となりの電話 山木康世 オフィシャルサイト

夏の夜には君を偲んで

2010年07月02日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

父と一回だけ寿司屋に行ったことがある。
お盆といっても夜になるとヒンヤリする北海道の夏の夜。そんなお盆に帰省した。
早来の町で精霊流しが行われるという。父と二人連れだって町の中を流れる川へ行った。大勢の人たちが手に手に自作の小舟を持って川に流すのを待っている。やがてアナウンスが入り川縁からローソクの灯された小舟が放たれる。みんなみんなの縁者たちの魂がまた一年サヨウナラと天上に帰って行く。
静かな流れに沿ってゆったりと、ゆっくりと岸部を離れてゆく小舟たち。

夏の夜には君を偲んで

夏の夜に君を偲んで みんな遠くからやって来て 
迎え火の代わりに 裏庭で花火上げて迎えた
葡萄畑に蛍が飛んだ 夏の夜空に星が流れた

君が突然いなくなって 一年過ぎた早いよね 
君の思い出話 スイカ食べながら 夜遅くまで
葡萄畑に蛍が飛んだ 夏の夜空に星が流れた

町を流れる 川に行って 小舟浮かべて見送った 
来年までさようなら ローソクの明かりきれいだったよ 
葡萄畑に蛍が飛んだ 夏の夜空に星が流れた

今から帰って父の用意する遅い夕飯を食べるには申し訳ないほど遅かったので、帰り道、一件の寿司屋に立ち寄った。生まれて初めてである。父とこうして寿司屋に入るとは、昔は考えも及ばなかった。学生時代は何かと近寄りがたく、あまり親しい感じのしない父であった。
寿司屋に入ってビールを頼む。壁のメニューを見ながら「何にする?上寿司で良いかい?」「何でも良いさ…」今夜の送り火の話をつまみに小一時間店にいた。会話らしい会話を覚えていない。一つだけ鮮明に覚えている父の言葉「俺が寿司で一番好きななのはマグロの赤身。これが一番好きだ。」父はマグロだけで満足するような人だった。おそらく寿司屋などには自ら入らなかった時代の人だったろう。今でこそ回転寿司などごまんとある時代であるが、その昔は高嶺の花で何かがないと入ることはなかった寿司屋。そして寿司といえばマグロの赤身だったような覚えもある。我が家だけかもしれないが。
いっぱい機嫌で後は寝るだけ、タクシーで実家に戻った。母が生きていた頃は母が待っていたので実家に戻ってもほんのり暖かかった。そんな暖かさもなくなって30年にもなる。母がいなくなり父一人の実家に帰ると、男特有の孤独な感じが部屋に満ちていてあまり好きではなかった。
父は冷蔵庫から瓶ビールを持ってきて「飲むか?」「ウン」
俺も座ったままでいるのも申し訳ないので、急いで立ち上がり台所からコップを二つ持ってくる。
父はもうそんなに飲めるほど若くない。すぐに真っ赤な顔で顔を伏せて居眠り始める。「もう遅いから寝るべ」父はそれでも起きていたく、久しぶりに帰ってきた息子より先に寝ようとしない。が今度は机に突っ伏してしまった。万事休す「さぁ寝よう、俺も寝るよ」
俺は二階に上がり母が使っていたベッドに横になった。物音が立たなくなり、すっかり暗くなった実家。時折深夜を走る車の音がする。さぁ明日はダリアの手伝いでもするか。

ちなみに上記の詩は「宇宙の子供へLoveSong」の原詩である。
これから3日間広島、福山、岡山といざ見参。
(山木康世)

空とぶ小鳥

2010年06月30日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

僕が初めてジェット機なる飛行機に乗ったのは22歳だったと思う。地元札幌の放送局のディレクターに連れられてふきのとうで上京した。
まだ日の昇る前の早朝、札幌駅前JAL営業所に集合、バスにて千歳へ。ディレクターは何かとスチュワーデスに良い顔しておけと多少嫌らしい笑みを浮かべてアドバイスをくれた。今でも駅前にたたずむとあの日の朝のことを鮮明に思い出す。
千歳空港も、まだ滑走路から直接機内へタラップで上った時代である。タラップの先に待ち受ける、未だ見たこともない飛行機内を想像してワクワクした。紺のタイトスカート制服、制帽に身を包んだスチュワーデスが笑顔で迎えてくれた。着席すると皆に湯気の出ている丸く絞られた布のおしぼりが配られた。こんな気遣いが40年ほど前にはあった。
窓の外を見ると離陸準備のエンジンが軽くうなっている。こんなに大きな物体が空中を飛ぶことは間違っている。どうか今日だけは間違わないでください。時間があれば何も空を飛んで行かなくても、高校生の頃の修学旅行のように陸で行ってもかまわないのに…
そんな心の葛藤を吹き飛ばすかのように、轟音とともに千歳を一気に飛び立ちすぐに苫小牧、太平洋上空だ。これが噂の空の旅か!
機内アナウンスがベルト着用解除、禁煙解除を告げる。当時は離陸、着陸時以外は喫煙OKだった。機内にはあちこちで吸い始めた紫煙が朝日に照らされて立ちこめる。皆緊張の糸が切れてホッとしているように見える。何度も乗っているが今でもなじめず、もしやと思うことが脳裏をかすめることが多々ある。
1時間半ほどであっという間に東京だ。

北海道が運営、経営するエアドゥが1998年から千歳、羽田間を飛んでいる。大手2社が生まれたばかりの弱小企業に道を譲らず当初はずいぶん苦戦したようだ。
国民性の違いもあるとは思うのだが、飛行機会社のニュースはいつも経営困難で路線取りやめとか、空港閉鎖など明るいニュースが少ない。現代は時間との勝負の大勢の人が利用するジェット機。せめて機内が明るくなるような音楽とかユニホームとか考えられないものかと作った歌がある。それが「空とぶ小鳥」だ。
なぜか役所の出先機関のように感じる空の旅。9・11以来厳重検査の空の旅は以前ほど気楽で、楽しくなくなった。その昔はゲートで荷物の検査など一切なかった。実にスムーズな空港風景だった。
もっと、もっとサービスだ。「途中雲の中、赤信号で停車です」などジョークの一つもかましてくれ。空の路線バスで良いのだ。必死の覚悟で乗る人だって中にはいるのだ。あまり機械に頼り過ぎず、過剰なアナウンスに頼らず、笑顔で人の手で生き生きとしたエネルギーにあふれた航空会社になってくれ、エアドゥ。

空とぶ小鳥

ジェット機に乗って羽田から 北の街ご案内
水色の制服に身を包んで 中ヒールを履いて
本日はエアドゥをご利用いただき
まことにありがとうございます
しばらくの間のお付き合い 私空とぶ小鳥

離発着の際は電子器機の ご使用はお控えください
飛行中でも揺れることがあります ベルトは軽くおしめおき下さい
ご気分がすぐれ ないお方は
遠慮なさらずに私どもに
申しつけお呼び下さいませ 私空とぶ小鳥

ジュウスはいかがコーヒーは ウーロン茶もございます
短い旅のひとときを どうぞよろしくご一緒に
大きく揺れましても 飛行には
差し支えございませんので
どうぞご安心下さいませ 私空とぶ小鳥

皆さま飛行機は津軽沖 到着まで25分
目的地千歳のお天気は ピカピカの日本晴れ
前方のモニター スクリーンで
NHKの朝のニュースを
イヤホーンは9番ご利用を 私空とぶ小鳥

当機は只今着きました お急ぎのお客さまには
定刻より10分遅れまして 申し訳ございません
又のご剰機を お待ちしてます
長らくのお疲れさんでした
どうぞ今後ともエアドゥーを 私空とぶ小鳥
SEE YOU AGAIN SAYONARA
(山木康世)

迷える子羊たちへ

2010年06月29日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

あんなに昔はお互い磁石のように吸い付きあっていたのに、いつの間にか月日という魔法にかかって力が弱くなってしまって、今にも吸い付く力をなくして遠ざかってしまうかのような二人。
しかし、まだ今なら間に合う。映画に出てくるアメリカ人のように激しく罵りあったり、抱き合ったり、人前でキスなど出来ない僕らはほんの些細な感謝の言葉さえ口に出して言うことをはばかってしまった。何も二人が悪いんじゃない。そういう国民性だからとやかく他から言われる筋合いではない。
しかし人目をはばからず、もう少し自分の気持ちを素直に正直に君に言えたらということが何度もあった。この期に及んで何をしているのだ、と心の内の声が聞こえてきたこともしばし。しかし僕は僕の流儀でここまで来た。君も僕以上に相当な頑固な人間だと言うことを知っているのでおあいこだ。
霧がいつの間にか僕らの目の前に漂い初め、周りの山々の風景や、木立さえも、空の色も雲もかき消して突然世の中から孤立させられたような二人。車内から見えるはずの車線の白もかすんで見えにくい。大丈夫だろうか、突然対向車が現れて衝突事故など起こしかねない状況だ。風も吹いていない。雨も降っていない。雪も降っていない。霧だけが不安げに僕らの周りにまとわりついている。孤独な心が今にも泣き出しそうだ。

そうだ音楽を聴こう。こんな時は頭の切り替えが大事だ。自分の気持ち次第で同じ状況でも違った状況に見えたりすることもある。がんじがらめの最大の敵は己自身の心にあった。何かにとらわれて行き場を失っていた自分の心。流れてきたのは「君に感謝する」
君の心は確かに僕の言葉を待っていたようだ。そっと君の右手が伸びてきて、僕のハンドルを握る左手に触れた。あったかい!君の全身に流れる真っ赤な血が肌のぬくもりとなって、右手から左手へ、僕の脳天へ届いた。窓の外を見ると徐々に霧が晴れて日差しさえ見えてきた。すっかり霧は消えた。僕はアクセルを一杯にふかして目的地へと車を飛ばした。目尻から流れ出た涙が頬を伝わって僕の右腕に落ちた。
また明日からやり直そう!

君に感謝する

僕はなぜ生まれてきた 君はなぜ生まれてきた
君にどれほど 助けられたことか
君に感謝する 生まれてきて良かった

僕はなぜ生きている 君はなぜ生きている
君が困ったとき 君が悩んだとき
君の力になる 生きていて良かった

人はなぜ生まれてきて 人はなぜ死んでゆくの
君がいなければ どんな生き方を
君に感謝する 巡り合えて良かった
(山木康世)

東京四谷仏蘭西居酒屋ビストロサンク音始末記

2010年06月28日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

葡萄酒の余韻が、まだ納豆の糸のように尾を引いて、気がついてみたら丸一日が過ぎておりました。美味かった、実に美味でありました。

「山木康世 Live mini Library 水無月」
~仏蘭西料理と葡萄酒と西洋六弦琴と~
東京は新宿通り皇居に向かいまして右手の四谷ど真ん中の地下1階に、少しノスタルジックなお店が「ビストロサンク」です。
小粋なお洒落なお店とはこういうお店を言うのですね。洒脱という言葉もピッタリしております。何も現代だから、世界の東京だからといって、最先端のけばけばしく飾りすぎ、受け狙いのまるでどこぞの芸を忘れた楽屋落ち話お笑い芸人の如き、どこぞの集団男性歌謡グループの如き、どこぞの年端もいかない集団女子グループの如きのお店など必要のない人も大勢いるのです。
じゃましないBGMの落ち着いた雰囲気でゴクリやる葡萄酒は最高の安らぎです。多少明かりの落とした店内に漂う「魂」という名の高尚なコミュニケーション。騒然とした落ち着きのない東京だからこそ、こんなお店が必要なのです。目に見えない迫り来る圧迫、締め切り、睡眠不足など現代人の抱える病を治すには、医者も医療も必要かもしれませんが、こんなお店がお茶の子さいさい、治してくれることだってあるのです。
そこへ素敵な西洋六弦琴の響きが声と共に流れますと、どうです覚醒の世界へとあなたを誘ったことでしょう。大変に贅沢な時間を過ごさせていただきました。同じ価値観を共有、捕獲しようという心優しい人たちと一緒に過ごせることは何物にも代えられない物があります。
みなさんmerci、healthy、お元気で、またお会いしましょう。

■去年のワイン
眠たくなったら 君のことを
思い出して 思い出して ベッドにもぐるよ
毛布を肩まで 風邪をひかないよう
夢で会いましょう 夢で会いましょう 夢で会いましょうか
 明日は日曜 雨が降り出すと
 テレビの夜のニュースで 言ってたから
 どこにも出かけないで 本でも読んでる ラララ……….

君がくれたワイン 赤いワイン
冷蔵庫の奥に隠れて 忘れかけていた
明かりを消して ワイン飲んで
夢で会いましょう 夢で会いましょう 夢で会いましょうか  
 去年のワイン 飲みかけのワイン
 夜景を見ながら ここのテーブルで 
 記憶のドアをノックして 訪ねてみる
 ワインはほろ苦く  酸っぱくなって
 便りも電話もなく 気が抜けてしまう ラララ……….

(山木康世)

クック

2010年06月25日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

昭和が終わって平成が始まった年1988年、8年ぶりの東京暮らしを始めた。4月初旬、桜が咲いていたが雨の寒い夜だった。
ある日新宿へ買い物へ行った。今から考えると、西新宿前広場もそれほど車の量が多くなく、ちょいと停車して買い物が出来た。
中央地下には駐車場がある。そこにつながる螺旋状の車道を出ると緑の生け垣に出る。そこに止めていた車に戻る際の出来事は生々しい記憶としてよみがえる。
生け垣の中を何気なく見たら黒い小さな物体が動いている。初めネズミか何かと思い観察していた。しかしその物体の動きは鈍く、子供のようである。おそるおそる手を伸ばして生け垣の中の物を引っ張り出した。
何と鳥の子供だった。子供といえども手のひらで大人の雀ほどの大きさもある。何の鳥だろう?かわいそうにこんな生け垣の中に置き去りにされて、でもどうしてこんな場所に迷い込んだんだろう?まぁ連れて行って飼育しよう。
早速町の小鳥屋で鳥のえさと水飲みを買ってきた。段ボールの箱の底にティッシュを広げて鳥のヒナを置いた。ヒナは盛んにおびえて鳴いている。腹も空いているのだろう。少しえさのヒエ、アワに水気を含ませスプーンで食べさせた。ヒナは美味そうに食い始めた。たくさん食べて大きくなれよ。おまえがどんな鳥になるのか楽しみなんだからな。クックという名前にしよう。
それからクックの世話が日課となった。あっという間にクックは大きくなった。産毛のように生えていた柔らかい毛も、しっかりした羽や毛に変わってきた。徐々に正体を現し始めた。おそらく近所の公園に多くいるハトだろうと踏んでいたクック、しかしどうも体の色が茶色っぽい。
ついに判明する日が来た。クックは辞典で調べると普通見慣れている色のハトではないキジバトであることが分かった。
数日たつとクックはどんど大きくなり飛び上がりたくてしようがないような仕草をするようになった。ヘリコプターのホバリングのような感じで、バタバタと力強く羽ばたき体を少し浮き上がらせる。もうこれ以上になると数日で手に負えない大きさになるだろう。羽ばたく回数が日増しに増えて室内に抜け毛や埃が舞い上がる。ベランダで籠にでも入れて飼わないと部屋の中を飛び回るだろう。あの大きさで飛ばれた日にはかなわない。
何とかせねば。
クックがいない。暑かったので少し窓を開けて用事を足して戻ってきたら、クックは巣立ってしまっていた。ベランダに出てクック、クックと声を出して探した。そのとき一羽の鳥が飛んできて、手すりに止まった。クックだ。クックはまだ事務所の周りにいて旅立つ大人の仲間入りの準備をしていたのだ。クックは首をかしげてこちらを伺うような仕草をした。クックと呼んで手をさしのべた、そのときクックは本当に空高くいなくなってしまった。表に出てどこかにいないか探したがそれっきりいなくなってしっまった。
クックは別れの挨拶をしにいったん戻ってきたのだ。僕が帰ってくるのをどこかに止まって待っていたのだ。
今でも道ばたや公園のハトを見かけるとクックと言ってしまう。クックの骨も皮もなにもかも、すっかり跡形もなくこの世に存在しないほど時間が過ぎたが、一羽のキジバトと僕のドラマは鮮明に残っている。

父は美原にいた頃、よく野鳥を捕獲していた。カナリヤ、セキセイインコも数多く飼っていて世話を任せられた。鳥の具合が悪くなったり、運悪く死んでいたりすると偉く悲しかなった。自分のせいで殺してしまった。冷たく硬くなった体はもう元には戻らない。生き物の生死に人一倍敏感な感情は父の計算外の躾にあったと思う。

幼い頃から生き物に触れあって、関わりのある毎日を子供には過ごさせなさい。他の酸っぱいことを何も言わなくても、人一倍他人に優しい子供に育つこと間違いなし。父は案外、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんからこのことを聞いていたのかもしれない。
(山木康世)

横着者

2010年06月24日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

トイレのロールを交換する羽目になった。ペーパーの向きを逆に取り付けたことに気がついたがそのままにしている人のこと。

シーツを交換して新しいものを敷いた。裏に気がついたがそのままにしておいた人のこと。

テレビのリモコンを考えた人間はかなりの横着者だったに違いないと気がついたがリモコンが見あたらず手の届くところにスイッチがあるのに点けもしない人のこと。

靴下を履いた。裏表に気がついたが、人はそこまで気がつかないとそのまま履いた人のこと。

似たような黒い革靴を履いて出かけた。途中で右左の違いに気がついたがそのまま町に行った人のこと。

髪が伸びたが床屋に行かず、頭にカミキリムシを飼い始めた人のこと。カミキリムシを本当に髪切虫と書くと知った。

時計のリューズを毎日巻くのが面倒なので、腕を振ればネジが巻かされる時計を作った人のこと。

「幸」と言う字を書くのが面倒なので、横棒一本をいつも省いていたら「辛」になってしまった人のこと。

「ふきのとう」といところを略して「ふき」、「ふき」という事を常としている人のこと。

窓口で間違って名前を呼ばれたが、訂正するのが面倒なのでそのまま間違った名前のまま手続きする人のこと。

我こそは、彼は横着者だということを自負するみなさん、思い浮かぶ事例をお聞かせください。お待ち申しあげております。

(山木康世)

涼風に吹かれながら

2010年06月23日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

涼風に吹かれながらアイスクリームのコーンをかじっていた。6月の一時の梅雨の晴れ間、まことに涼しい風が吹いてくる。途切れなく吹いてくる。いい感じだ。天井付き広場の小さな丸テーブルには俺の他に向かいに若い男女が二人座っていた。
さっき写してきたデジタル画像を見る。なかなか良い風景が撮れた。こんなところにこんなタワーが建っていて、もう少し空が晴れていたら富士も眺めることができた。しかし俺の写真技術も腕を上げたモンだ。今は亡き大川師匠に写真のイロハを願い出てから30年。新宿東口のさくらやで一通りのものを揃えて、二人でそのまま夕方のキリンビヤホールへ。初めて一眼レフペンタックスで撮った写真が残っている。師匠も満足そうな顔をしていた。あれからどれほど写したことだろう。旅の先々で写しに写しまくったアナログ写真の記憶。
そんなことを思いながらデジタルを繰っていたら声をかけられた。
「スミマセン、一枚良いですか?」見ると向かいの年の頃20才ほどの典型的な今風多少乱れて派手なアベックが明るく、男の方がカメラを渡し「ここ押すだけで良いです」「良いよ、良いよ、ハイ笑ってね」カシャ。「今度は少しアップ目で撮るよ」カシャ。「今のは笑っていなかったな、もう一枚アップ目で、もっと二人寄りで笑ってな…」カシャ「アリガトーございました」黄色い髪をした男が満面の笑みで、隣の多少化粧のきつい女も笑って頭を下げた。「良い写真撮れたと思うよ」「暑中見舞いに使おうよ」「そうだな、良い、良いアッハッハー、アリガトーございました」
俺はさっき抱いた二人のあまり感じの良くないイメージが違っていたので、二人に無言で詫びた。勉強になったと思った。こんな写真一つで、見知らぬ人との会話で心が軽くなって目先が少し明るくなった。今の若い奴らも、俺の若い頃とそれほど変わらないな。俺にも子供がいたらあんな感じなのかもしれないな、と思い「それじゃーね」アイスクリームの紙を片付け、丸テーブルを立ち去った。まだ写真を見ながら二人で盛り上がっている声が聞こえてくる。「サイコーだよ、アッハッハーァァァ」
俺もサイコーさ!
(山木康世)

横須賀YTY音始末記

2010年06月22日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

横須賀は良い街だ。丘の裾野に海がすぐそこに迫っているという感じである。海が迫っているということは、そこに停泊している船がいるということだ。船といってもいろいろある。釣り船から漁船、貨物船、タンカー、自衛艦などなど。その昔は、陸上と共に大いに利用されたであろう海上交通。地図を確かめると、東京湾ののど元、向かいは千葉県館山氏、君津市。君津といえば2年前、「嶺上開花」のジャケット撮影のために訪れた製鉄所のあるところ。こんなところに位置していたとは遠く離れた北海道人には新たな発見である。

高速道を降りてすぐに左手に港が見えてきた。そして前回はお目にかからなかった自衛艦が颯爽と灰色のボディで停泊していた。それもイージス艦、ヘリ空母、潜水艦と10隻ほどもいるいる。
取りあえずハザードランプを点滅、停車状態で公園の中へ。良いアングルに、手の届きそうな距離に停泊しているいる。風は強かったが、日差しが戻ってきていたのでベンチで寝ている中年の男もいる。レストランもある。こんなところで拝むことが出来るとは想像もしていなかった。

YTYは昔映画館だったという。久しぶりに良いライブハウスに巡り合った。ここはしばらく通いたいと直感する。映画館も人が集まって鑑賞する目的で造られた室内。実に演奏していて、自然なのである。一番歌いたかった「三浦半島波高し」は2部の頭に歌った。お客さんからも大好評、年内にもう一度ライブをしようと考えている。
ステージ後方には昔取った杵柄という感じの全画面を利用できる大きなスクリーンが用意されている。これもすばらしい、これからいろいろと使えそうだ。音も良くてやりやすい。アメリカの片田舎でカントリーの店に迷い込んだような錯覚をする。控え室も使いやすく、すべてに余裕のある空間に心が広々とする。これはこの歳にして良い唄を歌う必須条件である。
終演後は地元スタッフと遅くまで話に花が咲いた。

何かと基地問題で取りざたされている沖縄、同様に横須賀は日米の要として問題も起こせないほど、アメリカにどっかりと腰を下ろされて共存している街。
ボディが灰色の船というのは何とも無愛想であるが、「いざというときは」と無言のメッセージを送ってくる。
小泉4代に渡っての街という横須賀は、何かに付け日本の施策に影響を及ぼしている街である。幼い頃の思い出や過ごし方は死ぬまでその人の生き方、思想に反映されると思うからである。
今ここに自分がいるのは過去の歴史があっての話だ。幕府がフランスの援助で造船所をここに建設、その後日本の大事な軍港として今に至っているという。長い時間に埋もれてはいけない歴史という事実。せめて100年前くらい前まで思いを馳せることのできる人間でいたい。
三つ子の魂百まで。
みなさーん、ご来場ありがとー。12月にでもまたあいまショー!

三浦半島波高し

昭和の良き日を思い出す 吹く風も穏やか日は優し
明治は遠くなりにけり 時間も精神も空の果て

どっこい港 横須賀は 観音崎にたたずんで
浦賀水道ながむれば 微かに血潮が騒ぎ立つ

祖国の存亡岐路に立ち カイゼル髭をピンと立て
軍服姿に身を包み 迎え撃つなり日本海

打ちてしやまんバルチック 祖国日本は救われた
列強しのぎを削る中 生き延び東郷ヒットエンドラン 

それから何度か戦争が 国を挙げての総力戦
戦に破れた我が国は 一から出直し昭和20年

時は流れて平成の世 百年後三笠は陸にいた
血が騒ぎ泣けてきた港横須賀 三浦半島波高し
(山木康世)

ライブが町にやってきた2

2010年06月21日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

「みなさーん。おはようーございます。しぶジジ隊です。お元気ですか?今朝も我々の往年の歌でお目覚めいかがですか?それでは1曲目、100%SOSかもね、をお送りします、あっやばい、大きな口を開けたら入れ歯が落ちてしまいました」中心的存在のじじいはかがんで拾い上げて、口に戻そうとした拍子に前へつんのめりをして一回転した。「キャーァ」黄色ではな黄土色の嬌声が場内に響き上がった。しかし大事には至らず、幕の袖で控えている医師は胸をなで下ろした。

「やっぱりやってくれたね、合掌合掌」両手を挟んでお祈りしている老人が大勢いる。特に女性が多い。中には「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」と一緒になって歌っている人もいる。

やがて1部が終わって休憩である。みなはロビーへ。薬を飲んだり、膏薬を貼り替えたり、もちろんトイレに駆け込む人も大勢いる。すっかりくつろいで長いすで眠っている人もいる。どういう訳か半分は帰ってしまった。中身が良い悪いの問題ではなく、集中力の欠如、もう1時間も聞けば満足のお年頃なのである。これから畑仕事をちょっとして昼飯を食って昼寝をして、午後からはまた違うアイドルのコンサートに出かける人もいる。もちろん楽しみな病院ロビー井戸端会議に出かける人もいる。

会館では半分に減ったお客さんを前に「それでは最後の歌、真夜中を突っ走れ、聞いてください」どこまでもアイドルはアイドルだ。ステージで振り付けもよろしく、足並みのそろわぬダンスを演じて終演となった。幕の下りたステージ上では出演者が皆ゼイゼイ言わせて座り込んでいる。やがて車いすが現れて楽屋へと移動。アンコールなどと言う時間外勤務を促す客もおらず、すでに飽きて途中で居眠り、帰る客、会館は興奮のるつぼにはならず、まさに押し寄せた波が引けるように一気に冷めてゾロゾロと口々に呪文を唱える帰りのお客をはき出した。表に出るとまた今日一日が熱くなりそうな予感の太陽がギラギラと中天にかかろうとしていた。

じいちゃん、ばぁちゃんたちはあんなに早く起きて、コンサートも見終えたというのに、ブログがこんなに遅くなって申し訳ないっす。

ライブとかけて楽天の好きなピッチャーの試合と説く
その心は「幕(マーくん)が上がって始まり、降りて終わりとなる」寝ずっちでした。
END

(山木康世)

ライブが町にやってきた1

2010年06月20日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

時は西暦2040年、北関東山間の町。時代はデジタルの進化で生でコンサートや演劇を見ることが滅多になくなった。もっぱら立体画像によるパソコンコンサートで済ませる時代になっていた。ライブを観るのは本当に久しぶりである。市民会館も蜘蛛の巣状態で眠っていて、みんな今日の日を待ちわびていた。みんなと言っても昭和を青春で過ごした、じいちゃん、ばぁちゃんのみんなである。

時間は7時。なにやらロビーは男女の年寄りでいっぱいである。みんな同じような格好をしている。上下のジャージ姿に男はキャップ、女はスカーフを巻いている。時間はというと7時を回ったばかりである。夜ではなく朝の7時である。額にはうっすらと汗をかいている。これから好きなミュージシャンのコンサートが行われる、市民会館に聴きに来ているのだ。皆の若い頃のアイドルグループが復活をしたのだ。実に50年ぶりと言うから恐るべし長寿国。平均年齢80歳。誰がってかい、お客さんじゃないよ、グループの4人の年齢だ。
ワーイッ、ライブが町にやってきた!

お客さんは朝の4時頃からすでに起きているらしい。新聞が届く前に起きていて郵便受けの前で待っているとも聞く。新聞を読み終えると公園のグランドに集まってラジオ体操をするのが日課。ラジオ体操のメロディーも昔流行った第一体操とかじゃない、その昔のアイドルのヒット曲だ。なんともオリジナルな踊りのような体操が今、密かなブームと聞く。
そしていったん我が家に帰って軽い朝食をとってから市民会館へかけつけたのだ。
「今日はどんな歌をやるのかね?デビュー曲はもちろん、ヒット曲を聴きたいモンだ」
「他の地区での演奏では何でも最近のオリジナルをやったそうで不評を買ったそうじゃ。この年になってオリジナルなんてこっちにとっては関心がない。なんでも仏像の歌や、神様の住まいとか永遠の故人とか黄泉の国へご案内なんて歌もあるそうじゃ」
「いやだね、そんな年寄りじみた暗い歌じゃなく、もっと明るい老後の歌を聴きたいモンだね。不老不死の歌とか夢見る老人とか聴きたいね」
みなはゾロゾロ会館の中へ入って行った。やがて開演のベルが鳴る。
(山木康世)

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