根も乾かぬ内の話、探したら出てくるわ、出てくるわで収拾がつかないんじゃないかと思ってしまう。
前回の事件は解決したのか、しないのか。
一つだけ事実がある。こんな僕がネットのユーチューブをクリック、大元の歌や歌手を知ってしまう。元の歌よりも進化して中国人の歌の方がよく聞こえたりする。そして恐らくまた一部メディアは数日間、この話題で盛り上がるんだろうな。歌手の大キャンペーンの種子を中国人が蒔いているようにも見えるし、そこでは誰かが不正に大儲けしているが誰も金銭的損をしていない構図が見えてくる。作者のプライドは人それぞれだろう。自分の歌がひょんなことで世界に広まることの快感は、決して金では買えないものだろう。と、一作家は思ったりする。
しかし日本著作権協会だけはそうではない。権威や組織そのものを踏みにじる行為にご立腹だろう。まぁ静観といこう。
高知の音楽会はまことに穏やかに、そして静かに幕を閉じた。みんなの聴き入っている空気が充満、先日とはまた違った雰囲気のライブとなった。
ゴールデンウイークの狂気じみた龍馬ブームを想像すると、祭りの後のような町中で、一時平穏を取り戻したのかと思ったりする。
初め戸惑ったが、3曲目あたりからこちらも方向を変えてライブを進めた。ライブを船にたとえると、客席は海のような感じだ。どんな波が立っていつ何時思わぬ方向に船が進んで行くか分からないときがある。そんな時は波に任せて船を進めることだ。自然空気が変わって船と海が一体となる。そんな技量もこの数年で身につけた。
59歳の「龍馬が駆けてくる」は終了した。
お忙しい中、みなさーんありがとうです。打ち上げで思いっきりカツオのたたきを食った。さらに深夜に食ってはいけないニンニク餃子を食った。西岡くん、良い音とおもてなしをまっこと感謝する。
四国ツアーも無事終了、残すところ2日、天気も回復、京都へ車を進める。好天の土曜日、1000円高速にどのような渋滞状況が待っているのだろうか。天は我にあり。
龍馬が駆けてくる
はりまや橋から 土佐は夕暮れ時
一人思いを巡らせた よさこい帯屋町
龍馬はここで何を見つめた 日本の新しい夜明けか
五台山から吹き渡る風 龍馬が駆けてくる
鏡川を見て 月の桂浜
一人心を遊ばせた 俄(にわか)侍気取って
龍馬よ帰れ死ぬな都で ご城下土佐は緑
黒潮踊る太平洋 龍馬が駆けてくる
いごっそう歌えば はちきんが踊る
一人夏歌更ける夜 鰹肴に杯
龍馬の思い志を 映して光れよ満月
ピストル片手にブーツ袴で 龍馬が駆けてくる
(山木康世)
ライブ会場における禁煙+α
2010年05月07日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
ライブにおける体調管理は両者共々大事である。
演者はもちろん、聴者も寝不足、疲労、便秘など日頃の生活の乱れが時としてとんでもない事態を引き起こす。
某月某時とあるライブ会場
演者「ただいま世間ではツイッターなるコミュニケーションが大いに流行っておりますが、私はずっとツイートでございました。ベッドにあぐらをかいてギターを抱えて作り出す歌のほとんどは個人的内容の歌でございました。それも内省的な、内向きな歌でございます。自己を省みるわけですから、大きな声は発しません。自分に聞こえるくらいで結構なわけです。聞こえなくとも心に届いていれば成立な訳でございます。」
聴者「(なんかさっきから溜まってきたようだわ。いやねこんな時に、まさか次の曲はツイッターヴォイスでやらないでしょうね)」
演者「それでは僕が30歳の若かりしころに作りました『蜜柑色した木曜日』お聴きください。」
聴者「(予感的中、ツイッターでないの。困った、困った…ガマン、ガマン、ガマーン、限界)」
場内に鳴り響く恥じらいの放屁音。誰もが思った。(よりによってにこんな時にご乱心を。演者の気持ちや如何に?)
演者「(なぬー!?人がせっかく気分を入れて、作った頃に戻ってつぶやいているというのに。あー世間はうまくいかないものだ、まぁ臭いが届かないことを願うことにしよう)」
会場では禁煙は当たり前になっていたが、まさか各個人の体内にまで禁止事項として管理することは出来なかった。
人が大勢集まる場所ではマナーは大事であるが、まだ現実には一回も起こったことがない。しかし恒例化した高齢化ライブ会場では若かりし頃考えられなかったいろいろな事態が起こりうるだろう。くれぐれも体調管理には気をつけたいものだ。
長距離運転でも似て非なるガス欠は悲惨である。
(山木康世)
八幡浜素珍具後始末記
2010年05月06日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
生涯で何度かあったか、なかったかの感動のライブだった。まさに此がライブの醍醐味。粗大ゴミではない。36年やってきたキャリアを堂々とお披露目、自分でも感動のライブだった。
人と会場が一体になる難しさ。この日の熱気は生涯脳裏に刻まれる。
元気の良い、分かってくれる男性客が多い会場はエネルギーを感じる。女性客もそれにつられて自然、顔がほころび拍手もでかくなる。まさにこの構図の八幡浜市、やわたはましライブでござった。
松山からの途中、海岸通りを西へ西へ佐田岬を目指した。伊予の町中では「花かつお通り」というありがたい通りもかっ飛ばした。その先には「ヤマキはなカツオ開発センター」の大きな建物も見た。あーここで味わいのある日本のふるさとの味を日夜研究、開発しているのだな、松山、愛媛はヤマキのはなカツオ満艦飾でござった。
大渋滞の喧噪を駆け抜けてきた旅人をお迎えする町は、ミカン畑の山が後ろに迫ってきてすぐに海という実に感じの良い町でござった。フィリピンパブであったという今夜の会場「スティング」も、これからますます良いライブが行われると太鼓判を押す。
本番前に「食堂ロンドン」で食した八幡浜チャンポンも美々でござった。
中西さん、ストーン山本さん、貞じぃ~、日吉村の幸せ者さん、大勢の良き理解者のみなさーん、感動をありがとう。
忘れていた!かっ飛ばし隊、横綱、関脇もその名に恥じない駆けつけ、ありがたく心に刻みます。
貨物船とミカン畑
青い電車に揺られて 君に会いに行こう 海辺の町に住んでる 君に会いに行こう
ガタンゴトンと山越えて トンネルを抜けたら 海にぽっかり浮かんだ 黒い貨物船
ミカン畑が SUNSUN 日を受けてキラキラと 光ってる
日本の美しい風景 広重や北斎 デジカメより繊細に 切り取り描いた
たおやかでしなやかな 竹林からの風 豊後水道を飛んでいった カゲロウの夢は何
ミカン畑が SUNSUN 日を受けてキラキラと 光ってる
もうすぐ次の駅だ 君はいるだろうか 君にお土産を持ってきた 肉まんとシュウマイ
潮風に吹かれて食べよう 防波堤に腰掛け 夕方まで時間は たっぷりある
ミカン畑が SUNSUN 日を受けてキラキラと 光ってる
忘れ物なきように 荷物棚を見て 右手の指でなぞる ポケットのチケット
青い電車は徐々に スピード落として 去年よりきれいではないけれど いつもの君がいた
ミカン畑が SUNSUN 日を受けてキラキラと 光ってる
(山木康世)
松山唐古後始末記
2010年05月06日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
松山のライブハウス「カラフル」の以前のオーナーだった児雷也さんが亡くなって、スタッフはさぞかし落胆してるだろうと思っていたが、そんなことは余計な心配で、スタッフ皆さんの温かいお出迎え誠にうれしゅうございました。
『坊ちゃん』のふるさと松山は、どこか文学の香りのする町でございます。あくまでも私見。漱石は49歳まで生きている。その間に松山中学に赴任、この町での思いが小説になって我々の心を楽しませてくれる。漱石は慶応に生まれて大正まで生きた。最後の慶応の年に東京(江戸)で生まれて明治、大正を見たのである。まさに新しき日本の夜明けである。ロンドンへ洋行していることが100年以上経ってもモダンなのかもしれない。可愛い子には旅をさせ、可愛い子は若い時分に旅をするべきだ。いろんなものが身について生涯にわたって見方をしてくれる。見聞の広さは大事なのであるなぁー。
正岡子規は伊予で生まれて松山で生きている。その間に漱石との出会いがあった。漱石と同じ年に生まれて、漱石よりも14歳も若く、つまり35歳で亡くなっている。子規が生きた年数以上に、僕は音楽人生を歩んでいるわけだ。
「ベースボール」を「野球」と翻訳したのは通説には子規であるといわれてきたが、ウイキペディアによると子規ではなく中馬某であった。子規は捕手としてベースボールを楽しんでいた。子規の幼名がのぼる、そこで雅号を「の(野)ぼーる(球)」としていた、という説が間違いの元、子規が造語したなどとずーっと広まってきたとある。僕も通説を信じていた一人であった。
奥の深い野球。近頃大味のベースボールより小技の日本野球がおもしろいと思えてきた。パ・リーグの人気はドサンコとして目を見張るものがある。華やかで芸能界ぽいセ・リーグ、地味で野武士集団のパリーグ、そんなイメージが子供のころあった。時代は確実に変化、流動している。
「カラフル」のみなさま、10月は東京でお待ち申し上げます。いろいろとみなさんありがとう、ありがとう。
(山木康世)
高松遅歩調後始末記
2010年05月04日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
大型連休、どのようにお過ごしでしょうか? ってかい。走っているよ快調に。
昨日は大阪→明石→明石海峡大橋→淡路島→大鳴門橋→徳島→高松。なんと大阪から明石まで、橋にたどり着くまで3時間、窓の外をマラソン選手が手を振り笑いながら駆け抜けて行く幻視が。何という高速運転。天気はさらに加速をつけ、雲ひとつない晴天、気温もグングン上昇。さすが四国であるわい。
「SlowStep」は中心街から香東川沿いの郊外へ引っ越ししましたが、眺めの良い音楽の店に進化しておりました。
マスターの愛犬、ベル社長は連日の運動によりお疲れ、おねむでございました。
ところで世の中には鳥の苦手な人がいる。あの鳥のクチバシ、足の鱗状のかぎ爪、すべてが怖いそうでございます。黄色いヒヨコの可愛いピヨピヨの話をすると、顔面を強ばらせ、唇をキュッと引き締めて、イヤ、イヤの反応をする。聞くと幼き頃のトラウマが。首を切り落とされた鶏が血しぶきを上げて走り回る姿が強烈に脳裏に焼き付いているとのこと。何と残酷なことを、今では動物愛護団体から猛烈な抗議、たたきのめされるような行動。これは僕も遠い昔、目撃している。
当時あちこちの家々で鶏を飼っていた。家族が食うための卵と肉の飼育が目的である。あくまでも家族が生きて行くために必要な栄養を鶏が担っていたのだ。卵は毎日産み落とされて僕らの食卓に。そして問題の肉は、もう卵を産まなくなった鶏の末路なのであろうか、一人の男によって振り下ろされた出刃包丁によって首を切り落とされる。首から流れ落ちる血をカップに受け止める。その血は元気回復の元、お年寄りに配られる。首のない鶏は信じられないが付近を走り回る。この姿が恐怖となって今でも時々おそってくる。やがて鶏はぶっ倒れる。それをムンズとわしづかみ、蒸気のムンムンと立ちこめるお湯の容器に鶏をザブンとつける。僕はあの臭いも脳裏にこびりついている。そして男はお湯から引き上げると毛をいとも簡単に引き抜き始める。やがて素っ裸になった哀れな鶏が真っ白い素肌を表す。
カレーライスの中に収まった夕方の鶏の恵みをムシャムシャとスプーンですくって食らいつき僕らは大きくなった。成長した。ありがとーニワトリさん。
鯨やイルカ漁をすることがやり玉に挙がって妨害行動を受ける。妨害する自分たちは牛を、魚を、豚を平気で殺して食っているのに、何と自分勝手な論理で行動を。人は生きて行くために何でも食って生き延びてきた。本当にグロテクスなものまで口にして生き延びてきたモンだと感心すること度々である。
そんな動物はアリガターイ天使様なのだ。神様からの贈りもの、恵みものなのである。動物は人間様のために犠牲的精神で尽くしてこられた。エラーイ、人間よりもエラーイことが見えてくる。
父の旺盛さを示す例の一つに小鳥の剥製作りがあった。野ウサギの毛皮作りがあった。あの当時の大人たちがよくやった旺盛さであって、父だけではないだろうと思ったりする。僕らの時代には動物を自分の手にかける勇気を持ち合わせていない。そんな時代でもなくなってしまった。
各地でサルやシカが人間世界に被害をもたらしたという情報が聞こえてくる。難しいモンだ、人間と野生動物の共存。
僕は音楽でそんな問題の欠片を歌ってきた、歌っている、さらに歌っていこうと思う今日この頃なのだ。
めんどりぶるうす
可愛いめんどり 可愛いめんどり オハヨーオハヨー 可愛いめんどり 村で一番 可愛いめんどり
卵を産んだよ 卵を産んだよ 初めて初めて 卵を産んだよ 白い大きな 卵を産んだよ
ひよこになったよ ひよこになったよ ピヨピヨ ひよこになったっよ 藁のベッドで ひよこなったよ
ひよこが逃げたよ ひよこが逃げたよ 大変大変 ひよこが逃げたよ ある日どこかへ ひよこが逃げたよ
めんどり泣いたよ めんどり泣いたよ 毎日毎日 めんどり泣いたよ 哀れ嘆きの めんどり泣いたよ
めんどり死んだよ めんどり死んだよ 淋しくて淋しくて めんどり死んだよ 月夜の晩に めんどり死んだよ
めんどり食べたよ めんどり食べたよ みんなでみんなで めんどり食べたよ 今日は涙の 焼鳥のぶるーす
(山木康世)
大阪五番街後始末記
2010年05月03日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
「♪春の雷に 白い花が散り 桜花吹雪 風に消えて行く♪」
ささやきというよりつぶやきだった。大阪ライブの最後の歌はお客さんとの信頼関係の元「春雷」で締めくくった。
30年前、東京は南青山グランドハイツ3階のとある部屋の深夜、3畳間寝室ビールケースで作った自称サッポロベッドの上であぐらをかいてギターを片手に歌を作っている。深夜、声を張り上げて近所迷惑も顧みず作曲など出来るタイプではない。音楽は押しなべて大音量で聴かなくてはならない、などということはない。適当な音量というものがあるのだ。フォークギターはただかき鳴らすだけで良いというものでもない。最小音量、中音量、最大音量と心のおもむきを醸し出すのも良いモンだ。いつもいつも120パーセントでは疲れる。
僕が作ってきた歌はつぶやき、ささやきが基本であった、ある。と近頃気づき始めている。確かに今でも日常生活でも自問自答が多い。考えたことをすぐに口にするタイプではない。牛が食べたものを何度も反芻するように僕も反芻することもたびたびだ。そして飲み込んでしまうこともある。
深夜、飲み込まずポロリとはき出された言葉たちがメロディーにからみつき出来た歌たちが、今でもライブなどで歌われているのだ。僕の作り出す歌の本性はつぶやきなのだな、と分かってきたというわけさ。声を張り上げてのメッセージやプロパガンダを言ってないのである。僕には実に心地の良い音楽である。しかしあまりつぶやき、ささやきが続くと健康に良くない。
押したり引いたり、緩急自在にライブの妙を作り上げることはおもしろい。今後どのように変化、進化して行くのか興味津々である。
さて出かけるとするか。渋滞は果たして? 瀬戸内海を渡って四国は高松を目指そう。
5th streetにお集まりのみなさん、どうもありがとうー、僕のつぶやきを最後まで飽きずに聴いてくれて感謝します。マスター、お店のスタッフさん、駐車場まで荷物を持ってみなで送ってくれて助かったよ。フラリと立ち寄った北の旅人さん、お父さんにきっと会えるよ。と手を振りながらつぶやいた。
(山木康世)
名古屋源後始末記
2010年05月02日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
「山木さんと同学年ですね、私はうさぎですが還暦ですね」
「そうですか、全然実感が湧きませんが還暦ですね。昔の人もこんな感じだったんですかね。今は健康状態も良いし、戦争もないし、やはり若いですね。ご隠居さんなどというイメージはないですもんね」
源さんはその昔、名古屋今池のライブハウスに出入りしていたそうで10年前に、この店をオープン、夢を開花させたとのこと。
明らかに民家である。靴を脱いでスリッパで上がって行く。壁にはニセコ在住の画家の絵が数点飾られている。来店した知り合いのミュージシャンの写真が10年の月日の長さを物語っている。
黙っていても時間はどんどん過ぎて行く。こんな話がある。
大の本好きな男がいた。彼は若い頃、働いてお金を稼いで、その金で本を買い込んでおこう。今は読む時間がないが、退職して時間ができたら本棚の本を思う存分読みふけろう。
やがて月日はたっぷりと経って数万点に及ぶ本が、見事に本棚に収まった。彼は読みたかった大長編名作を読もうと暖炉の火のもと、本を広げた。しかし字がかすんで読めない。なんと言うことだ、若い頃なんとも思わなかった小さな活字が読めなくなっていた。ルーペで何とか読めるには読めたが全然集中力が続かず内容が頭に入ってこなかった。彼は泣きたい気持ちだった。何のために若い頃寝る暇を惜しんであれほど働きに働いたのだ。こんな月日の変化を想像もしていなかった。お金をほとんど本につぎ込んで第二の人生をゆっくりと楽しもうと思っていた矢先、こんなことになろうとは。
本棚には寂しく新品のままの手つかずの汚れていない本の背表紙がピカピカに輝いていた。そして彼は考えた。このままでは自分の人生は絵に描いた餅のようなものだ。何とかしよう。
数日後彼は近所の子供たちに解放して私設図書館を開いた。新聞ではローカルニュースとしても取り上げられるほどのちょっとした話題になった。
次から次へと新刊本が出てくる。もう彼は本を買いあさる金も気力もなくなっていた。彼の本好きの夢はこして幕を閉じてしまった。
有限の人生を歩いているのだ。くれぐれもあれをやっておけば良かった、これをしておけば良かったと後悔のない人生を送りたいものだ。源さん、今度は客席でどうぞお客さんと一緒になって楽しんでください。せっかく作ったすばらしい音楽の広間でくつろいで、みんなと一緒になって楽しみましょう。余計なことを言ったかな。
(山木康世)