柏WUU後始末記
2010年04月11日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
昨夜の柏ライブにお越しの皆様、お忙しい中遠くから誠にありがとうございました。
いつものテーブルと椅子の配置が変わっていたことと思います。座席の配置を換えまして皆が僕に正対するようにしました。横向きで顔だけをこちらに向けて、さぞかし長時間疲れるだろうと想像したわけです。それと演奏者も正対してくれた方が集中するわけです。よほどの理由がない限り、やはり人と人が対話をするときは顔と顔を、目と目を正面から見ながらした方が真剣な会話ができるわけですね。
江古田マーキーの場の持つパワーはこんなところに潜んでいるのかもしれない。暗闇に向かって歌うというのも集中力という点では大いにパワーがあがるのだろう。明るいところで歌うのも良いのだが、こちらの調子がいまいちの時は、お客さんのちょっとした手の動きや足の動きなどが気になるのです。キッチンの音が気になったりもするのです。雑音の中で歌っても気にならない歌というのもありますのですべてが当てはまるわけではないです。
ちょっとした工夫で大きな成果を得られる場合がある。しかしそれを実行ししてもらうにしても黙っていては声が届かない。
メールやネットで皆が自由に意見を述べられる時代になったからといって、真実が述べられていたり、実態が正直に語られているとは限らない。むしろ大事な情報が見つからず、歪曲されてゆがんだ情報で行き先を間違ってしまっては元も子もない。
大臣が居眠りをしている光景を見ながら質問をしたり、応えたりしている国の舵取りたちはたるんでいるなぁ。記者に対する大臣の応えは「目をつぶって、米軍基地はそうした方が良いのでは考えておりました…」嘘か本当か誰も知らない。僕だって目をつぶって歌うのを常としているので何とも言えない。居眠りをしているかもしれないのでどうぞ気持ちを集中して、一字一句間違いがないか検証しながら、また聴きに来てね。まぁ山検で確認済みですから、あまり無理なことは要求いたしませんが。
お店の阿部さんご夫婦、小倉さんいつもいつもありがとう。次回は7月24日は柏祭りで60万人が町に繰り出すそうで、WUUも大いに盛り上がりましょう。
(山木康世)
上野駅から雪の町へ
2010年04月10日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
上野駅は自分の中でずっと東京の玄関だった。
まだ集団就職という言葉が生きていた時代、北海道、東北から金の卵といわれた中学卒業生たちが春先、大勢玄関に降り立ちそれぞれの職場へ巣立っていった。毎年春のニュースで上野界隈が紹介された。
高校修学旅行で初めて上野駅に降り立った。ほぼ24時間の修学旅行専用列車に揺られ到着した北海道の田舎モンは東京の匂いに大いに興奮した。窓の外に広がるキューポラのある街、夕方に上野の旅館に入り、夜9時まで自由時間。
銀座のACB(アシベ)へグループサウンズを見に行った。湯原某とスイングウエストが歌う~♪降りしきる雨の舗道 頬つたう銀のしずく♪~。学生服、学生帽のグループを見て、ステージから「君たちどこから来たの?」と声がかかる。「北海道」「稚内か?」「札幌」2階席の暗闇から応えた。
帰りの地下鉄口に迷ってしまい大幅に遅れた旅館で担任にこっぴどくやられた17歳の秋。上野恩賜公園、犬に引かれた西郷さん、不忍池とともにくっきりと脳のヒダに刻まれている思い出。
それからしばらく東京は遙か海の向こうの大都会で終わっていた。
22歳であろうか、ジェット機で羽田空港から東京に入り込んだ。フォークコンテストだったと思う。
上野は山手線のどこか北の方にある街のイメージで玄関ではなくなってきた。玄関は東京駅に変わってきた。そのうち東北新幹線ができて、当初はつながっていなかったが、やがて東京駅から上野駅まで地下でつながった。
昨夜大学の同期と酒を飲んだ。遠い北に故郷を持つ昔の大学生にとっては、上野で飲むのと東京の他の町で飲むのと雰囲気が違ってくる。ここが縦に長い日本の北と南を分ける地だと勝手に思っている。久しぶりの上野駅は懐かしさが残っている駅舎である。全国どこの駅も同じような顔になってしまった今、天井の高い広々とした構内はどこぞの外国の駅のようなたたずまいで名駅である。中央改札口の大きな玄関口は非常に明快である。東京駅にはない天井の高さが名駅たるゆえんであろうか。混雑していても息苦しくない。
東京に暮らし始め音楽生活をスタートした23歳の6月。あれからギターを肩に何回ここに降り立ち、ここから旅立ったのだろうか。
蒸気をモクモクと吐いてホームへ滑り込んでくる汽車がよく似合っていた上野駅。パソコン、デジタル、携帯、メール、ネットなどの言葉が非日常の時代の話である。あー上野ステーションよ永遠なれ!
33年前にこんな歌も生まれた。
雪の町へ(1977年)
夕焼け空の赤に 僕は目を細めて
悲しく染まる横顔を いつまでも見ている
長い影が二つに この道で別れる
凍てつくような風の中 冬の足音聞く
冷たい君の手を ポケットの中で
もう一度にぎりしめ 暖めてあげたい
汽車が出る汽車が出る 遠い雪の町へ
君を乗せ君を乗せ 遠い遠い雪の町へ
今日は「柏WUU」でお待ち申し上げます。上野からは常磐線で直通25分です。
(山木康世)
長距離運転
2010年04月09日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
九州7日間は天候にもまずまず恵まれ、生涯最高のライブができたなぁとしみじみ、シジミの歌である。天気の神様はやはり我に味方している。
意外なことに暑くはなく、むしろ涼しい日が続いた。雨の日の移動もほとんどなく予想時間行動ができた。これはストレスを感じることなく毎日過ごすには大事なことである。しかし当方36年間の音楽人生、初心者ではないのであらかじめイメージして行動できる年季であるので大げさなことではない。
時間配分の上手下手で有限な人生の時間を有意義に使えるかどうか違ってくる。
今のところ寄り道しても計算の上での寄り道につき、大幅に狂う時刻表で毎日を生きてはいない幸せをかみしめている。
明日は「柏WUU」でライブである。土曜日の水戸街道は混雑。時間配分をうまく考えて今までで最高の一日にする。過去のことにあまり振り回されぬ態度も大事だな。過去は逆立ちしても戻ってこない。懐かしむだけの時間は用意されていない。好きなことで人生を過ごせるという人様より贅沢な人生の目的はお金ではなく言葉とメロディーによる見知らぬ人とのキャッチボール。どうせやるなら受け取り易いようにグラブの中央目指して投げてやる。君も僕に同じように返してくれ。何時間でも投げたり受けたり飽きない時間が良 い。おもしろいのはやはり何が待っているかもしれない未来を夢見て暮らすことの楽しさ。そして結果お金が付いてきたら儲けモンというものさ。
流れを止めるな 急ぎ歩むな
人は人の歩み 自分は自分の
歩みで行けばいい 長い道ひたすらに
体をこわすな 長距離運転
「長距離運転」より
お暇なら来てよね 私寂しいの~色っぽかったなぁ。
陰は陽に近づき陽は陰に近づきときめきを感じる。
(山木康世)
熊本面白人物後始末記
2010年04月08日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
九州7日間ツアー1000キロの旅は無事終了。予想以上の盛り上がりで大変気をよくしての帰京である。大勢の皆さん、お世話になりました。ありがとうございます。
最終日熊本「ぺいあのPLUS」でのライブも静かではあるが内に秘めたる熊本県人の心意気ここに在りである。
「最後にこの歌をお送りいたします」。最後の演奏は始まり、そして終わった。
「よしっ!ところで何という歌?」
先ほど誕生日を場内皆でお祝いした、遠路はるばる福岡から駆けつけたという男性Kが暗闇から尋ねてきた。Kはずいぶん前にBBSに熊本に行くので自分の誕生日を祝ってほしい。できれば使い古しの弦などいただければ最高です、なんて書いていて覚えていた人物であり覚悟はしていた。使い古しではあるがプレゼントしたKである。
「『長距離運転』といいます。まぁファンの人だったら皆さんご存じの歌だと思います」
「良い歌だ。何のアルバムに入っているの?」
「静かに水の…元い、『泳いでゆくにはあまりにも水の流れが速すぎる』というタイトルで、32歳ですか、その頃に石川先生と一緒に作ったアルバムでファンの方ならみなさんご存じで、多くの方はお持ちだと思います」
実に良いタイミングで間髪を入れず答えが返ってきた。
「あっ、そのアルバムなら持ってる(場内大爆笑)」
・・・・複雑な気持ちで聞いていた。さらに、
「『思い出のスタンプ』をリクエストです!お願いします」何という大胆不敵さ。
「そのような歌は私にはございません、『消えそうなスタンプ』ならあります」
「あぁそれそれ」
またまた複雑な気持ちで歌い始める。少し調子を変えて歌ってみる。4拍子の消えそうなスタンプである。まだ思い出になっていないスタンプである。誠に頼もしいファンのリクエスト、大いに絶唱す。
「ターコイズナイト…」またもやKがしゃべっている。右手暗闇から聞こえてきた。気持ちは答えてあげたかったが時間も時間なので聞こえぬふりして「それでは本当に最後の…」。
リーン、リーン、リーン…
(鳴ってるぞ、早くでないと切れるぞ…)
今度は、左手最前列の男性が慌てた様子で内懐から薄青く光る携帯を取り出し、素早く音を消し、画面をチェック、懐に戻す。場内に複雑な雰囲気が流れ漂う。
「良いんですよ、気にしなくても、僕はあまり携帯に関しては厳しく言わない方です。もしかしたら家が燃えているとか家族が事故にあったとか、緊急電話もあるかもしれませんから、全然気にしてないですから。ただマナーモードにしておけば良かったですな…」場内爆笑、緊張の糸が切れて九州ツアー最後の歌「嶺上開花」と相成りました。
Kや携帯電話マンを始め、PAのA、自称弟子のT、ふきのとうからの長きにわたるファン、北の大地から応援に駆けつけたK、そしてぺいあのPLUSにお集まりの心優しき大勢のみなさーん、ご静聴ありがとう、ありがとう、また会おう!!
(山木康世)
小林陰陽後始末記
2010年04月07日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
「明日はどちらですか?」
「初めての小林市」
「あーそれなら陰陽石を見に行かれたらいい。立派なご神体を拝めますよ」
宮崎の夜、打ち上げの席で当時中学生だったという男性が小声で教えてくれた。
向かいの席には福岡から出張帰りで急遽駆けつけた宮崎の温家宝さんが座ってニコニコしている。
「後一人まだ予約の人が来ていないので5分押します」と言われて開演前、出番を待っていた。用事を思いつき外に出てコンビニによって戻ってくるとタクシーから急いで降りてくる男性を見かけた。信号の筋で降りたので、もしやと思い見ている。男性はこちらを見るなりニコニコ顔で頭を下げて小走りで会場の方へ、そして会場の階段へ消えていった。あの人が最後の人、さぁ始めるか。まさか福岡帰りのジェントルマンだったとは知らなかった。
「誰かお客さんでピックをお持ちの方いらっしゃいませんか?もしもおられましたら貸して下さい」
『弁慶と義経』を前にお願いをすると、先ほどの温さんがニコニコ顔で「ハイどうぞ」と白いピックを財布の中から取りだして貸してくれた。それにしても財布にピックとはかなりのギター熱。少々硬いピックだったが、渾身の『弁義』が演奏できた。
さて打ち上げの席でであるが「宮崎で多い姓は何ですかね?」
「私は日高と言うんですが、私の周りはほとんど日高、親戚や兄弟でもないですが何せ日高ばかりです」
知らなかった、日高姓が宮崎に多いとは意外だった。僕は昔、確か宮崎出身だったスタッフの黒木氏を思い出し「黒木さんも多いんでないですか?」
「はいっ!僕が黒木です!」すかさず隣に座っていた前述の陰陽石さんが即答した。
その絶妙なタイミングが場の空気にガッチリはまってその場に居合わせた全員、大爆笑。
これもライブなのだ。生の人間が居合わさせると何が起きるか分からない。何が待っているか分からない。それだからこそ人と会っているとおもしろいのだ。まぁたまには一人孤独を愛してもいるが。
そんなわけでご立派な天を指す陰陽石を拝んでの小林初見参は大盛り上がりだった。
ご神体が僕の身体に精強盛況風を吹き入れてくれた。
「陰陽」を調べると
■天地の間にあって、万物を発生させる働きがあるという、陰と陽の気。相対する性質の、天地・日月・寒暖・男女・表裏・春秋・生死・上下・君臣などのこと。「漢字源」より。
■古代中国に成立した基本的な発想法。陰は山の日かげ,陽は山の日なたを表し,気象現象としての暗と明,寒と熱の対立概念を生み,戦国末までに万物生成原理となり,易の解釈学の用語となって,自然現象から人事を説明する思想となった。「マイペディア」より。
■中国の易学でいう、相反する性質をもつ陰・陽2種の気。万物の化成はこの二気の消長によるとする。日・春・南・昼・男は陽、月・秋・北・夜・女は陰とする類。「広辞苑」より。
かくのごとく陰陽とは奥が深いのである。宇宙の根本は男女にあり。あくまでも人類の男女が考え築き上げた宇宙概念、宇宙モデルなのである。誰も実態を見たことも、見ることもできない概念なのである。宇宙の果てを考えると眠れなかった小学6年の夜を思い出す。物の本には風船のように広がっていると宇宙モデルを説明していた。故に果てはあるのだが膨張しているので、いつまでも届かない。故に無限なのである。
分かったような分からないような宇宙という大パノラマ世界に我々は存在して、さらに時間という一見同じような、しかし個々人で使い方によっては天地ほどの違いが出るやっかいな概念の中に生きている。
フラワーの夜に本物の花は咲かなかったが、音楽と世間話に大いに花が咲いた。
恐るべし陰陽パワー。睾○の「睾」の字をよく見ると血のような字を幸せが支えていた。
お忙しい中駆けつけてくださった大勢の陰陽さまさまありがとう、ありがとうー。
(山木康世)
宮崎「絃」後始末記
2010年04月06日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
「お母さんがふきのとうファンでファンクラブに入会していた」と、タウン誌の取材に来た男性は携帯の画面を見せてくれた。
確かに昔の懐かしい会員証が写っている。男性は20代後半か。月日が経つとこのような世代交代劇は当たり前なのであるが、まだまだ馴染めない徐々に移りゆく時間の経過だ。
各地を回って感じることは当時中学生、高校生だった人が圧倒的に多いと言うことである。多感な年齢とよく言われる年齢である。
ライブ会場に足を運び易い年齢があるとすればここのところにヒントが隠されていると思った。
当時僕は24歳、高校1年生だとすると8歳の違いがある。そして今僕は59歳、そうすると当時の高校生は51歳である。その子が25歳で子供を授かったとすると子供は今25歳である。まさにタウン誌取材男性の年齢になるのである。
僕は若い若いと言われる。いつもライブでお相手している人の平均年齢が50歳前後だとすると分からないわけでもない。僕の持っているフィーリングや話す話がそこの年齢の人に合うかどうかでお客さんの数のバロメーターにもなるわけである。
そして第二の発見はギターを弾いて歌いたくなるような歌を作っていたかどうかである。さらに二人組で当時遊んでいたかどうかである。一人の歌い手は、ファンの中心は一人で楽しむ人が多い。二人組は二人で、三人組は三人で、そしてグループとなるとグループ人数でとなる。
グループサウンズの平均人数は4人であろうか。そうするとファンも4人で楽しむというのが理想であろう。しかしグループサウンズはそうはいかなかった。ドラム、ベース、ギターなど相当な楽器演奏者が見つからないとグループを作れない。故にライブハウスで歌っているグループサウンズ出身者は少ない、ないしあまりいないという結果になる。
ふきのとうは二人組で、それもギター二人で良いと言うことになる。ギター二人は集まりやすいかもしれない。時のギターブームも見えてくる。ヒット曲1曲でギターが2本売れる計算にもなる。こうして流行が作られ時代が作られてゆく。やはり人間は一人で生きているわけではなく、いろいろなところに波紋が波打って自分もその中を漂っていると言うことがよーく見えてくる。自覚の第一歩。
なんだかんだと書いてきたが、そのうちこんな会話も普通になるかもしれない。
「おばあちゃんがファンでファンクラブに入っていたんですよ」
デビューから36年、当時生まれた人は当たり前であるが36歳である。子供も一人二人いても不思議ではない年齢である。驚きだよね。
宮崎の夜は4月にしては少々寒かったが、「絃」は熱かった。絃の現代表記は弦である。弓のつるを言うのだが、夫婦の縁という意味もあると知った。そういえば夫婦が3組も打ち上げに参加した。異常に多い確率である。宮崎は仲の良い夫婦が多いのか、それとも自分が作ってきた歌やふきのとうの影響なのであろうか。いずれにしても微笑ましい時間の経過である。
みなさーん、ありがとう、ありがとう!10月東京で待ってるよ。
(山木康世)
姶良茶請後始末記
2010年04月05日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
「奥さーん、今年の漬け具合見て、ホンとうまく漬かったわー」
「そうぞ、どうぞ、いらっしゃい、まぁそこに腰でも下ろして休んでいって」
北国の遅い春を待ちわびて、去年の秋に漬け込んだタクアンをドンブリ一杯に隣のおばさんは持ってきた。
「ヤス、大根洗うの手伝ってね、早くしないと時間がないからね」
北風が急に冷たく強く吹き始め冬支度をせっつかせた。母は今日こそしなければほんとに雪が降り始めてしまうと決心をした。
僕は日曜日、物干し竿の横で汚れた大根を一本、一本タワシで洗い泥を落とす。一斗樽に貯められた水道水も手に刺さるほど冷たい。「ヒョエー、ナンタルチア、この冷たさは、これが身を切る冷たさというものか」水から自らの手を取りだして両手でギュッと握りしめて回復を待つ。軍手からは冷水がポタポタとしたたり落ちる。
しかし人間の肉体適応力はすさまじく、徐々に軍手で被われた大根を洗う手は慣れていった。そのうち湯気が立ち上るほど手は抵抗し始め、冷たさを感じなくなった。母は僕が泥を落としきれいになった真っ白い大根を2本ずつ藁で束ね物干し竿にかけてゆく。50本か100本か詳しい記憶はないが、相当な量の白い大根の見事なすだれが北風に吹かれている。乾いた北風にさらされて適度に乾され太陽の甘さを一杯に取り込んだ大根は数日後に一斗樽に漬け込まれる。物置で3ヶ月ほど寝かされて、漬け込まれた大根はタクアンに変身して朝の食卓を飾る。
母は漬け物が大好きでニシン漬け、白菜漬け、キュウリ、ナスの漬け物などを豊富に食べさせてくれた。ご飯をおいしく食わす脇役として漬け物は欠かせなかった。
隣のおばさんが持ってきた今年のタクアンは今日は脇役ではなく、立派な主役である。大根役者が名役者でいられる日である。
母も台所で我が家の漬け物を切ってきておばさんに出して、お茶を飲みながら漬かり具合など世間話に花を咲かせる。夕方のひとときはあっという間に過ぎてゆきおばさんはおいとまする。
タクアンは沢庵という江戸時代の僧侶が考案した漬け物らしく、蓄え付けが訛ってタクアンになったという。太くてピチピチの白い大根が乾されてシナシナになり、糠と塩で更に水分を吸い取られまことに美々なる冬のタクアンとなる。
大根足、大根役者などあまり良い意味で使われない大根。しかしこれに変わる漬け物はない。ちかごろやたら甘い漬け物が多く美味くない。もう少し本来の塩の持つ美味さで漬け込まれた漬け物がほしいものである。
今日も良い天気だ。ひねもすのたりのたりかな。別府から姶良まで280キロの道と340キロの道があった。全行程高速使用と熊本インターからの高速使用の両方が考えられた。今日は日曜日なので高速でも距離は心配しなくとも良い。やまなみハイウエーを選ぶ。クネクネ曲がった道は阿蘇の山々を周囲に見ながら熊本を目指す。途中蕎麦を食しに休憩。そこで美味い麦味噌漬け大根を所望した。あいにく一本のままの漬け物は車内で食うことができない。まさかタクアンの丸かじりはないだろう。曲がりなりにも、その昔「ふきのとう」なんざんす。そこで切ってもらえないかお願いすると、蕎麦屋の女性が奥の方で食べ易いように半身を輪切りにしてパックの中に詰めてくれた。うれしいじゃないですか。こんなすぐにでもできる心遣いがなぜか都会では有料となったりお断りされてしまう。寂しい限りですな。これで姶良までのお茶請けができたというものだ。パリパリ歯ごたえもよく美味い麦味噌の味が口中に広がる。
姶良のライブは鹿児島という県民性もあるのか大いに盛り上がった。実に反応が良くて手拍子、シングアウト、おまけに焼酎「さつま風来坊」、両棒(ジャンボ)餅、チョコレートなどのおみやげ付きである。近隣諸国への騒音という迷惑もしっかり考慮の上10時半には終了した。熱く熱く余韻は姶良の夜に火照っていた。
夜食に出してもらった豚のバラ肉入りカレーライスが美味かった。熊本からの馬刺しにも舌が鼓を打っていた。また来たいモンだアイラー。
しかしこの日の運転はここで終わらなかった。みなにお礼と再会を約束しての手を振って更に160キロほど、真っ暗な高速道路を宮崎へと突っ走った。やがて走行距離500キロの一日が南国の星々とともに眠りについた。
(山木康世)
馬刀貝
2010年04月04日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
なんと読む?答えはマテガイなのだ。
■マテガイ科の二枚貝。カミソリガイとも。高さ1.6cm,長さ12cm,幅1.2cm。両殻を合わせると円筒形になり,前後両端は密着しない。北海道南部~九州,朝鮮半島,中国北部の内湾の潮間帯の砂底にすみ,30cmほどの深さの穴にもぐってすむ。この穴に食塩を入れると反射的に穴からとび出るので,採取は容易。食用。(「マイペディア」より)
打ち合げの席、この貝の話で盛り上がった。なんでも塩を上から降ると「キャー、何さこのしょっぽさは体に良くないわ、塩分採りすぎよー」「イヤッホー、待ってました、このしょっぱさがたまんないべさー」かどうかは分からないが、取りあえず人間の待ってるところにヒョイとお出ましとなり、砂からつまみ出されて一巻の終わりとなる。
「今度、馬刀貝ライブはいかがでしょうか?」と誘われた。
満月の夜に海辺でみなが塩を片手に一列に並んで馬刀貝を採取する。それを焼いて食してライブを興じるというものだ。
こんな話が打ち上げの席で場を盛り上げる。良いモンだ。こんなことでみなが笑い転げることのできる幸せはお金を払ってでも買いたい。そりゃ馬刀貝にしてみれば迷惑千万、たいがいにしないかい、いんすうぶんかい(意味不明)。
こんな調子で36年間ライブの後始末をしてきた。すぐにホテルに帰って床につくなんてことはできない。夜遅くの高揚感を納めるには、一杯の日本酒(焼酎・ワイン)と酒の肴と話のつまみで最後の塩の一降り。まるで馬刀貝ではないか。
歌を作って歌い人生を過ごすこととは何なのか、用もないときは砂の中に深く息を潜めて生きていて、上から塩を一降りされると天上へ顔を出す。待ってましたー。
「ちょっと待って、出直してくるからー」「馬刀貝(待てない)」それにしても人間の知恵、恐るべし、近寄るべからず。貝の遺言。
大塚搏堂という歌手がいた。容姿からは想像し難いソフトな声でラブソングを歌っていた。札幌に博堂命の歌い手Iがいた。ススキノをホームグランドにギター片手に歌っていた。帰札したときカウンターの片隅で仕事の合間、ひとときの休憩を取っている彼としばし飲んだ。もちろん仕事を終えてからも飲み明かしたこともある。妙に馬が合った。黒松内出身だったので通称「クロマツナイ」だった。どうしているか、今は何をしているか。この前も同じことを思った。
2回目の「博堂村」も誠に盛り上がった。
表を歩いてる人に聞こえるくらい大きな声で歌ってみてください、と言ったらラジオのボリュームが上がるように「風来坊」の大きな歌声と手拍子は窓を飛び出し別府の夜を羽ばたいて行った。
みなさーん、ありがとう、ありがとう。馬刀貝より。
(山木康世)
津久見初見参後始末記
2010年04月03日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
小倉、行橋、中津、別府、大分、臼杵そして津久見を目指す。佐賀関より海を越え20キロで佐田岬、八幡浜とある。ここらへんで採れるサバ、アジは味も値段も絶品と聞く。
時は4月2日正やんの故郷、津久見の町がトンネルの向こうに広がる。山桜が山々に岩のような感じで点々と広がっている。一幅の日本画である。豊後水道の向こうは四国宇和島。
元来無類の地図好きで小学生からの生え抜き、現在に至っている。
カーナビはイライラ、モヤモヤを実に明快に払いのけてくれる。いつだったか、某著名評論家がカーナビを否定的に捕らえていた。こんなモンいらない、というやつである。旅の情緒や探求心を奪ってしまうと書いてあった。でもねぇ、それは立場が違う人に取ってはそんなこと言ってられない場合もあるんだなぁ。
JR津久見駅は迷うことなく最短時間で到着した。
「リバイブ」のオーナー岩尾さんは理容師。同い年である。2月生まれと言うことで学年は1年先輩である。階段を登り詰めたるところに花が置いてある。「還暦おめでとうございます」何という配慮の行き届いたお店であるか。しかしこの花はオーナー還暦祝いの花だと判明。そうだよな、そんな事現代では考えない方が懸命、懸命。
ライブは満員の御礼、よく初見参の小生に興味をいだいたたくさんの皆さんのご来場。ありがとう、ありがとう。
打ち上げの席にて快速船艇にて25分の距離にある保戸島よりご参加の”島の山木康世”さん、およびその仲間による「影法師」「恋不思議」の演奏。高校生の頃の憧れの人が目の前にいて緊張したとのことでしたが、目をつぶってしっかり聴かせていただきました。時を超えニキビ面の高校生の二人が小生の歌を歌っている姿が脳裏によぎる、良かった、良かった。こんな空間と時間は疲れを吹き飛ばしてくれる。島の山木さんのお父さんが採ったというアジ、イサキ、誠に美味でした。お父さんにお礼をお願いいたします。津久見名物の魚のコロッケ「ギョロッケ」、おでん、ふぐ皮の春巻き、マカロニサラダ、等々のおもてなしという心、味大変ありがとうございました。最後に全員でハイチーズ。
残すところ5日間であるが、今のところ疲れ知らずの九州桜花吹雪ツアー。カーナビ、および現地スタッフに大いに心身共に助けられている。ツアー成功の賜でもある。
津久見の朝は薄もやがかかっているが晴れである。
春の海 ひねもすのたり のたりかな。
ホテルの窓を開けると対岸に太平洋セメント工場群が見える。外の多少冷たい空気が闇に支配された充電の時間を終了、希望の一日の始まりにリセット、切り替えてくれる。
再起動、再起動。別府を目指す。
(山木康世)
「小倉民謡村」後始末記
2010年04月02日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
九州ツアーの初日。福岡空港は久しぶりである。
荷物を受け取る前にトイレに入る。的に弓矢が刺さっている小さなマークが男性用便器の中に書かれている。なぜか男はここを狙ってひとときの安堵の発射をする。そうすると周りにあちこち飛び散らないのだ。女性には分からない、ささやかな喜び。見事命中。最後の一滴まで的を外さぬよう射続ける。これはヨーロッパのどこぞの国で考案された男性体内不要水付近飛散汚染防止法だと聞いたことがあった。噂通りの効力があった。
小倉までの移動の途中、高速道の古賀SAでトンコツラーメン&明太子ご飯セットを食う。これで福岡の食の文化を2つ同時に味わうことができた。チャーシューがもっとうまかったら”古賀のトンコツ”として脳裏に刻まれるところ、至極残念であった。
小倉には午後4時半に着く。イメージ通りの時間経過。
フォークビレッジは「民謡村」とでも訳したらいいのだろうか。しかしこれではフォークギターではなく三味線になってしまう。やはりフォークビレッジはフォークビレッジでしかない。
ディランはニューヨークのコーヒーハウス「フォークビレッジ」で歌っていたという伝説が確かあった。42歳の初夏にアメリカに初めて行った際、ニューヨークに行った理由がこれだった。
しかしフォークビレッジ跡しか残っていなかった。
さてライブ。今日はエイプリルフールだったのでステージで開口一番「さっきまでのポツン、ポツンが今は土砂降りです」なんてウソを言ったモンだからかどうかしらないが、終わった時に本当に神様は雨を小倉の空に降らせてしまった。
ライブの打ち上げで登場したのは、大きなヒラメとシマアジの活き作り。その周りにはウニ、タイラガイ、サザエ、タコなどがお控えつかわす大皿が鎮座する。糠床漬けイワシに舌鼓を打つ。
「小倉民謡村」を訪れた民謡奏者の伝言ノートを渡された。僕の前にライブをしたリンテン、青木某から自分への伝言を読み、僕は次にライブをする永井某へとノートにメッセージを記す。
外で酒をたしなむと眠たくなってしまうので、家に帰ってから飲むという村長の小野さんへ。
「いつまでもこのスタイルで行きましょう」とお礼を兼ねて伝言いたします。
噂では小野さんは帰ってからも酒は飲まず、障子の陰で夜ごと油を舐めているという。オーノー!
(山木康世)