となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

山羊にひかれて

2010年03月11日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

僕が初めて沖縄に行ったのはデビューの年、1974年「白い冬」が売り出された直後のこと、JALのイベントでダカーポと一緒だった。歌が売れると言うことを肌で感じ始めた頃のことだ。ダカーポはすでにデビューしていて「結婚するって本当ですか」が売れ始めていたいた。男女デュオのダカーポは息の合ったハーモニーを聞かせた。その後二人は夫婦になるのだが、今でも根強く活動を続けている。

プロとして仕事を始めた実感をひしひしと感じた初めての沖縄である。
沖縄に着いたときの第一声は「アツー、何この暑さ、故郷じゃ初雪の便りが聞こえると言うのに」そして驚いたのは、まだ返還直後でアメリカ文化が色濃く街を染めていたということだ。空港直ぐ横の入り江にはベトナム戦争で使用したと思われるアメリカ軍のカーキ色、迷彩色の車両や船舶が数多く見受けられた。最前線と言おうか、アメリカの植民地のような感じだった。

車は左ハンドル、右側通行、空港にはイエローキャブ並みの南国らしい派手なタクシーが並んでいた。乗り込むと深いシワが刻まれた浅黒い目鼻立ちのはっきりした運転手が迎えてくれた。
車内は日本だ、というよりやはり南国の感じだった。窓を開けると湿った生ぬるい海洋性の風が吹き込んでくる。空には勢いよく流れる白雲が見える。高い山がない沖縄は平坦な島というイメージだったが、道は山あり坂あり、クネクネと北海道では考えられない道幅の狭い道をタクシーはノンビリと独特の民家の建ち並ぶ住宅街を突っ走る。

沖縄は台風が良くお邪魔するので、壊されないように石造りの塀が家を守っている。家々の瓦屋根にはシーサー(獅子さんの意)という 魔除けの一種で素朴な焼物の唐獅子像が夫婦で仲良く座っていた。これはかなりのインパクトがあった。沖縄は信仰の深い土地である。ご先祖様を敬う、古いしきたりを生活に普通に取り入れている。実に性に合う。

ホテルの宴会場で行われた打ち上げの席で、沖縄の民族舞踊を披露された。初めて見る踊り、聴く音楽にすっかり魅了された。ここは本当に日本なの。そして2次会で連れて行かれた民家風の居酒屋で山羊の金○、亀の刺身、色鮮やかな南国熱帯魚の刺身などを泡盛という焼酎とともに鱈腹頂いた。この先何度か訪れるであろうこの街を僕はすっかり気に入ってしまって山羊にひかれて街を散策する夢を見た。

しかし肝心のダカーポとの仕事の現場は記憶の断片も残っていない。これは脳のなせる業の一つで衝撃的で記憶に値するものから順番に近い方の引き出しに入れてあるのだろう。ということは仕事は色あせたあまり興味のない現場だったのかもしれない。帰りの復路の思い出と言ったら空港にあった免税店でタバコを買ったくらいか。免税店というのも国内では考えられないシステムで外国らしかった。

今親しくしている沖縄の数多くの知人友人は、まだこの時点ではお目にかかっていない。未知との遭遇はその後訪れて、ますます山羊にひかれて思えば遠くへ来たもんだとなるわけである。数えて何度目の沖縄であろうか。
さぁ赤いハイビスカスがお待ちかねだ。

(山木康世)

蓼食う虫も好き好き(第82回アカデミー賞考)

2010年03月10日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

蓼食う虫も好き好き(第82回アカデミー賞考)

「アバター」もエクボ。「ハート・ロッカー」はコクボウ。オリンピック開催直前にさんざんな目にあったのが石狩出身のコクボ。
アカデミー賞はアメリカで、戦前の1928年から始まった世界最大規模の映画賞。会員4000人の映画人が投票して上位を決めるという。

「僕の作った作品では珍しいくらいの超娯楽大作さ。お金も時間もつぎ込んだ。それに3Dという未来先取りの映画でもある。これがハリウッド映画の決定版、大賞を取らなくて何が取るというのだ」
「彼も鈍ってきたわね。いくら時代がCGの時代と言っても、あそこまでCGだとアニメと何も変わらないわね。アメリカンコミックよ、簡単に言えば。でも中身はなかなか濃いテーマを扱っているのに、表面の評価が過大すぎて残念ね」
「昔はあいつも優しくていつも俺に気を遣ってくれた。まさかこんな大それたテーマの映画を撮るとは正直考えてもいなかった。戦争映画に足を踏み込むとは、クリント・イーストウッドばりだね。」
「あの頃の彼はタイタニックを地でいっていた。まぁ若さがそうさせるのね。あの同じ監督が今度はコミック。一貫性がないわね。若い頃ならまだしも歳行ってからの寄り道は危険ね。命取りにもなりかねないわ。でも人間って年取ってからの方が出鱈目になるらしいわね、古狸ね、彼もそうかもしれないわね」

元夫婦監督対決の映画賞対決はイラク戦争を扱った映画に軍配は上がった。
当然日本では半畳が入るところだ。まさに朝青龍を破った日本相撲人のごときである。
アメリカ人も最終で「アバター」を選ばず良心の断片を見せた。戦争状態にある御国がこの映画を選んだら、世界から良識を疑われたろう。
国内からもブーイングの嵐だったろう。
彼は惜しみない握手を贈った。なんてヒューマンなのだろう。アメリカ人は惜しみなく表面で敵に塩を贈る。しかしこの塩は海水から摂ったそのままの食えない塩かもしれない。
彼女も、この映画をイラクで戦っているアメリカの兵士に捧げますと言ったとか言わなかったとか。ヒューマンだ。

アメリカ人は、自分たちも世界の中心にいると思ってイラクで死んでいった中東の人たちにはあまり関心がないようだ。それよりも正義の警察は地球上のどこへでも平和のためなら駆けつけますと半ばお節介のごとき介入してゆく。
しかし言うことを聞かない相手には容赦なくガンをぶっ放す。正当防衛ならまだ分かるが、所詮都合の良いように振る舞っているだけだ。自国の利益が一番。

年末年始にかけてテレビで「アバター」がさんざん流れた。僕も平日観に行ったが満員御礼、残席は一番前だった。異常な混雑ぶりはテレビのせいだ、と毒づきながらSD用眼鏡をかけて自分もそうだったのだからおかしい。

ここまで情報が氾濫洪水状態の現代は昔のように、それぞれが好き嫌いを言ってランキングが決まるなどと言うことはないのかもしれない。みんな知らないうちに操作されて、蓼食う虫も好き好きではなく、田で食う虫も好き好きという感じで足を運んで勝手に大賞の話題など知ったかぶりでブログに書いたりする。

今でも、もっと小粒でピリリと蓼のように辛い映画がどこかでは制作されているんだろうな。知らないだけか。映画館を揺さぶるほどの大音響と矢継ぎ早の展開ではなく、隣の人の飲み込む唾の音が聞こえるほどの静けさの中、じっくりと人間の間合いを感じさせる映画が観たい。

知人が言っていた。「黒沢映画はカラーになってつまらなくなった。白黒の画像は映像にならない映像をそれぞれの脳でイメージしやすかった。色が2色なだけに意識を集中して深みがドンドン増してくる。これがフルカラーになると色が邪魔して確信に入って行きづらい。」本当にそうかもしれない。今度は3D、飛び出る映像の世界だよ。死ぬまで両方の目を大事にせにゃあかんね。

(山木康世)

父よ許せ。

2010年03月09日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

長年暮らしていた小さな家を解体することになった。誰がって学生のうら若き僕がである。本来は大工さんか解体屋さんが行うのであるが、なぜか父は人に出来て息子に出来ないわけがないと考えたのかお鉢が回ってきたのである。近頃は煙突掃除も一丁前にきれいに散らかさないで出来るようになった。ここはひとつ解体もやってみっか、全く父らしい。父流子育て。

父は大学生の僕に「父さんは離れて暮らしているんで、仕事が終わっても手伝えない。土曜と日曜は一緒にやろう。それまで一人で怪我しないようにな、やってみろや」
何とも恐れ入谷の鬼子母神。玄能(大型の金槌)とペンチとバリ、ドライバーくらいしか工具がないというのに父はやってみろと言ってきた。
不安定な屋根に長時間いることすらやったことがないのに、どこまでできるやら。
札幌の雪解けの春風はまだ冷たく、軍手を通して冷たさが伝わってくる。

この家は父と母が結婚してすぐに本家から譲り与えられて住み始めた台所と2部屋の小さな家だった。りんご園の本家の門衛の家のような格好で建っていた。そして僕を含め子供が4人生まれた。お祖母ちゃんに抱かれた1歳頃の写真が残っている。「野良犬HOBOの唄」でアルバム中に納めた遠い日の家族の肖像。
それから3歳で僕らは羊蹄山の美原に移った。9歳までの6年間の思い出の美原が終わって、札幌に戻ってきてまた住み始めて東京オリンピックまで寝起きした思い出の家だ。

屋根にまたがって先ずトタン屋根を外しにかかった。一枚一枚剥ぐように音を立ててトタンは剥がされむき出しの正目の板が見えてきた。木造のこの家は物置が付いていて、壁に何カ所か節目の穴があり、その穴から外をのぞくことが出来た。冬の寒さに良く耐えたもんだ。
やがてマサもすべて外した。家の見取り図のようにむき出しの間取りが見えてきた。ここからが一番危険な解体だった。柱にしがみつき数十本の横の柱を取り除き、最後に縦の柱を取り除いた。

我が家のトイレは北側の一角に面していて、電気がなかった。夜は開けて用を足していた。その便所が眼下に見えている、お世話になりました。横の柱に器用に乗ってそんなことを思った、瞬間哀れ玄能は手を離れて落下してしまった。
見事に命中、ボッチャン、久しく使っていない便倉には、まだくみ取っていない代物がたまっていた。上部が空気の幕が張ってあるように沈黙を保っていた便倉に非常事態発生。にわかに臭いが春風に乗って上空へ上がってきた。「クッサー!」思わず落下しそうになり柱にしがみついた。あっという間の出来事に声をなくした。しかし我が身がはまることのなかった幸運をかみしめて、玄能の悲しい末路に涙した。ずっと玄能の行方は秘密だった。父にも生前話したことはない。

何日かかってどのような経過をたどって解体作業は終了したのか全く覚えていないが、この玄能落下不祥事は未だに鮮明に脳裏に刻まれている。落ちて行く一コマ一コマがスローモーションのようによみがえる。音を立てて飛沫を上げて、これは見ていないが、深く深く暗闇に落ちていった玄能の気持ちになって申し訳ないと思ったことは事実だ。
たいしたことない紛失事件であるが、未だに臭いものに蓋をしている。

父よ許せ。しかし父はくみ取った後、最後に玄能を見つけてちゃんと戻したかもしれない。几帳面で生真面目な父には十分考えられる事ではある。非常に似たような立派な玄能が今でも実家にある。父が僕の珍事をくみ取ってくれたかどうか、真相は闇である。

(山木康世)

JUMBOMartin

2010年03月08日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

今日も札幌中央区にあるYAMAHAにギターを見に来ている。
高値の花のマーチンはもちろん手が届くはずもない。しかしそれに準じたような日本の手頃なギターを物色中なのである。山木康世弱冠22歳の秋である。
ぱっと目にはマーチンかと思わせるような、フルコピーのギターもあるにはある。YAMAHAはオリジナルで勝負していて、音もかなりの良い線まで行っていた。
最後に残った候補が2本あった。YAMAHAとジャンボだ。

ジャンボはあこがれのマーチンの形をしていた。両者とも35000円。悩むところである。昭和47年頃の35000円は今で言う10万ほどの価格であろうか。学生の分際でバイトでためた10万を潔く使うのはかなり勇気がいったと思う。まさに清水の舞台から飛び降りた感じだ。
僕は最後の最後にYAMAHAを止めてジャンボにした。自分でもびっくりしたが、遺憾なく天秤座の性格が発揮された瞬間である。
ものを買ったらそのまま使うということをあまりしない。何かしら手を加えないと気が済まない。自分流にしてしまう。カスタマイズであるが、ことギターなどに素人が手を加えたりすることは厳禁である。
ある夜、僕はドライバーとペンチと金の棒ヤスリを片手にフレットの打ち換えを決行した。どうしてもギブソンのような平フレットが気にくわなかったのだ。鐘を転がしたような鋭い音がほしかった。この音はマーチンの独壇場であるが、フレットを打ち換えただけで出るものではない、ということは百も承知だったが、行ってしまった。その結果傷だらけの無惨なネックとなってしまった。今なら絶対逆立ちしてもやらない。ろくな工具もなく、万力もないところで綺麗に出来るはずがない。
銀色に輝いていたフレットは多少黄色っぽいフレットに12フレットまで変わってしまった。弦がびびって音が濁るフレットは丁寧にヤスリをかけた。何とか徹夜でマーチンらしいジャンボギターの完成となった。
しかしヘッドの文字がJUMBOではMartinにほど遠い。そこで最後にプラモデルの手業でMartinに書き換えた。友人のKが、Martinを買ったので半紙に字体を写して、JUMBOを消してMartinにした。since1950もさりげなく入れた。
得意がってコンテストに出たものだ。このギターで道が開けたと言っても言い過ぎではない。デビューしてしばらくはこれを使っていた。
彼の岡林某もこのギターをMartinと信じ切って中野サンプラザで、自身のギターの弦が切れたので代用に使っていた。何も申さなかった。
このJUMBOで「夕暮れの町」を創った。これを引っさげて上京、勝ち進み賞金を得たこともある。

札幌に帰ると部屋でいつも待っているJUMBOは38歳ということか。
その横には67歳のMartinがある。息子という年の隔たりはある。
あのころ机の上で蛍光灯の下、皆が寝静まった夜中コピーしたMartinは世界にひとつのMartinだった。JUMBO家からMartin家へ養子に行った35000円は、悲しいかな本家にはなりえないままで終わるだろう。
プロになって日の目を見ることのなかったJUMBOMartinはその後実に37年経った2009年「旭日東天」の裏ジャケットで日の目を見た。それも裏側の板目模様で日の目を見たのである。何と奥ゆかしいギターであることか。

(山木康世)

睡眠

2010年03月07日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

 睡眠時間は少ない方だ。
少なくて足りるので、目を覚ましたらつい起きてしまう。そして夕方時に猛烈な睡魔に襲われ机に突っ伏して、椅子にもたれかかって10分、これで事足りている。しかし近頃睡眠時間はそれほど短くないのに、寝起きが悪いときがある。頭が混乱している。起ききらない。すぐにシャキッとしない。若いときには考えられなかった早朝叙情詩。

 8時間睡眠が理想であるとか、人生三分の一は寝ているのでいかに寝室は大事かとか、4時間で十分であるとか、いろいろな説を信じて感じて寝不足の頭をひねりながら、脳という水道の蛇口から枯れ気味の感受性という水をひねり出して生きている。

 まぁ猫とか犬とかは寝ることと起きていることの区別がないのではないだろうかという生活をしている。眠るときはしっかりと体を丸くしているので分かるが、丸くなくても目を閉じているとき寝ているなと思うときがある。実に穏やかなお顔をしている。目を覚ましてもこちらの興味などまるで関心がないというお顔立ちのときがある。これは寝ているのだな。覚醒するとき腕でお顔をおかきになったりこすったりしている。きっと目の中に睡魔様がまだ居残っているのでそれを追い払おうと思いっきり伸びをしたりもするのだ。絶対間違いはない。

 日中彼らは寝ることと食べることが基本で働いたりしない。働くとは人間だけの行為であると、この漢字が示していた。人が動くで働くか。その上、人が重い力で働くか。良くできていると今、気がついた! 「働く」の定義、人が重たいものを動かすような力で行う行為。実に言い得て妙である。今まで物の本で読んだためしがない。もしかしたら今世紀初めての発見ではないか!武田某も気がついてはいまい。大発見その1。

 故に犬や猫は働かないで良い。動いていれば良い。疲れたらどこでも良いから伏して横になって良い。うーん、ほら伏すと言う字に犬が居たじゃないか。待て待て、横という字も良く見たら猫に近いような、猫の一部のような字が隠れていたじゃないか。大発見その2。

 なんて暇なことを考えていたら日が暮れてきた。からと言って眠くなる訳じゃない。寝たくはなるが眠くはない。昔の人は、夜になると昼に近いような周りを煌々と照らす明かりがないから、日が落ちたら眼の中に睡魔様がやってきて8時間きっちりお邪魔したんだろうな。睡魔様もお邪魔様も魔物の一つ。睡眠などと言うメカニズムを誰も知らないから勝手に仮死状態で毎日の三分の一を過ごしていただけだ。

 中におそらくナイーブなお人が睡眠とは何ぞやと考えたろう。
そしてある夜、隣で寝ている女房を観察した。目を半分閉じてスーイスーイとミーンミーンとやっている。これが睡眠の正体也。夢を見ているとき、目はあっちこっちに動いているという事実がある。寝ているとき我らの目は完全に閉じきっていなのだ。閉じきったが最後、それは死である。我らは生まれてこの方、否母の胎内に居るときから毎日毎日仮死状態を積み重ね死のリハーサルをして生きているのだ。つまり生きていると言うことは何も大それた事ではなく、死の準備をしているだけの行為であると考えたら気が楽になった。
 
 そんなことを考えていたら睡魔が襲ってきた。シンガーソングライターたぁ実に幸せな職業である。皆が働いている日中から好きなとき、好きなところで犬や猫と同じようにゴロリとやることができる。こんな幸せ申し訳なくてサラリーマンに口が裂けても教えられない。

(山木康世)

塩引きが食べたーい

2010年03月06日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

 朝の食卓に、額から汗が噴き出るような塩引き鮭が消えてしまったのはいつ頃なのだろう。アルミの弁当箱の鮭と言えば塩が吹き出したような、白っぽい鮭が普通だった。大きさは今の鮭の半分でおいしくご飯を食べられた。半ば塩で食っているような感じもあったか。

 お握りの鮭ももちろん塩引きだ。スキーに行って山頂で腰にくくられたお握りをほおばる昼飯時は最高である。お握りに巻かれた真っ黒な海苔も厚くてごつい海苔だった。それが白い飯を隠して爆弾のように巻かれていた。誠においしい塩引きと海苔のお握り。それに薄黄色の妙に甘くないタクアンがあれば、早起き朝からの疲れもいっぺんに吹き飛ぶというものだ。
 父もよく言っていた。「適度な塩分を取らなければ馬力が出ない。力仕事に力が入らない。健康志向が強すぎて病人食のような減塩食では仕事にならない」

 確かに近頃の食品は減塩である。病気予防のための減塩であるが、塩っぽくない漬け物はうまくない。水のような味噌汁も味気ない。醤油味の効かない寿司の味も半減する。まぁ素材を生かすために敢えて醤油は少なめにという言い方があるにはあるが。

 張り切って乗り込んできた車内で広げる駅弁も、病人食のように気の抜けた駅弁では逸る気持ちも萎えてしまう。うまい駅弁のひとつに塩分もあるというのが持論である。30品目を毎日摂ることが理想のようだが、つい食べたい好きなものに偏ってしまうのが常だ。

 おいしいものイコール好きなものという方程式の答えは幾つになっても変わらないだろう。僕には小さな頃、鮭がそのうちの一つだった。それも汗の噴き出るような塩引きだった。それが近頃トンと食っていない。妙に人工的に色づけしたような赤くて大きな高価な鮭の切り身は並んでいるが、買ってきて焼いてみてもうまくない。赤い汁が垂れていたり、口に入れても本当に脂がのった鮭など食っていない。それならばたまには塩で食っているような鮭を食わせてくださいと生産業者に、神様お願いーだ。

 卒業式で中学担任の最後の言葉。
「因数分解の答えは一つではないぞ。プラスとマイナスの二つの答えがあることを忘れるなよ」
国を挙げての健康、健康、身体の健康人は増えたが、心の病人が増えたようで年間3万人の自殺者の因数分解の答えを誰か教えてほしい。
(山木康世)

ビタミンM=マーク・ノップラー

2010年03月05日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

何度か聴いて良くなった楽曲と言うことをあまり聞いたことがない。
ほとんど直感的、直接的に響き届くもので、徐々に良くなったり他からの影響で良くなったりするものではない。
頭が良いとか、要領が良いとかも問題にならない。
一度聞いて響いたものは一生つきまとい、何かと人生のステージに顔を出すものだ。

イギリス人ギタリスト、シンガーソングライターにマーク・ノップラーという人がいる。
30年ほど前、深夜テレビで見かけていっぺんに好きになった人だ。
このときは「悲しきサルタン」のライブビデオだった。
あくまでもギターそのものの音を引き出すということか。
彼の弾くギターは実に歌とうまく絡み合って画面に釘付けとなった。
彼の弾くテレキャスターは、ノーマルでエフェクターをかけていないようだ。
彼はピックを使わない。サムピック(親指にはめて使うピック)でアルペジオ(分散和音)のように縦横無尽に弾きまくる。
案外サムピックで弾くギタリストは多いようだ。

そして彼の歌声だが実に良いテノールをしている。少し鼻にかかった乾いた歌声は、フォークソングにピッタリなのだ。
話すように、ささやくように無理をしない自然体歌唱法が良い。
作り過ぎの歌唱法の歌手には辟易する。ストレートが良い。まっすぐに突き抜けて飛び込んでくるボーカルが性に合う。

今ステージで見て聴いてみたいギタリストの一人がマーク・ノップラーだ。
派手さはないが世界で例を見ない個性派名手である。
一度聴いたら忘れられない音、歌声、ギター音、奏法、どれをとっても僕には極上の音楽だ。
心を軽くして、少年のような気持ちに戻してくれる性に合う音楽は僕の人生になくてはならないビタミンM(ミュージックのM)である。

グリコのおまけのように付け加えるが、彼の弾くドブロも外連味(けれんみ)がなく大好きだ。
※外連味とは受けねらいでするいやらしさやはったり。

(山木康世)

月は輝いているか?

2010年03月04日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

問題の先送りはだいたいに於いて良いことはない。
政治家の先生も討論の結果、善処いたします、などと言って先送りがあったりする。
みんな善処しようと懸命なんだ。いずれにせよいつかは答えを出さなければいけない。
出してから状況を見ながら変更を加えて良い結果を出すというのも一つの手だ。
何か答えがなければ、そこで皆が待機ということになり一歩も前に進まず停止状態となり何も生まれてこない。
確かに慎重を期するのは悪くはないが、何もせずにただ時間だけを無駄にするのでは意味がない。
それよりも先ず決断して方向性を確認して歩き出す方がよほど時間の使い方としては賢い。

「私の人生を返して」と言われたら、「今更そんなこと言われても仕方がない」と答えよう。
人生というステージの先送りをしてきたのは二人の責任。
何も自分だけに責任があるわけではないと逃げよう。
限られた時間の中ゴールに向かってみんな同じように歩いているだけ。
先に行った人間も遅れてきた人間もみんな湖の見える畔でちょっと一服。
夜空には満月がかかっている。
明日になれば南風が吹いて桜が一気に花開くそうだ。
桜は先送りなどしないで、毎年同じように花の綺麗さを教えてくれる。
明日行く道が分からなければ、夜が明けてから道ばたの道祖神に聞くというのも悪くない。

◆いい人生を送るコツは、好きなことをするんじゃなく、することを好きになること。〔アメリカことわざ〕

君の夜空には月が輝いているか?

(山木康世)

雛祭り

2010年03月03日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

3月と言ったらまだまだ雪の中だった。
ずっとそうだった。ひな祭りも雪の中のお祭りだった。だからこのお祭りの日は寒々としていて、外を見ると桜なんかまだまだで真っ白い雪が大地を被っている。吐く息だって昔の家の中では白かった。朝起きると掛け布団の首のあたりに霜がうっすらと付いている記憶もある。寒い寒い美原の冬の記憶。3月には春の足音がまだまだ聞こえない。

少々顔の汚れたお内裏様が男女、去年と同じ衣装で並んでいる。
お内裏様が最上段に、身の回りをお世話する3人官女、笛・太鼓・鼓・三味線・鉦を打ち鳴らす5人囃子とひな壇に続く。我が家では最上段のお二人が3月に登場していた。後の方たちは省略と言おうか、余裕がなかったということか。
女の子の成長、幸福を願って年に一度お祝いをするひな祭りの日は上巳の日で五節句のひとつであるという。この日曲水の宴が行われたともいう。何とも風流な遊びを昔の人はしたものだ。
きょくすい‐の‐えん【曲水の宴】
古代に朝廷で行われた年中行事の一。3月上巳、後に3日(桃の節句)に、朝臣が曲水に臨んで、上流から流される杯が自分の前を過ぎないうちに詩歌を作り杯をとりあげ酒を飲み、次へ流す。おわって別堂で宴を設けて披講した。もと中国で行われたものという。[広辞苑第五版]

お内裏様とは、昔の天皇、皇后の呼び名とは知らなかった。
僕らは知らない間に国中の一家、一家で天皇、皇后を年に一度お飾り、お祝いしていたのだ。
幼い頃、親戚の家などに行くと薄暗い奥の間に仏壇があって、鴨居に天皇、皇后のお写真が飾られていた。更にその横にはご先祖様のお写真、戦争でなくなった親戚の人などが仲良く並んでいた。
ボンヤリとお写真を見ながら、この部屋は昼も夜も年中この人たちが何となく漂っているような気がした。少しヒンヤリして何かしら怖さも感じたものだ。この神聖で畏怖の念を感じる空気感というものがなくなってしまった。
ものが少ない分、心の中を探り合っていた時代が長い間あった。ものが部屋中にあふれかえる時代になって心があっちこっちに寄り道をして、大事な人間の魂を考え、探り合う時間が少なくなってしまった。

本当に「豊かな時代」とは何なのだろうと考えさせられる現代である。

ヒマナツリヒナマツリ 

ボタン雪フワフワ ボンボリ三月
心のお池の縁に ポツネンと座って
日がな一日 なんにも釣れない
ひまな釣りひな祭り ボンボリ三月

笛や太鼓鳴らせど 桃の三月 
どちら吹く風やらと 君も連れない
お内裏様と 可愛いおひなさま
ひまな釣りひな祭り 桃の三月

茶だんすの上にも 弥生三月
まんじりともせずに お澄まし並んでる
明かりつけましょうか お花上げましょうか
ひまな釣りひな祭り 弥生三月

(山木康世)

青空色のコンバース

2010年03月02日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

♪お手々つないで 野道を行けば♪
雪が徐々に溶け出して、雪解け水が勢いよく道ばたの側溝を流れ落ちてゆく。やがて地面が見え始め、太陽の日差しを一杯に浴びて陽炎が立ち始める。待ちに待った春だ。足取りも軽く、スキップを踏んで口元からはハミングが…♪♪

先日、靴を左右間違えて履いて地下鉄に乗って出かけてしまった。先方に着いて、足元をよく見たら違うじゃあーりませんか。驚きだよね。しかし何の抵抗も違和感もなかった。靴とはおもしろいもので人の靴を履いたらすぐに分かるほど足癖が自分の靴についているもので本人はすぐに違和感を覚える。これを足の記憶という。

その昔、熊本でコンサートの途中、青いコンバースを買った。きれいな青空色のコンバースは一時僕の心を軽快にした。夜になって打ち上げで総勢20人ほどが座敷に上がってお疲れさんをした。
宴もたけなわ、いざ立ち上がり乱雑な靴の群れを探したらナイノダ。
お昼に買ったコンバースがナイノダ。どこを探してもそれらしき美しい真新しい青がナイノダ。
最後に残されていたものといえば履き古されたヨレヨレの黒いバッシュがひとつ。
驚きだよね。えー、これを履いてけって言うのかい、ひどいじゃないか靴泥棒。せめて九州ツアーが終わるまで履いていたかったよ。
仕方なく今頃ウヒウヒしている靴泥棒の靴を履いて帰り道を帰った。臭ってきそうな他人の靴は履き心地は悪く、気が重かった。と言いたいところだが案外そうでもなかった。酒が手伝って帰り道は他人になりすましスタッフともう一軒はしごをして帰った。

翌日の靴泥棒の靴の行方はまるで覚えていないが、あの居酒屋で最後に残っていたボロ靴は今でもしっかりと覚えているから人間の記憶はあてにならない。しかし、以上記したこともきっちり合っているかどうかも確信が持てないほど時間は経ったので覆(くつがえ)る、もとい靴帰ることはない。驚きだよね。

♪唄をうたえば靴が鳴る 晴れたみ空に靴が鳴る♪

(山木康世)

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