吉田精一君?
2010年05月28日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
南の見知らぬ宮崎という街に思いをはせて文通したのは小学生の何年生の頃だったか。地図では南にあるのは分かるが、どれほど遠いものか想像を超えていた。同じクラスのほとんどの生徒は東京がまず一番の南の訪問地であったろう。それから南へ行くというのは、何か特別な事情や親類がいるとか以外はあまり聞いたことがないほど、南の地は遠いところだった。
何年生だったかも忘れたが、確かに札幌市立曙小学校でクラスごと、生徒全員で文通をしたことがある。相手先の学校は宮崎の小学校だった。僕の相手は男子で名前を忘れてしまったことは実に惜しいことである。
2回か3回やりとりしたものと思われる。分厚い封筒の中から宮崎の観光絵はがきが数枚出てきて目を見張ったことを覚えている。鬼の洗濯岩、鵜戸神宮、日南海岸、子供の国、霧島山、高千穂峡などなどよーく覚えている。絵はがきを見ながら、いつも肌寒い北国とは違う南国を思い、いつかは行ってみたいものだと思い、返事を書いてこちらも札幌の観光絵はがきを送ったものだ。
それから20年ほど経って、ふきのとうコンサートで初めて宮崎を訪れた。そのころはまだ男子生徒の名前を覚えていてステージの上から呼んだ。もしも来ていたら楽屋に来てくださいとかなんとか言ったんだろう。しかし期待は外れて何もなかった。
その代わりではないが、同じ「康世」という名前の女性が声をかけてきて手紙をくれたことを思い出す。初めて同じ名前の人の存在を知った日である。そんなこともあったり、コンサートで各地を回るようになって今までは体験できなかったおもしろいことも徐々に増えていった。
宮崎の誰だったか、吉田精一君だったか、今この文章を書いていてフッと天から降ってきた名前であるので確信はない。しかしなぜこの名前が脳味噌に降りかかってきたか。もしかしたら正解かもしれない。脳味噌の奥深くに仕舞われた記憶の断片が、埃を取り払われて起動したのかもしれない。もしもこれが真実だとしたら、今ものすごいことを体験、体感していると言うことになる。記憶がよみがえる仕組みをだれもまだ解明していない。
相手もすでに小学校の思い出も風化するような年齢になってきたのであまり期待はしていないが、少し期待もしている。
高校の同期会で親友は聞いてきた。「ところで山木君は幾つになったんだ?」
相変わらず童顔の僕を見て聞いてきたのだろうと思い
「還暦だよ。ところで君は幾つになったんだ?」
「偶然だな、還暦だ、早いものだなー、アハッハー」
壇上にかなり高齢な人が現れた。周りを取り囲んだみんなを見渡しながら
「みんな年取ったな、ところで君たちは幾つになったんだ?」
「先生イヤですよ、みんな同じですよ。アッハッハー、アッハッハー」
口角(口の両側)を少し持ち上げてごらん。なんだか意味はないが笑いの気分にならないかい。心がおもしろくて平和な時は口角が持ち上がっている。持ち上げるからおかしいのか、おかしいから持ち上がるのか。ニワトリが先かタマゴが先か。
(山木康世)
津軽鉄道各驛停車
2010年05月19日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
津軽五所川原は演歌歌手Y・Iの故郷である。「俺は田舎のプレスリー」と華々しくデビューしたのはずいぶん昔の話だ。テレビもねぇ、電話もねぇなどと何もない田舎と歌っていた。
五所川原に初めて足を運んだのは2006年11月11日。「雪酔」「故郷はここにある」を津軽鉄道がイメージソングとして話を広げてくれた時だった。ここでは両歌の作詞者中村光一氏の働きかけが大きく我を助けてくれた。まずストーブ列車に乗りたくて勝手に企画、ライブの話を持ち込んだ。あいにく初冬で地吹雪にはほど遠かったが、寒さはほんのりと寒く、夜には冷え込みが増した。駅スタッフが薪の暖をストーブでとって雰囲気を作ってくれた。ほのかな薪のぬくもりに包まれた電車で往復2時間あまりのライブをした。ストーブの上で焼かれたスルメに舌鼓、酒も進むというものだ。
その翌年10月25日、見事な紅葉の中「立ちねぷたの館」最上階で2回目のライブを行った。青森の横に広がったネブタではなく、こちらは立っているねぷたである。睡たい(ねぶたい)が眠たいに変化した。ねぶたは睡魔を取り払う祭りとして考案されたと物の本にある。
総じて東北の人は木訥として素朴な人が多い気がする。しかし酒が入ると饒舌になり、実におもしろい話しぶりで飽きさせない。青森県は東北の中でも異質の県である。何か違う文化圏の香りがする。おそらく遠い昔、北の最果ての日本という環境が独特の人間関係を作っていったものと思う。東京から800キロほども離れている。さらにそこから津軽へ行くと、良い意味で孤立していたのではと思う。弘前とは違う、意識が芽生えたのだろう。
そんな町のローカル鉄道のイメージソングを作った。車社会の中、地域の足としてがんばっている津軽鉄道に惚れた。エールを送った。きちんと年会費を払っているえらーい津軽鉄道応援団員でもある。歌詞は五所川原在住の藤田さんという人が作った。すばらしい詩である。作りたくてウズウズした詩である。すぐに快諾した。まだ藤田さんとはお会いしていないが、5月29日には会えると思う。
今年1月にはメロディーも簡潔な覚えやすい平成民謡ができた。我ながら秀逸なものができた。
2月、五所川原に立ち寄った際、発表会を兼ねてストーブ列車ライブを再度、5月に行うことができる運びとなった。あと10日ほどである。大いに楽しみである。当日乗り込んだお客さん、プレス関係の人にどのような印象を持ってもらえるだろう。好印象と踏んでいる。
新青森まで新幹線が伸びる。記念行事の一環として11月には「津軽鉄道各驛停車」CD発売ライブも行う予定である。
今年の「この国に生まれて60年」のお祝いコンサートの陰に隠れて目立たないが、僕にとっては楽しみな地域へ貢献活動ではある。
その前に明日から二戸へ伺う。ここも東北は岩手県である、そして盛岡ライブ。南秋田にも行く。初夏の東北へ風はなびいている。
さてもみなさんおききあれ 津軽鉄道おもしろや
名所名物夏祭り 各驛じまんの二つ三つ(詩・藤田けんじ)
(山木康世)
汝迷う事なかれ
2010年05月18日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
道に迷う。進路に迷う。低迷。混迷。選択に迷う。情欲に迷う。二葉亭四迷、クタバッテシメェ。答えに迷う。いっとき「ファイナルアンサー」なる言葉が流行った。あの脂ぎったオールバックの亡者のギョロメが、バックグラウンドミュージックと共に回答者に答えを迫る。迫真の演技。天国か地獄。
そんなに迷うことはない。確かに迷うことが多い人生である。しかし生きるか死ぬかほどの重大な選択など人生で滅多にお目にかかれないだろう。それよりも迷って迷って迷いすぎている時間の方が問題である。もったいない。それでなくとも時間は勝手に過ぎて行く。時間を有効に使うには、使用者側の心の持ち方次第である。お金も同じ。金さん銀さんではないが「番組で得たギャラはどうするのですか?」とアナウンサーの問いに迷わず「老後のために貯金です(笑)」とっくに老後だろうと全国民が祝福の笑いをした。
生きて元気なときに使わなくて何が楽しいか。病気や事故のために備えていても良いが、病気や事故は何もすべて天から降ってくるのではなく、本人の気持ちの持ち方、行いで招くこともあろう。なんとかなる。みんなやってきたのである。
東京の空は快晴なり。もうすぐ梅雨のである。そして猛暑がやってくる。その前のさわやかな朝のひととき、汝迷う事なかれ。
(山木康世)
札幌山葉野原音始末記
2010年05月18日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
ふきのとう「011」を思い出す。
ヤマハスタジオジャックで1ヶ月にわたり録音された。東京からのメンバーはススキノのホテルに缶詰状態である。録音を終えて外に出ると、夏でもヒンヤリとした北海道の朝が待っていた。早朝まで営業しているクラブで最後の仕上げをする。
「音」で興奮した脳はすぐには冷めない。一杯引っかけて帰るのが楽しみで、今日の録音をあーでもない、こーでもないと語り合いながら時間は過ぎていった。あの夏は脳のヒダに深く鮮明に刻まれている。徐々に陽が昇ってくる。カラスがススキノの朝を掃除している。ヤマハと言えばスタジオジャック、011と連想する。あれから30年ほども経っているだろうか。
スタジオジャックは無くなっていた。あのときのカメラマンOもいない。事務所も無くなった。しかしレコードはしっかりと「音」を残している。
そんなこんなの思い出の詰まっているヤマハでジョニーことギタリストの曽山良一さんと共演となった。さすがヤマハである。出る音に寸分の狂いがない。現代の澄んだ音が場内に鳴り響く。
モニタースピーカーと称するのものが足下に転がっている。今ではイヤホンでモニターする人も多くなっている。それも無線で音を聞くというのもある。音楽を演奏する場合、通常表(客席側)に出す音と中(ステージ側)に出す音がある。表に出る音に関しては表にいる技術屋に任せるしかない。しかし中の音は演奏者が演奏しやすいように注文を付ける。ギターの感じも同じである。ボーカルとギターの音量バランスなどを技術屋に伝える。このモニター次第で出来不出来が大きく変わってくる。気分の手元で弾かれるギターの音は、脳が何かを感じて弾かせるのである。すべてそうであるが、脳が基本、司令部、連合艦隊の旗艦総大将なのである。こいつがおかしな命令を出すとことごとく隊列は乱れ、何かおかしな戦闘となる。その結果負け戦となるのである。
59歳札幌での音楽会は予想以上の成果を上げて終了した。
良い音は良い演奏となる。それを聞いた観客の心が平穏になり、時には感動の嵐が吹き荒れる。何が良い音楽で何が悪い音楽かは鉛筆で紙の上に書いて説明ができない。しかし確実に存在する。それはその場にいた人たちがミューズ(音楽の女神)に会う瞬間でもある。天から舞い降りてくる女神はいつも居るわけではない。きちんと我らが用意して、おもてなしの心を見せないと降りてこない。
この日はここにいた全員のエネルギーが女神降臨となった。
かくして五月晴れの故郷音楽巡礼は幕を下ろした。
ジョニーありがとう、みなさんありがとう、ヤマハさんありがとう。
(山木康世)
札幌三吉神社奉納音始末記
2010年05月16日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
天気は完全に回復。美幌を後にして層雲峡、石北峠を抜け砂川PAで一服。高速道を一路札幌を目指す。
札幌の空も「三吉神社の杜の詩」にあるとおりの五月晴れである。我ながら天晴也。
すぐに札幌市電乗り場へ向かい、電車でGOライブ。真っ赤な日本人ジョニーとの再会。父を捜して三千里、放浪のギターマンにも会う。厳正なる抽選で選ばれし30名が市電に乗り込む。その前に全員でハイ、チーズ。
市電ライブも3回目となると自然、気持ちにゆとりが出てくる。お客さんのほころんだ笑顔が故郷に帰ってきた実感を増す。故郷の空気は良いもんだ。3年目となる市電ライブも我が人生の一つの行事になった。
今回は電車の内部を大学生有志が飾った。この一年の間に、市電ライブ企画に参加する人たちがずいぶん増えた。市電ライブが市民権を得てかわいがられてきていることが分かる。
出発進行。以前新年会をしたことがあるイタリアンレストラン「レッコルレーア」の大将、女将がいつも通り、店の外に出て、電車に行きも帰りも手を振ってくれる。
市電が藻岩山の裾野の歩道に差し掛かると、なんと抽選に外れた山木倶楽部会員が、激しく電車に向かってオレンジのストールをはためかせている。車内は笑いのるつぼ。最高の演出だ。付近を通り過ぎる車の運転手がごきげんな顔で彼女と電車を見ている。
やがて電車はUターンし、三吉神社へ向かう。
境内はぎっしり集まったお客さんでいっぱいだ。やる気が一気に出る。今年も五月の晴れの夜空で歌える幸せをかみしめて90分一本勝負。弁慶と義経が空から降りてきて過去最高の三吉神社例大祭奉納音楽会となった。
打ち上げでは、参加した新たな若い大学生のスタッフが紹介された。
札幌中心部の心の拠り所、神社は動き始めた。本来あるべき姿に戻りつつあると感ずる。人が出入りしなくては始まらないのだ。空気が淀んでしまっては何事も良くないのだ。ライブも同じだ。
「僕死ぬのをやめました。ありがとうございました。」二人連れが楽屋に戻る途中の松の暗闇で手を差し伸べてきた。がんばれよ、聴いてくれてありがとうね。
提案を記しておく。
土曜、祝日、休日市内中心部の駐車場を無料にする。路上パーキングは1時間に限る。駐車場への補てんは全商店街が知恵を絞ってひねり出す。人が大勢戻ってくれば、そんな金はすぐに捻出できる。警察も取締りばかりではなく、サービスで誘導したり道案内をする方向に向かわなければ人は戻ってこない。どうしてああも人を取り締まりたがるのか。子供だって親に怒られれば反発したくなる。同じで反感をもたれる警察のイメージを変えろ。田舎の駐在所のお巡りさんの心で市民に接してくれ。自然やさしい顔つき、やさしい心遣いになるというもんだ。
以上提案を述べて幸せの例大祭音始末とする。みんなありがとー、ありがとー。
(山木康世)
美幌小宴会音始末記
2010年05月16日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
一年ぶりの美幌である。周囲にはまさに北海道東部の風景が広がっている。
中学の修学旅行で初めて道東に来たとき、目の前の自然に驚いた。松が札幌に生えているのと種類が違う。コロポックルがヒョコンと目の前に現れてきそうである。蕗の葉っぱの下に隠れている神様がコロポックルだ。
あいにく霧の摩周湖、屈斜路湖も霧。川湯硫黄山の茹で卵の出店も今日はお休み。しかしこの霧がさらにロマンと伝説の神秘さを増幅する。大自然は変わることなく静かに息づいている。気温は5度。やはりロシアの環境と同じだ。(と言ってもロシアは知らない。行ったことがない。一度イギリスに行く途中、モスクワに、それも空港に立ち寄っただけだ、エヘヘ)
プチパーティは去年より整然として、ステージ上もキチンとしていた。マスターに話したら、徐々にではあるが上向きと聞く。うれしくなった。毎日の積み重ねで店の表情が変わってくる。入ったときに感じた店の空気は澱んでいなかった。
オープニングアクト「おやぢる」のふきのとう音楽界はうれしい限りだ。当時はきっと中学生だったんだろうな、と思われる今では立派な大人連が僕の音楽を一生懸命歌っておもてなしをしてくれる。こんなこと30年前には考えたこともなかったよ。そうだよな、山木も還暦、元い山木、感激!
降るような星は見られなかったが、僕の心にはたくさんの思いの星が降っていた。
眠れない夜だった
眠れない夜だった ボンヤリ星を見てる
思い出してみたよ 会いたくなったよ
君の話し方や 癖を思い出した
あのころの僕たちが 笑っていたよ
バスに揺られながら 一度だけ旅をした
見渡す限り草原 オホ-ツクの海
夏でも寒かったね 北の町で僕たち
地球上で二人だけの 初めての夜
ホテルまでの夜道を ほろ酔い加減で
夜空に隠れるように こっそりキスをした
君のひとみのなか 満天 夏の星
ほっぺたにこぼれ落ちた 流れ星一つ
眠れない夜だった 会いたくなった君に
あの頃とちっとも変わらない 夏の星空
(山木康世)
大海原を北上中
2010年05月14日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
いよいよ恒例の三吉神社例大祭拝殿でのライブ奉納の日となります。
年に一度の故郷紀行、北帰行、精神の確認、浄化、友との友情。いろいろな意味で三吉神社は、5月15日は、この10年特別な日となりました。帰るところのあるサーモンは幸せモンだ。
産卵期の雄は上あごがのびて曲がるので、俗に「鼻曲がり」と呼ばれる。それにしても鼻の付く慣用語はえげつない言葉が多い。鼻が高い。鼻であしらう。鼻持ちならぬ。鼻で笑う。鼻にかける。鼻につく。鼻の下が長い。鼻を明かす。鼻を折る。以上が明鏡国語辞典。鼻息が荒い。鼻を伺う。鼻っ柱が強い。鼻面を取って引き回す。鼻に当てる。鼻笛を吹く。鼻の下の建立。鼻向けもならぬ。鼻も動かさず。木で鼻を括る。以上広辞苑。
その前日、つまり今日は美幌プチパーティ、ここは2回目でオープニングバンド「おやぢる」は「ふきのとう」の歌を熱く歌ってくれるそうです。まっこと再会が楽しみでございます。マスター、ママも変わらずにいるでしょうか。クッシーの棲んでいるという屈斜路湖はすぐそこです。中学生の修学旅行で初めて見た道東の湖の神秘さを今でもはっきり思い出せる。圧巻は阿寒湖なんて、その後「霧の摩周湖」で一躍有名になった摩周湖、アイヌの伝説がそのまま今でも息づいているような北海道東部の旅へいざ。
翌日は札幌三吉神社例大祭、その前、夕方のひとときを札幌市電車中ライブ。早いもので3回目となります。初夏の札幌の町中を電車でライブと行きましょう。桜はとっくに散っているでしょうか。拙者ダイエット中の身、美味い魚、美味い肉に誘惑の手が伸びますが、じっとガマンの子でいよう。
そして翌日はヤマハライブ。去年の夏、七夕以来の札幌コンサート。地元である故郷、59歳最後のコンサートでございますので、格別な思い出のコンサートにしようと今から気は逸っております。
結婚、離婚を繰り返す精力絶倫サーモンは再結成ツアーを前にメディア戦略へ。
麻薬所持サーモンは逮捕、出所、釈明を述べて、ツアーに臨む姿勢を新たに。
あくまでも36年間マイペースサーモンは大海原を故郷へと遡上、北上いたします。まだまだ旅の途上、航海に牛歩のごとき幸あれ。お会いできるみなさん、楽しみにしています。
(山木康世)
恐怖のツベルクリン反応
2010年05月13日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
朝のワイドショーで「小学生女子に子宮頸ガンのワクチンが予防のため打たれました。接種希望者は7割でした」というニュースを聞いた。解説者のTは「性交渉に因って発症します。小学生の高学年くらいになると考えられますので良いことだと思います」と解説していたが、本当に今時の小学生は高学年になるとそんなことまで常識なのかい、と自問自答。進んでるー。
子供の頃のツベルクリン接種は怖かった。結核予防のために国が取っていた措置だとは思うが、毎年あったような気がする。BCGという言葉を聞いただけで、翌日の反応がどうなっているかどうか考えてしまい眠れなかった夜を思い出す。
2日後の朝、起きてパジャマをめくって腕に打たれた注射の後を見る。赤くそれなりに広がっていれば合格。広がっていなければ更に痛い痛いBCGが待っている。直径が10センチ以上が陽性、それ以下は陰性→B!C!G!
学校に行くと皆が腕を見せ合っている。「俺はこんなに大きく広がった。大丈夫だ!アハッハ」とニコニコ顔のやつ。「大丈夫かなぁぁ?」と不安げに腕を何度も何度も見るやつ。
やがて全員が名前順に並んでノギスによって計られる。恐怖の結果発表である。反応の小さなやつは指を二本立てて人に隠れてピシッとたたいたりしている。それほど皆注射はイヤだった。BCGなどになったら逃げ出し、しばらくほとぼりが冷めるまで病欠だ。そんな覚悟のやつもいただろう。罪なツベルクリン反応である。しかし本当に罪作りで近年に予防の効果はほとんどないと言うことで、廃止になったという。外国ではとっくに廃止されていたという。
ツベルクリンに限らず学校の行事で嫌いなものの横綱は「身体検査」であった。その頃の僕は「骨皮筋衛門」(ホネカワスジエモンと読み、ガリガリくんの代表格の言葉。この言葉を考えた先人に座布団100枚。骨と皮と筋だけの人である。相当に怖い。この言葉は父から教わった)骨と皮と筋が体重計に乗ることの恐怖。それも衆人の目の前で確認されることの屈辱感を誰が想像しよう。今ではまるでまるでまるで考えられない贅沢な屈辱感の遠い思い出の日々である。
幼い頃から予防でワクチンが接種されて、いろいろな病気の根絶につながるなら早急にするべきであろう。しかし怖いのは、人それぞれが持っているアレルギー反応というやつである。接種による副作用は神様にしか分からない。
人に頼らず、最後は自分の毎日の生活態度如何が幸せの種子の育ち具合と言うことなのだろう。
それにしても小学生高学年女子の実態は本当の話?男子の話も聞いてみたい。
さぁ明日から寒い北海道へ。桜がまたまた見られる幸福に感謝です。
(山木康世)
僕らは夜明けを待っている
2010年05月11日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
民主党の参院選の戦いで、柔道のYが擁立された。そのほかどうなってるのと言いたくなるような、過去のスポーツ選手が他の党からもこぞって票集めに駆り出されるようだ。 普天間基地問題で大混乱の米国への返答を前に日本は何を考えているのだろうと思ってしまった。彼らに何ができるかはっきりした眼で見なければ、この国は終わってしまう。そしてスポーツ選手は金メダル、1位を幼い頃から親や先生にたたき込まれたはずだ。その人が弱い立場の人の気持ちになって物事を考えらるのだろうか。金メダルを必要としない人は大勢いるはずだ。それよりも住みよい社会作りが優先されるべきだ。
アメリカが核を持ち込んでいた事件は、日本側の暗黙の了解があったと結論づけられた。日本とアメリカの間で解釈の違いがあったが、日本側はアメリカとすり合わせをせずに閣内で話し合い、アメリカに気を遣い暗黙の了解をしていたのだろう。
「どうだろう、アメリカは来月核を積んだ船が寄港したいと申し出ているのだが」
「非核三原則に基づいて断りでもしたら、今後日本防衛でアメリカがどのよう態度を取るか分からない。ここは知らなかったということで国民に白を切るという手で乗り切ろう」
「私も賛成です。こと核に関しては大広げに議論しても結論がすぐに出るという単純な問題ではない。結論が出る頃、我々は全員お隠れになっているだろうが、時間が解決してくれるだろう」
「そうだな、嘘をつきたくはないが真実を言って混乱させて冷静に判断できない元、最悪な結論は是非避けなければならない。嘘も方便、方便」
「神の領域に触れるような核の存在を知ってしまった時から人類の悲劇は始まった。核の持つジレンマに我々は悩まされることになったのだ」
「人間は自己保身に基づいて、生き延びようとする。それぞれの立場でそれぞれ議論し始めると結論など出るはずはない」
第二次世界大戦で日本は核を頭上に落とされた。一応終結と見えたが始まりであった。核核戦争に勝者はない、ということに人類は気づいた。両者とも破滅するのである。破滅しないために、持ってはいるが使えない、使わない。そのためには両者が努力して仲良く強調して生きなければならないということを強いられた。米ソが冷戦状態に入ってから、どれだけの大金をつぎ込んだのだろう。核など開発しないで、それだけの大金を他に使っていたらどんな世界が待っていたのだろう。それとも人間は愚かな存在なのでまた未曾有の戦争をして、破滅寸前のところまで持って行ってるかもしれない。
20XX年とある日
馬鹿なことを決定した人間をどうすることもできなかった国民。国民の代表であるはずのトップと国民の立場が逆転した。トップのために国民は犠牲を強いられる。こんな馬鹿げたことのために僕らは生まれ、生きて行くのではない。死の灰が降りしきる核の冬の日、呆然と立ちつくして空を見上げていた。
コックンヘ
君の応援は僕を大いに元気づけているので、あまり考え込まないでほしい。ユーチューブの音源の件だけ僕の気持ちを考えてくれればそれで良い。紹介してくれるのは本当に有り難い話だ。そしてその先にあるかもしれない面倒な話、聞いた人それぞれの問題を書いただけだ。コックンはおそらくきちんと僕のCDを買い求めて紹介してくれていると思う。しかし中にはアルバムなど必要はなく、1曲だけ聴いてみよう、コピーで終わらせてしまおうという人がいたらCDが売れなくなると危惧しただけの話だ。福岡、熊本での熱い応援をしっかり覚えている。これからも独特のコックン節でくれぐれも応援よろしく頼む。
(山木康世)
飯田絵布後始末記
2010年05月10日 | カテゴリー: ミュージック・コラム
夢を見た。
パソコンを保護するインナーバッグが見あたらない。昨日の店へ戻ってみた。長いトンネルを歩いたらおばあさんたちが大勢いて何かをしている。トンネルなんかあったかなぁ?昨日の若いスタッフや社長らが一人も見あたらない。
地面を見ると泥の中にインナーが落ちていた。どうしてこんなところに落ちているのか。しかしよくぞ店に戻ったものだと思いトンネルを戻ると、昨日降ったらしい雪がたくさん積もっている。トンネルの先が明るい。今日は夏タイヤでどうやって帰ろうか、帰れないのではと思いホテルに急いだ。
社長に挨拶をしてから返ろうと思いまた引き返す。今度は昨日のスタッフの他にも大勢の男女が集まっている、そしてお笑いのSもいる。Sはベラベラしゃべっている。
僕と社長はステージの方へ移動して、片時Sを忘れていた。すかさずステージへやってきた。Sは僕のギターを貸してくれという感じで手を伸ばすとチューニングを始めた。本当にギターを出来るのか思いながら、チューナーではなくカポを渡した。Sは実に大きく厚い手をしていた。ごつくて僕の二倍もあるような手であった。Sはここでも笑いを取ろうとしている。隣には店の女性スタッフが。俺の好みだったとか何とか言いながら、Sはチューニングをする振りをしている。ここで夢が終わった。
飯田「キャンバス」ではなんと16年ぶりの再会があった。キャンバスは場所が移ったという噂があったがそれはデマで、もとの場所にあった。階段を下りると薄暗い懐かしい店内が。かなり使い込んだ感じだ。当時僕は前乗りして突然、下見と称して店に現れたそうだ。びっくりしたそうだ。それはそうだろう、電話の一本でも入れればいいものを。これも父の癖の一つだった。そんな父の癖をしっかり44歳の僕が受け継ぎ行動していたとは、驚きだよね。
オーナーのミスターKは初対面の僕に大学生のような印象を受けたという。偽善を嫌って、とても非難して偽善者をクソ呼ばわりして夜遅くまで焼き肉を食ったそうだ。初対面の人にずいぶんだとは思うが、今もそれほど変わっていない。キャンバスはスタッフも増えてKはとても良い53歳になっていた。
もう一人再会があった。篠笛奏者のミスターUが遅くに笛を持って現れた。Kの誘いであった。Uはその後何年か年賀状をくれたりした。今は笛の第一人者になっていた。そして大昔のススダケで作った笛を取りだし、なんと吹き始めてくれた。即興で「義経」をイメージして吹いてくれた。会うべくしてあった感じで、天を仰いでしまった。
キャンバスを紹介してくれた大阪在住S子さんの旦那さんは鼓奏者である。60歳「弁慶と義経」には、笛と鼓とドラムとベースのコラボもおもしろいかもしれない。夢はふくらみ59歳5月11日2300キロツアーは大盛況、無事終了となった。天は我にあり。
お忙しい中、アリーナ席、二階席の皆様まっことありがとうございました。今日も着々と500g軽くなったようだ。
(山木康世)