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北見端野石倉音始末記

2010年09月14日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

端野は北見の外れにございました。のどかな緑が広がる中に石倉が良い感じで建っておりました。
聞くところによりますと、米の倉庫だったようです。石壁の厚さが30センチほどもございますので、音響に関しては締りの良い音が期待されます。ここでは何でも行われるようで、先日はプロレスを行ったそうでございます。
会場一杯に並べられたパイプ椅子の多さがやる気と興奮を誘います。やはり人は多いほど良い。あまり多すぎても、感動を伝えることは難しくなります。程よい人の数は、程よいライブ感を出すものでございます。ギター一本の限界もございますので、程よさが良いのです。

すっかり日の落ちた控え室で、はやる心を抑えて準備していますと、お握りの夕食が。これにナスとキュウリの漬物が添えてございました。こんなちょっとした気遣い、心遣いが嬉しゅうございます。ブラインド越しの暗闇を見ますと、会場前30分にも関わらず熱心なお客さんが行列を作っておりました。こんな場面を見てやる気を起こさないアーティストは不幸を招くことでございましょう。熱心さの表れが人の行列なのでございます。
本番にはほとんど見たことのない老若男女がギッチリと会場を埋め尽くしておりました。
こちらはいつもどおりの姿を披露となったわけでございますが、想像以上のライブだったようでございまして「ブラボー」とクラシックコンサートでかかるお声が出る始末でございます。何とも面映いという場面でございました。

打ち上げの出席者は、わたくしがデビューした36年前には幼児期だったスタッフがほとんどでございます。理由は主催が商工会青年部でございましたからです。40歳が上限と言う青年部のスタッフたちはわたくしの子供の年といっても良いような方たちばかりでございます。こんな打ち上げを36年前には絶対に想像できなかったわけでございます。やはり確実に月日は流れておりました。しかし、こんなそんな連中が今の日本を引っ張り、日本の姿を作るのでございます。彼らがどんな気持ちで国造り、町造りをするかで趣が変わってくるのでございます。
老兵は去るのみ、ではなく老兵は経験談を話して聞かせ、後ろからジッと見守る相談役で出番は幾らでもございます。音楽も同じで世代のスライドがスムーズにできなくて住みよい世の中は、なかなか考え辛い。老若のお互いが取り柄を存分に認め合い、存分に交流し合うところに人生の妙味があると信じております。こんな時に発するブラボーは本当にブラボーでございます。

酒飲んで、客と口論して、コンサートして、その上払い戻しまでしてまでも成り上がっていられる歌手など世界では絶対に通用しないはずなのに、そこに群がる大勢の観客、メディア、実に日本とは緩く甘いお国柄だと痛切に感じる今日この頃でごまします。

みなさん本当にありがとうございました。
(山木康世)

江古田魔ー鬼ー音始末記

2010年09月07日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

やれやれもうすでに土曜日から3日も過ぎてしまった。
ついつい忙しさにかまけて日々を過ごしてしまったらこの様だ。あれほど会場でブログの話をしておいて、期待をしていたお客さんには申し訳ないく申し訳ないく平身低頭。

もうよい、もうよい(お客さんの声)

9月4日も東京は猛暑.残暑どころではない。しかし8月に比べると幾分湿気が減ったようで、蒸し暑いというよりは直射日光の暑さという感じでしのぎやすくなったか。
今日のマーキーは僕にとって特別な日。母の命日である。30年前母は他界した。
僕は札幌保全病院で早朝野球、不覚の左足首骨折、全治3ヶ月退院まで1週間というところだった。母はこの日、朝4時ごろ平岸にある幌南病院の一室で息を引き取った。窓を激しくたたく風どもを思い出す。母を風どもも一緒になって「まだ行っちゃだめだ、逝っちゃだめだ」と起こしているようだった。翌日は夜明け前のお別れがうそのようで青空にはたくさんの赤トンボが飛んでいたっけ。兄貴と病院の帰り道、喪服を買うことを相談しなければいけないことが悲しかった。

先日の江古田は盛りたくさんのメニューをこなした。
まず母の死に面して、一人自分も病室という孤独な環境で作った歌「秋の夜」「外は雨模様」「パレード」を当時を思い出しながら歌った。30年前の歌には思われない不思議さを味わう。30年という月日の長さは一瞬にして昨日のように縮まった。
「津軽鉄道各驛停車」をミックスしてマーキーに持っていった。その音源に合わせて会場でご披露となった。根津でしっかりコーラスで参加している雑魚音の会のみんなにも早く聞いてもらいたかった。五所川原小学生37名、津軽太鼓が入った完成版だ。冒頭には津軽鉄道社長の「出発進行!」が発破をかける。

安宅の関での勧進帳祭りもしっかり歌った。20日後にはローソクの灯りの元、どのようなイベントが催されるのか。弁慶、義経、富樫も天界から降りてくる支度で大わらわだろう。東京からわずか50分ほどで石川県は小松空港に着く。なんだかんだして乗り換えやごった返していたら、埼玉や千葉よりも近いかもしれない。天気のご機嫌を願うばかりだ。

マーキーご参加の全員に聞いてみた。
「ネットでブログをいつも見ていない人は拍手をしてください」
一人もいなかった。もしかしたらこの話の実態から理解できなくて途方に暮れていた方もおられたかもしれない。まぁ良いとして、昔は半数くらいの人が拍手をする時期もあった。かなりの普及率と見た。これで書きがいがあるというんもんだ。
別れ際オーナーのU氏から還暦コンサートに花を送ると言われた。うれしかった。お互い60歳を向かえるにあたって、もう少しこの国は考えないといけないということで合意した。これを機に領土問題や、過去の戦争の意味、意義などを風化させないようメッセージをしていこうと別れた。50代最後の絶唱は終わった。完全燃焼也。

僕がマーキーを定期的に続けてきた理由にU氏のものの考え方や、店の持っている雰囲気が大いに手伝っている。僕は死ぬまでフォーク魂で行こう!
次回は11月20日、きっと秋風が吹いて僕は60歳になっている。
(山木康世)

どこで拾われました?

2010年09月03日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

「どこで拾われました?」
駅員は黄土色の財布を受け取り尋ねてきた。札入れのような縦長の財布だ。
どこと言われても、電車の中なので移動している場所をどう説明したら良いか一瞬考えた、
「僕は『新井薬師』で乗って、気づいたら向かいの座席に放置してあったので『下落合』あたりでしょうか。」
これが一番近い答えのような気がして答えた。
「分かりました、1番ホームに今入った電車ですね。」

今日も東京は猛暑。ホームで各停新宿駅行きを待っていた。日陰を探して電車を待つ。たった今急行が勢い良く通り過ぎたので、もうじき普通電車は来る。肌がジリジリと焼かれている感じだ。まぁ夏は思いっきり暑いほうが夏らしくて良いのかもしれない、それにしても今年の記録ずくめの猛暑は異常といえるだろう。

悠悠空いている電車に乗り込んだ。涼しいー!あいにく日差し側の座席に座る。みんな隣の人と、ひとつずつ開けて座っている。寝ているか、携帯画面に目をやっているか、何もしないで風景を見ている人を見つけるのは近頃難しい。昔は本を読んでいたが、今は本当に小さな画面に釘付けだ。まぁそのうちみんな飽きて本に戻るのだろうが今はものめずらしさと言うところか。

そんなことを思いながら自分も携帯端末画面を見ている。向かいには中年男性が盛んにメールを打っている。そのひとつ空けて座っているキャップを被った、少々服装の乱れた若い男性も携帯に釘付けだ。電車が停まって、その男性が降りたな、と目の片隅で認識した。そして良く見ると座っていたところに黄土色が放置してあるではないか。気が付いたときにはすでに時遅し、電車はドアを閉じて動き始めていた。躊躇しないですぐに声をあげて立ち上がり黄土色を拾い上げていたら間に合ったかもしれない、と思いながら隣の中年を見ると認識したのかしていないのか分からないほどまだメールに夢中だ。手を伸ばせば彼からは届く距離に黄土色はある。どうなることやら。誰かが次の駅で乗り込んできてそこに陣取ったら次の展開へと事は進むはずだ。しかし誰も乗り込んで来なくて、中年も「高田馬場」で画面を見ながらそのまま降りてしまった。

車内には数えるしか乗っていない。次は終着の『西武新宿駅』だ。僕はここで一番良い行動は何かと考え、まず席を移動、黄土色を確保した、しかしこれは届け出る行動の初めの段階であると誰に言うともなく心で唱えていた。決してポッケなど絶対にしない、神に誓って言う。こんなことで人生を棒に振るほど馬鹿ではない。しかし中身が気になるところだ。僕は流れる外の風景を見ていたが、何にも見えなかった。
きっと落とし主は今ごろなくした財布に気が付いて、尻のポケットから座席に滑り出てしまったんだ。困った、困った金はそれほど入ってないが、免許証やカードの類をこれからいちからやり直せっていうのかい。トホホ、泣くに泣けない昼下がり、きっと拾った主は良い人に違いない。きっと届けてくれているはずだ。駅員に早く知らせよう。もしも悪い人だったら…。

ドアが開くのももどかしく、急いで黄土色をしっかり右手に握りしめ小走りでホームを案内所へ。もしも僕の行動を誰かがしっかり見ていて、あいつは財布を拾ってそのまま小走りでホームを改札口に向かっている。これは一大事、声を発して事件を未然に防がなくては、とか、あり得ないが、さっきの男性が後ろから「スミマセーン、その財布僕の何ですが」とか、そんなことになったら自分の考えをどう説明したら皆が納得するか。こうなると本当に事はややこしくなる。世間でよく言われる冤罪というやつか。やだやだよしてくれよ、身に降りかかる火の粉は早く、未然に自ら解決しなくてはならない。僕は善人です、悪人ではありません、今、困っている人を助けようと急いでるところです。

こんなそんなが脳裏を交錯したが、ほどなく何事もなく駅案内所にたどり着いた。
自動ドアを開けて中に入ったときには本当に安堵していた。良いことをして、こんなに心臓の鼓動がときめいたのは初めてのことだ。
日常とは何とも、いつ何時何が起こるか分からない筋書きのないドラマであるなぁ。その積み重ねの連続がその人の人生であるということか。
落とした男性は今頃戻った財布を見ながら、拾って届けてくれた正直な善人が東京にもいることを思ってくれただろうか。携帯の画面ばかり気を取られていて、もっと取り返しのつかない不測の事態が起こるかもしれないから気をつけなよ。

「どこで拾われました?」

(山木康世)

アナログとデジタル

2010年09月02日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

HMV渋谷が閉店した。タワーレコードなんかとっくに姿を消してしまった。少し若いころ、レコードからCDに音楽配信が変わったとき、海外の大型CDショップが日本に、まるで黒船がやってきたかのように襲来した。
表現者にとってアナログレコードはいろいろと都合がよかった。あの大きさがまず大きすぎず、小さすぎず格好な大きさだった。紙の持つ柔らかさと、塩化ビニールの絶妙なバランス。しかし買うほうにとっては何枚も大量に買うということはなかっただろう。好きなアーティストはかかさず買ったにしても、見栄で買ったり付き合いで買ったりする人は少なかったろう。存在感のあるアナログレコードは、その分それでなくても狭い部屋を占拠するのだから考えてしまう。
もしもCDがこの世に出現していなかったら、今の何千曲も持ち歩くような聞き方もないはずだ。デジタルの進化系が今の姿である。人間とは恐るべき発見、発明をするもんだ。そんなことをやらかす人間は数字に滅法強く、数字が飯より好きな工学系の人間であろう。学校では目立たないがいつも上位にランクインしている優秀生であろう。

片や音楽となるとどちらかというと文学系であろうか。妄想癖があり、何かにつけてロマンを感じてしまい、人前で涙を流すことをはばからない人間が多いと言えるかも知れない。アナログの時代は両者が拮抗していたが、デジタルになって逆転してしまった。音楽が数字的の色合いを濃くして行った。
その象徴が聞き方に現れている。
昔は聞き始めると30分ほどはスピーカーの前から離れられなかったものだ。一部のマニアは良い音を聞こうと一生懸命工夫をしたものだ。針を交換したり、高価なスピーカーに買い換えたり、アンプを自作したりと音への追求も忘れなかった。東京に行ったら、音楽好きは秋葉原へ直行だ。雑誌で見たパーツやキッドを見に出かける。帰りには輸入盤を買ってくる、なんてハイカラなこともあった。

作る方もポスターを付けたり、曲順をみなであぁでもないこぅでもないと考えた。LPレコードでかもし出せる世界を可能な限り追求して1枚を作り上ようと懸命だった。聴き手は聴き手で歌が終わると次の歌のイントロが聞こえて来るほど好きなレコードは何回も何回も盤がすり減るほど聴いた。1枚聴き終わると、これが待ちに待った待望のレコードだと抱きしめたりもしたものだ。ジャケットを壁に飾ってインテリアの一部にもした。そんなあまっちょろいロマンチックでセンチメンタルな世界は、みんなみんな消えて闇の向こうに行ってしまった。
デジタルが悪いのではない。むしろデジタルの可能性のほうが一般的には大きな貢献度である。しかし音楽の持つ深さ、広がり、曖昧さ、衝撃さなどとの相性が合わなかっただけだ。

楽曲はまるで市場に並ぶ魚の切り身のように一曲いくらと切り売りされ、パソコンへダウンロードされ、聞き飽きたら削除すれば目の前から消えてなくなる洋服や食べ物と一緒になってしまった。今時の若者はCDは買わないらしいが、買ったとしてもさっさとPCにコピーしてMP3化してしまい、ケースや本体はゴミ箱行きになると聞いたことがある。恐ろしく合理的、かつ冷たいなぁというのが印象だった。明らかに僕らの若い時分と大きな違いがあって言葉も出ない。制作者の意図など全く関係ないというところ。
魂の音楽と呼べるものがこの世にあるとしたら、そんな魂の音楽も薄っぺらなブランド品と同じような扱いにされてしまった。
歌は世に連れ、世は歌に連れなどとずっと言われ続けて来たが、まさかこんな時代になるとはお釈迦様でも気がつかなかったであろう。

42歳のとき初めてアメリカに行った。ニューヨークに寄ったときタワーレコードに立ち寄って、日本でも買えるのにマーク・ノップラーの新譜CDを買ってきた。今では絶対にしない旅行の仕方であろう。ちなみに若かりし頃、南青山に住んでいたことがある。ツアーで明け暮れていた頃の話であるが、久しぶりに東京に帰ってきた休みの日によくレコードショップに出かけた。目的は聞いたことのないシンガーソングライターのレコード漁りであった。店主はいろいろとレコードをかけて紹介していたものだ。名もなきシンガーソングライターが未だに心の片隅に生き続けている。

先般、根津で雑魚音会のメンバーの「津軽鉄道各驛停車」のコーラスを録りにデジタルレコーダーをひっ下げて出かけた。後日、青森県の五所川原へも、今度は小学生のコーラスを録りに出かけた。アナログ時代には出来なかった芸当である。事務所で採取してきた音をミックスした。その日も東京は猛暑で暑かったが、ヘッドホンから流れ出る音の洪水に得も言われぬ感動で厚い胸が熱くなった。デジタルとアナログの融合の形の一つだろう。
世の中がどんどんデジタル化してゆく中、僕の心はやはりアナログ思考であることを確認したレコーディングではあった。

(山木康世)

両者の言い草

2010年08月30日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

ご主人様「そりゃびっくりしたよ。ワシがちょっと考え込んで用を足していたら、視界の片隅になんか違和感を感じたんじゃ。よく見ると真っ黒い親指ほどのモノがこっちを伺っているようだった。一瞬凍り付き、まずこの狭い空間から早く出ようと思った。それと同時に早く奴が遠くへ行かぬ前に強力殺虫剤で一吹き。近くの100円ショップでホイホイを買ってこようと思った。一匹出てきたら100匹いるというからクワバラ、クワバラ。そんなことを考えて見ていたら奴は段ボールと段ボールの隙間にゆっくり逃げ隠れてしまった」

黒い奴「俺だってびっくりしたよ。あんまり暑いんで物音もしないからすっかり留守と決め込んで便器の水をいただこうと考えていた矢先、いきなり音と共に急ぎの用事のように入ってきた。俺も固まってしまってしばし様子をうかがっていたというわけさ。俺たちにとっても水がなくてはいけてゆけない。あの絶壁のようにそそり立った便器までよじ登って、壁を落下しないように這い降りなければならない。時間がかかるってもんだ」

ご主人様「それからワシは用もそこそこに早めに済ませ、強力殺虫剤を見つけて戻ろうとしたら、あいにく電話があったんじゃ。仕方がないから電話に出るとどうでも良いような電話が。長いもんですっかり奴のことは忘れてしまった。テレビを見ていて殺虫剤のCMが流れて思い出したんじゃ。恐る恐る音を立てないようにドアを開けると、奴も前のヒゲをピンとおったてて忍び足のような感じでちょうど隙間から出てくるところ。俺は急いで殺虫剤を噴霧、必要以上に奴をめがけて噴霧した。部屋は霧状の殺虫剤で充満した。俺は息を殺して、さらに追い打ちと隙間めがけて噴霧した。これで少しは安心した。しばらくは出てこないだろう、もしくはかなり弱って仲間に肩でも担がれて助けられて逃げ帰ったことだろう。そのうちにハウスを買ってこよう、と思ったのさ」

黒い奴「俺は隙間で音を立てないようにじっとしていた。奴は出て行ったようだ。きっと戻ってきて殺虫剤でも降りかけることだろう。いないうちにもう一度水を飲みにチャレンジだ。運が良ければあきらめて外出でもするだろう。そうなればゆっくりと渇いたのどに潤いを。そしたらいきなり物音も立てずに、プシューっと来たから、またまた隙間に逃げ戻った。しつこいったらありゃない。何度も何度も親の敵を討つかのように大量にかけやがる。自分だって身体に良くないと思ったよ。しかし人間って奴は油断も隙もありゃしない。こっちの裏をかくようにやってくる。俺たちの方が地球上で何倍も多くの時間生きて君臨しているのに、やりたい放題だ。しばらくは体勢を立て直して時間を見て出てこよう」

ご主人様「それから俺は店に行って2箱ほど買ってきた。合計4つの新設計ハウスを組み立てて壁の隙間にまるで長屋のように並べ設置した。奴はそのうち隙を見てやってくるだろう。しかし何とも良い臭いがしてくる。その臭いの元へ足を踏み入れたら最後、あららのら足がくっついてイヤーァン、何とかしてとなる。一軒目を何とか切り抜けたとする。またもやおいしい臭いの部屋が。またまた足を取られる。まさか4軒を無事すり抜けられる凄腕はいないだろう。間違えないようにセットしてと、ありゃ手にくっついた、かなり強力だね」

黒い奴「暗がりで聞き耳を立てていたら、やってきてなんかしていった。帰った後室内には何とも良い臭いがしてきた。腹も空いていたので出かけてみたら見事なお家が4軒も並んでいるではないか。そっと伺って見たら、おいしい主はここからだった。ゆっくりゆっくり部屋に入ったんだ、そしたらこれだべさ、ネバネバ、イヤーァンとなって立ち往生。仲間に応援を頼んだが未だ救出部隊は到着せず、その間にご主人様は何回か用を足しに来たが、中をのぞこうともしていない。きっと恐ろしいんだな」

やがて秋が来た。黒い奴は食い物、水、救援もむなしくご臨終。平成22年に死んだが未だ生きていて120歳という生存記録がゴキブリ区役所には保管されていて最長寿である。
時は平成23年121歳の誕生日を迎えようとしていた。ご主人様は61歳になった。
(山木康世)

「津軽鉄道各驛停車」快走

2010年08月27日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

子供たちが35人ほど音楽室に集合していた。学校の名前は五所川原小学校である。
連絡しておいた先生がロビーに現れて、その後3階の教室で合唱部の子供たちとご対面となったわけである。そこで自己紹介もそこそこに「津軽鉄道各驛停車」の歌詞を配布、歌ってもらうことにした。初め、子供たちは緊張の面持ちだったが、教室内に3回、4回と歌が流れるうちに溶け始め大いなる合唱の輪ができあがった。僕はまるで音楽の先生のように右手を高くかざして、心の中で「歌え、歌え!」と語りかけていた。大成功となった。ありがとう、名も知らぬ五所川原小の生徒たち。

合唱終了後、担当の女性教師が一台のギターを持ってきて「何か一曲歌ってもらえませんか?昔学生の頃コンサートにも行ったことがありますので…」
黒いビニールケースの中から取りだした一台のフォークギター。いやとは言えぬ性分、快く手に取りチューニングを始めていた。よく見ると真っ黒に錆びた弦が6本、これは年季が行っている、ここまで錆びるとはギター弦恐ろしや。今までこの世でお目にかかったことのない弦である。やがて1弦目を合わせ始めた。そのときピンという音と共にはじけ切れた。このギターの持ち主には何と言って詫びを入れたらいいか。これほどまでにギターを弾いて弦が錆びると言うことは非常に熱心な人か、はたまた無精な人に違いない。まぁこの際どちらでも良い。生徒たちと僕をガッチリこの真っ黒に錆びたギター弦のフォークギターが取り持ってくれた幸運に涙していた。

5本の弦で、まだ君たちが生まれる前のずっとずっと前のデビュー曲を歌います。幾つだったんですかと聞かれた。うれしい質問である。「23歳の9月、24歳になる歳だったよ」
先生も生徒も静聴してくれて得も言われぬ感動に酔いしれていた。こんな場面誰が想像していただろう。今朝起きたときだって、学校に足を踏み入れたときだって、君たちに会ったときだってまだ想像もしていなかった音楽会。何も言葉は要らないね。こうして僕の孫のような子供たちを前にして、昔々学生だった頃にコンサートで見たという先生たちを前に一つのドラマがあっという間に生まれて消えていった。

生きていると言うことは斯くも自然に、予想外のことが起きて何ともなく終わってしまう。
「津軽鉄道各驛停車」はこの後、地元の太鼓を入れて、津軽鉄道社長の「出発進行ー!」で走り始めた。
根津で雑魚音の歌人の精神が吹き込まれ、遠く離れた五所川原で完成の域と相成った。すばらしい傑作ができあがった。
「ふきのとう」は過去である。その「ふきのとう」を凌駕した楽曲が完成した瞬間でもある。
あぁ音楽人生は他人が思っているより数倍すばらしく、僕を前へ前へ推し進めてくれる。まるで津軽鉄道のストーブ列車のように大地を覆うほどの雪をはね飛ばして快走してゆく。やってまれ、やってまれ、いざ見参!!
作詞の藤田先生、チョー活きの良いカッコイイ「津軽鉄道各驛停車」整いました!
(山木康世)

ゴミの正体 その2

2010年08月26日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

実際に僕はプリンターを買いに出かけ箱は要らないのだが、と言った。初め困惑していた店員は売らないわけにはいかない。しかし箱の処理にも困った顔をしていた。問題が両者にはっきり見えてきた瞬間である。僕は駐車場に止めた車にむき出しで袋に入れられた新製品を運び込んだ。何の問題も起きていない。むしろ部屋は買い換えのプリンターが増えただけだ。あれで箱と一緒に買い込んでいたら、大事なスペースを不要なもので占領されるところだった。
この断ると言うことで問題が解決するかというとそうではない。「思い出」という表には顔を出さない内面のやっかいものが顔を出す。商品を買ったときの「こんな思い出」など抱え込まない方が良いのに、なぜか長時間家で保存しておくと脳細胞に深く深く刻み込まれて行き、捨てられないという事態に陥る。部屋はどんどん狭くなる。思い出は頭にどんどん蓄積される。

お願いです、企業の皆様、昔のように量り売り、新聞紙梱包(魚介類をパックしているあの白い柔らかい石油製品でどれだけの石油が浪費されていることか)の復活、過剰包装廃止(お菓子も実に近頃は手が込んだ商品になったもんだ)、木の箱のように頑丈な段ボール、過剰なプチプチの保護シートの廃止、電話会社等の毎月送付される領収書、請求書封筒のご大層さの廃止(これなどはがき一枚で足りる)、ポストに容赦なく入れられる企業のチラシ各種の迷惑(すぐに捨てられる運命なのだが、その中に大事な通知が混じり込んでいるかもしれない)ペットボトル全盛の華やかな時代、以上ご検討ください。

ゴミ問題がもしも精神的病を冒すと言うのなら、その前に最後の最後に残された手段と言えば、無人島で裸族となるしかない。
(山木康世)

ゴミの正体 その1

2010年08月25日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

中野区の燃えるゴミの日は火曜日と金曜日。まぁ各家庭から平均的に出るゴミがあふれる曜日なのだろう。すさまじい量のゴミが毎週二回、全国の各家庭から出る。そのために今では有料のゴミ袋でしか出せないような市町村も現れる始末。人口は減少しているというのに、いったいどこから蜘蛛の子のように沸きはい出てくるのか。

本屋に行ったとする。買ってきて部屋でまず本屋の袋を開ける。そして本には下腹部にふんどしのような帯が回してある。何のための帯なのか不思議である。それからその下にご丁寧に上着が被せられている。汚しちゃいけないという配慮か。その下に肝心の本の本当の顔が出てくる。実にシンプルな殺風景な顔だ。これだけで相当量の要らないもの、ゴミが出ている。ほとんどの人は本来不要なものを抱え込むことになる。

今度はPCソフトを買いに出かけたとする。売り場には本屋のごとく多くのソフトが並んでいる。今は、昔ほどソフトは売れていないだろう。PCから直接ダウンロードをする人が多いはずだ。これは音楽ソフトについても同じことが言える。
部屋でまず電気屋の派手な袋を開けると、これまた派手な大きな箱が現れる。箱にはイラストが書かれ、各種説明がなされている。買う前の説明である。中を開けしまっては一切の返却ができないためである。何千円もするソフトを箱の外に書かれた説明だけで買うというのだから、買う方もかなりの踏ん切りが必要である。箱を開けると本体のソフトが収納されたCDが出てくる。これも保護のためかプラスティックのケース付きである。CDはそんなにヤワではなく、表面に傷がついたくらいではデータが壊れることはない。割れてしまえばお仕舞いであるが、割れたという話も聞いたことはない。同じく説明書や案内書がごっそりと同梱されていて重量感を増すような工夫がなされている。買い手が買うときの重さも重要と考えてのことか。肝心の中身は数秒でインスツール。後は再インスツールまで不要と言うわけだ。そんな控えのソフト群の箱がが山のように積み上げられている。

その他電化製品などの過剰な梱包、買いやすい値段の服、家庭用品、日曜大工製品がために、いつのまにか不要なゴミの集積所のごとく増え続けるゴミで占領されてしまった部屋。部屋を探しに行った日のことを思い出す。せっかくましな部屋を見つけたと思ったのにこのざまだ。しかしある程度予測のできた事態ではある。
地球規模でゴミの問題を何とかしようとしている。その陰でせっせ、せっせと企業は過剰なゴミを作り続け売りつけている。かごに乗る人担ぐ人、そのまたわらじを作る人。みんなつながっていることは美しいのだがやっかいである。みんなの連帯責任ということである。
誰が悪いのではなく、まず末端の消費者が要らないと言えば良いのである。店頭で断れば良いだけの話だ。

明日に続く・・・
(山木康世)

梨元 勝「恐縮ですが」

2010年08月24日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

梨元さんが亡くなった。肺ガンであったという。
一度だけ仕事でご一緒した。
「自己流」という30周年記念事業をした年、今は亡き井上氏の運びで「思えば遠くへ来たもんだ」のレコーディングを行った。6年前になるのかなぁ。
打ち合わせと称して、夏に夜の渋谷の居酒屋でスタッフ数人と梨元さんをお待ちした。遅れて店に来た梨元さんは実に普通の人だった。マネージャーもおらず、テレビで見る人、そのものだった。

レコーディングでは味のある歌いっぷりを披露してくれた。僕はギター担当である。
その二日間しかお会いしていないが、訃報を聞いたとき信じられなかった。たばこも吸わないのに肺ガンで亡くなった。たばこのみには朗報かもしれない。しかし明らかに因果関係が出ているのに国の甘い野放し状態がよく分からない。
吸う方は、このご時世ますます肝に銘じなければいけないね。

世を挙げて健康志向である。2人に1人はガンで亡くなるというのに、テレビでは医者、評論家がガンをネタにおしゃべりするだけで、具体的に動こうとする気配は感じない。
若い頃ツアーで一緒に回ったメンバーが実に4人も他界している。そのうち3人がガンだ。みんな喫煙者だった。
たばこだけではないが、一番のやり玉に挙がっている犯人を黙って見過ごす事件のような見方もできる。その最中に何人もの犠牲者が出ても、いっこうに警察は捕まえる気配はない。
喫煙者の中毒という問題は問題外である。中毒者は他の病気では即隔離、治療専念であろう。それが空港ロビーにおける鳥かごのような、かごの中で吸引する中毒者。何とかならないか、あの哀れな姿。

医者の枠を超えて、国を超えてみんなで取り組むべく一番の問題は宇宙や深海ではなくガンの正体解明ではないかとつくづく思う。夜ごと行われる必要もないのではないかと思われるほどの道路ひっくり返し事業、巨大ビル建設などのエネルギーとお金少しだけ解明に向ける姿勢が出てこないものか。
核三原則ではないが、もっと怖い身近なたばこの「吸わない、買わない、作らない」というたばこ三原則の徹底を望む一禁煙者の声を上げてみた。

「恐縮です」と流行語にまでしてしまった梨元さんは、向こう岸に頭を下げて逝ってしまった。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
(山木康世)

大江戸再訪雑魚音会 壱之章音始末記

2010年08月23日 | カテゴリー: ミュージック・コラム

第一回目の山木塾の開講である。開校なのか、開口なのか、とりあえず「根津の甚八」6時集合。ちなみに同名の俳優は真田十勇士の一人、根津甚八から取ったものと想像す。「寝ず」の甚八だったそうだが、ことの真意は定かではなく作り話という話もあってロマンをかき立てる。

目的は荒んだ現代において、一服の涼を得んがために築100年になろうとする旧い建物での雑魚音会。地下鉄千代田線を降りて地上へ這い上がると、何とも江戸情緒の界隈に出る。それにしても今日も暑い。汗が吹き出る猛暑である。まぁ表通りはそれほど他の区と違いはないのだが、一歩路地へ踏み込むと旧いのである。良い感じの大江戸の臭いがしてくるのである。北海道出のせいもあろうが東京の顔の広さをいやと言うほど見せつけられる時でもある。道の向こうから山本周五郎が、池波正太郎が、とこよなく下町を愛した大作家連が歩いてくるようなたたずまいなのである。

通常の雑魚寝はあまり良い意味で書かれていない。一つの大部屋に何人もの人が一緒に寝泊まりするというもの。民間風習の一つに、年越しの夜に、その他一定の日に、神社などに男女が集合して、枕席を共にした。ともあるのでかなりいかがわしい寝方でもある。もちろん今夜はそんないかがわしさはみじんもない。字が「寝」ではなく「音」であるので、当然雑魚の音楽の集まりというところである。この雑魚音は小生が考えた造語である。音楽人としてはかなり良いセンスの造語であると自負している。今夜は「音」の雑魚であるが「根」の雑魚も考えている。
雑魚とは種々入り交じった小魚の群れと言う感じだろう。大物、小物の集まりともなる。あの巨体の鯨や鮫を支えているのは雑魚やプランクトンである。彼ら小物でも大勢集まるエネルギーが大物を支えている。世の中だって同じだ。もしも本当に現代において大物と呼べる人物がいたとしたら、その人を支えているのは我ら雑魚の集まりなのである。雑魚が泳ぎを止めたら巨体は生きてゆけない。

なんと終了時間を見たら驚いた。3時間45分に及ぶ塾であった。何も難しいことはない。難しい言葉も必要ない。ただひととき、正直な雑魚の食べ飲み交わしである。交流である。
その昔、美原には居酒屋どころか店と呼べるものが売店一軒しかない。雑貨屋が一軒である。子供たちには少々関係ないが、当時の大人たちには息抜きの場が必要だったのだろう。持ち回りで「お呼ばれ」と呼ばれる飲み会を行っていた。そこにお邪魔した子供が一人両親と一緒に写した写真が一枚残っている。生涯あまり幼い頃の写真が残っていない小生のお気に入りの家族の肖像の一枚である。

生きてもいない人間が我が国には100人以上戸籍上生きているという信じられないニュースが届く現代。本当に寂しい時代になったものである。霊園やお寺の広告が華々しく流れる陰に、こんな寂しいニュースが流れる時代になったのである。姥捨て山、ならぬ姥捨て国、世界に冠たる長寿国家日本。
平成になってかなり浮かれた感じの世の中になってしまった。道ばたで倒れている人に誰も目を向けたがらないような時代になってはならない。人間という尊厳のある「人」の道倒れである。お茶の間のテレビでレギュラー化しているお笑いが、ニュースショーが流れている一見平和なこの時間にも忘れてはいけない雑魚の道倒れを見過ごしてはいけない。
我らこれからもっともっと直面するやもしれぬ孤独という道倒れにならぬよう、せめてまず第一歩、こんな雑魚音の会を開講してみた。
「津軽鉄道各驛停車」に音としての足跡を、この夜残してくれた熟成した塾生に乾杯である。
(山木康世)

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